花粉
「いよいよ花粉の季節です。みなさん、お出かけの際はマスクなどを身につけ、花粉症対策をしましょう」
ブラウン管の中で、爽やかなお天気お姉さんが教えてくれる。
○ ○ ○
「久しぶりだね~。洋ちゃんこそ、元気してた?」
電話口のミナの声は溌剌として、それでいて妙に懐かしく。
ミナがまだ俺のことを「洋ちゃん」って呼んでくれているという事実に軽い眩暈を覚えた。
「ミナの声聞いたの結構久しぶりだから、なんか懐かしいよ」
「私も思った!でも、洋ちゃんの声ちょっと大人っぽくなったね」
――とんでもない、って心の中で思った。
あの頃から俺はなにも成長してない。
俺はまだ君のこと引きずってる。
だから、前に進みたくて、だから、君に電話をかけたんだ。
「洋ちゃん、就職活動の調子どう?」
「あれ?ミナにはまだ言ってなかったっけ?
地元で公務員として働くことになった」
ミナに就職活動のことなんか話してるわけない。
ミナと疎遠になったのは今から半年も前の話だ。
僕は就職活動を通して、嘘のつき方だけ巧くなった。
「え~。凄いじゃん、洋ちゃん。おめでとう!私は京都で銀行員。京都の銀行に立ち寄った際は、私を探してね?」
なんか社交辞令が上手くなったね、ミナ。
ミナも成長したってことかな。
「うん、探す。ミナも俺のこと、見つけたら声かけろよな」
笑いながらそう返したら、微妙な間が空いた。
俺はその気持ちの悪い間を埋めるようにして、次の話題を探す。
「ミナ。……さっきくれたメールだけどさ。あれ、どういうこと?」
(――夏休みに、洋ちゃんの地元による用事がたまたま出来たから、今度遊びに行っていい?)
十五分前にミナから届いたメールにはそう書いてあった。
半年ぶりのメール。
携帯に浮かぶ「ミナ」の二文字だけが不気味に浮かんで見えた。
ミナのメールの文字を読んでから、胸の動悸が止まらない。
「どういうことって、そのまんまだよ。今度そっちに行くから、一緒に遊ばない?」
○ ○ ○
ミナとは半年前に“疎遠”になった。
別れたわけじゃない。
別れるほどミナのこと嫌いになった訳じゃない。
でも、ミナと一緒にいたいとも思わなくなってしまったあの頃。
当時の俺にはまだ、ミナに別れを告げ出す勇気もなかった。
○ ○ ○
ミナと俺はどちらも経験がなかった。
要するに、俺は童貞で、ミナは処女だった。
どうして、俺たちが付き合うことになったのか、今考えても不思議だ。
俺が大学二年の頃、ふらっと立ち寄った喫茶店に、ミナはいた。
名前はそう、たしか、「るのわーる」だった気がする。
ミナはウェイトレスで、俺は客だった。
ミナは黒いハイソックスをはいて、フリルの前掛けのついた制服を着ていた。
凛とした佇まいと、射抜くような瞳。
俺は一目でイチコロだった。
入店してから、俺は気付かれないようにチラチラと彼女の方ばかり見ていたみたい。
というのも、後から聞いた話、ミナはその時僕の視線に気づいていたのだそうだ。
(ぎらついた目が面白かった)と、ミナは言っていた。
俺はオレンジジュースと、頼むはずのなかったライス大盛りカレーを注文し、料理が来るまでの間、ミナの背中を眺め続けた。
――ミナがこっちを向いている間は、窓の外の桜を眺めているふりをして。
その内、ミナが僕のテーブルにオレンジジュースとカレーを持ってきた。
不安定なグラスに注がれたオレンジジュースと重量のあるカレーとを同じお盆に載せたせいで、お盆は今にもひっくりかえってしまうんじゃないかと思った。
それでも、ミナはこういう場面に慣れているのか、なかなか器用な手さばきでお盆のバランスを保ちながら、なんとか僕のテーブルまで料理を運んできた。
正直、心の中では拍手喝さい。
出来ることなら、当時のミナに思いっきりハグしてやりたかった。
でも、ミナはお盆をテーブルに置ききる前に、僕がテーブルに立てかけた鞄に足を引っ掛けて、盛大に転んだ。
宙に浮かぶオレンジジュース。
そして、ライス大盛りカレー。
残酷な汚物が僕に降り注ぐまでの数秒間、走馬灯のように、ミナのスカートから覗く桜色したパンツに僕の目はくぎ付けになっていた。
「愛してます。付き合って下さい」
ジュースとカレーにまみれた僕は、気付いたらミナにそう告白していた。
○ ○ ○
「ミナ。……そのことだけど。
……もう、俺たち終わりにしないか?
このままミナと俺が中途半端な気持ちで付きあったって、良いことなんかないと思うんだ」
………。
長い沈黙。
電話の先でミナの気配が消えて、そして、むせび泣くような声が微かに聞こえた。
「なんでそんなこというの?洋ちゃん。
もしかして、好きって気持ちは私の一方通行だったの?
この半年間、洋ちゃんのこと忘れたことなんて一度もなかった。
だから……。」
むせぶ声を堪えて話すミナ。
しかし、最後の方は嗚咽が交じって聞き取れなくなっていった。
「なぁ、ミナ。聞き分けないこというなよ。
いったん無くなったらもう元に戻らないものだってあんだよ。
な、ミナももう大人だろ?」
聞き分けないことを言ってるのは俺だ。
完全に俺が悪い。
でも、もうミナのことを愛してやれないんだ。
もし、この先ミナと付き合ったってそれは、恋愛感情じゃなくて、同情になってしまう。
全部俺のわがままだって分かってる。
だから、(失ったらもう元に戻らない)っていうのは俺の本音なんだ。
どうしたら、納得してくれる?
「私、大人なんかじゃない。まだまだ子供だよ。洋ちゃん無しじゃ生きていけないんだよ!」
――突き刺さるミナの言葉。
……俺だって、今もミナを愛してるって言いたい。抱きしめてやりたい。
でも、もう無理なんだ。
偽善になっちまうんだ。
○ ○ ○
電話口でむせび泣くミナに、俺は何も答えられなかった。
「……せめて、友達でいさせて」
最後にミナが言った言葉がやけに胸に残る。
○ ○ ○
奥手の俺が何故あの時不意にミナに告白してしまったのか。
俺はまだ分からないでいる。
そして、突然の告白を彼女がすんなりと受け入れてしまったのかも。
――俺たちは、まだ子供だったのかもしれない。
「愛」がどういうものかを知りたくて、むさぼるように相手を“愛”し合った
でも、俺は気付いてしまったんだ。
「愛」なんて初めから無かったってことに。
だから、偽りの恋を演じることに嫌気がさしたんだ。
風邪をひいたような恋心は幻で、俺たちの恋は季節の終わりとともに急激に熱を失っていった。
でも、それはきっと正常なことなんだと思う。
それが大人になるってことなんだ。
ミナにもそれが分かる日がきっと来る。
俺の電話がその契機になればいいな。
○ ○ ○
「突発性恋愛症候群ウイルスが今年も猛威を奮っています。
みなさん、お出かけの際は異性を直視しないようサングラスを着用してお出かけください。
以上、お天気お姉さんでした」