真夏のコミュニケーション☆
ちょっとグロイかもわかりません。
アンモニアの臭い。それと温かみ。
彼が私の顔に向けて小便をしている。小便は額の少し上の辺りにぶつかり、水しぶきを上げながら、顎に向かって垂れていく。彼の温かな黄金の液体が皮膚を撫でていく。濡れ髪を受けているみたいだ、と私は思う。私は想像する。シャワーから出てきた一人の女が、美しい濡れ髪を私の顔の上を撫でさせるのを。私はさらに想像する。彼女の暖かい肉食の吐息を私が嗅ぐのを。小便を私に浴びせている彼は、私を見ていない。夜になると思い出す嫌な記憶の予兆を感じている。背中にコンクリートの壁があった。それから足元にタイル張りの床が。彼の小便は私の顎を離れ、胸元を湿らせる。髪の毛を首筋に張り付かせ、耳の裏にかすかな痒みを起こさせる。小便は回りながら私の腕を降りていく。床にたどり着くと、タイルの正方形の溝を黄金色に縁取っていく。二つ目の正方形が今、完成しようとしている。やがてそれらは私たちの足元に意味深な模様を浮かばせるだろう。
彼がペニスを震わせる。
私はそれを見ている。身体は重い。腫れた私の目から見るその景色は、歪んで霞んで見えた。彼のペニスから小便の残りが飛ぶたびに、私はどこかで見た幼い少年の後ろ姿を思い出す。彼がズボンにペニスをしまうのを、私は黙って見ている。ペニスは太く、醜く歪んでいる。例え暗闇の中に私たちがいようとも、彼のペニスの醜さは失われることはない、草原のブルーのリボンのように。私は彼を見上げながら、いつやってくるとも知れない暴力の予兆を嗅ぎとろうとしている。私は黙ったままこの部屋に充満する、血なまぐさい臭いと取り戻せない過去の喜びを感じ、彼を見つめ続ける。虫の鳴き声が響くその空間に、彼のペニスのあった跡だけが残った。
彼は振り返った。私は彼を見ている。彼は興奮し、時には逆上さえしながら、何かを探している。彼はいつも何か探している。この部屋では彼は何かを探すために生きていて、私は彼を見つめるために生きている。彼は用具入れの小部屋を開ける。これで何度目だろう。そして中に入っているいろんな用具を乱暴にかき乱し、大きな音を立てるのだ。彼は自分の身体の大きさを自覚していないみたいだ。
私は彼に忠告する。「そこには何もないよ」
ところが喉が潰れてうまく話せない。掠れた小さな音が出る。
「なんだ?」彼は言う。中腰で止まり、こちらを見る。
恐ろしい暗闇の中に彼の不機嫌な表情が浮かんでいる。彼はしばらくそうしている。何かを期待しているのだ。
「おい」彼は言う。「なんだ?」もう一度。「お前が喋ったのか?」
私は黙っている。声が出ないのだ。
彼は持っていたモップを放り投げる。大きな音が鳴る。彼が威嚇のために大きな音を立てたというのは明白だ。それから彼は小便用便器の近くの小窓から外を覗く。小さな声で何か呟く。
「もうすぐ夜があけちまう」彼は言う。
それからこんなふうに続ける。
「僕は人間が他人に抱く親密感には、ほとほと呆れちまうね」これは違う。これは僕の頭に発生する死のノイズだ。彼はこんなふうには話さない。
「来たところでどうってことねえがな」そうそうこう言ったのだ。
彼は窓を閉める。誰もこないさ、と私は思う。誰かが来ることを期待しているのはもはや私ではなく、彼の方だ。
「暑いなクソ」そう言って彼は私の目の前までやってくる。腰をかがめる。
彼は腰をかがめる。私は彼を見つめる。彼は目を細めて私の顔を見つめる。点検するように、しつこく。彼の暖かな吐息がかかる。肉食の暴力を持った人間のリアルな暖かみだ。彼は私の目線にまで降りてきて、互いの目と目を同じ高さに合わせる。彼の薄茶色い瞳が見える。急所そのもののように、儚く、崩れやすい瞳だ。彼はそれをさらけ出して私を見つめる。
私は右手を動かして小鼻の横をかこうとする。右手は思っていたよりもずっと重くて、すごくスローに動く。私がそうしようとしている間、彼は不審そうに私を見つめる。何かを期待しているのだ。ようやくの想いで私が小鼻をかき終えると、彼は再びもとの位置に収まった私の右手を見て逆上する。こんなふうに、私たちの間には眼に見えない歪みがある。私の行為は、時々彼への挑発へと変化する。
彼はさっき放り投げたモップを持って戻ってくる。私は彼を見つめている。彼の大きな肩幅を。短く縮れた柔らかな髪を。それから分厚い下唇や、幼い頃の彼を想像させる丸い鼻や、その下の窪みを。彼の耳は大きく、正面を向いていて、彼の顔をお猿さんのように見せる。太い首の下で、Tシャツの胸元が獣っぽく湿っている。
「どこなんだおい」彼は言う。モップの反対側の先っちょで、私の顔を押す。
私はしゃべらない。しゃべれない。
「おい」彼は言う。私を押す力が強くなる。
「どこに隠したんだ、おい」彼はそう言う。
彼が何を探しているのか私は知らない。そのことを彼は知らない。私たちの間の歪みは致命的だ。
彼は時々、とてもだらだらしゃべる。「なあおいおまえの、そのかお見ているとなあ、はらがたってくるんだあこっちはよ。おれにはわかるんだおまえがなにをかんがえているとかよ」
彼はモップを押し付ける。再び。
私は話そうとする。彼のために。彼の捜し物のために。「知らないんだよ、本当に」しかし声は出ない。それに言ったところで現状は変わらないだろう。私の口はかすかに開いただけだった。私は諦めて再び口を閉じる。結果的に言えば、口元で小さな粘膜の音を立てたに過ぎない。私の口元を期待しながら見守っていた彼が、侮辱されたと考えるのも仕方のないことなのだ。
彼はモップを持ち変える。私はそれを眺めている。私たちの役割はとても明確なので、お互いに間違えようがない。彼が動き、私が見つめる。
銀色の鉄がモップの先には付いている。ところどころに尖り、ところどころに平たい。その姿が彼の暴力的な内面に、とても心地良く映るのだろう。彼はその銀色の鉄を私の頭に振り下ろす。景色が歪む。彼の興奮した赤い顔を見ていたはずの私は、いつの間にか彼の汚れた灰色の靴を見ている。それが横になり、タイルの感触を感じ、何度も景色の振動を味わう。歪んだり、伸びたり、震えたり。何度も何度も彼は私の頭にモップを打ちつける。はじめのうち、痛みを伴った彼の暴力は、今では私によって観察の対象として興味深く扱われている。彼の暴力はときどき痛くて、時々、なんでだかわからないけど心地良い。激しく震える景色を感じながら、私はなんらかの快感を味わっている。これは彼の暴力によって呼び起こされた私の中の破壊願望が満たされるせいかも知れない。私は床に倒れている。彼はさらにモップを振り下ろす。
暴力が終わったとき、私は安心を味わう。言いようのない、深く穏やかな休息を。
時には生活感のあるムードがこの便所に満ちることがある。ちょうど今がその時だ。彼は便所に備え付けられた手洗い場で手を洗っている。腰をかがめて、水をあちこちに跳ねさせながら。その姿は不思議と主婦を思わせる。洗濯をする女だとか、エプロンを巻いた中年の女性だとか。水の勢いは必要をはるかに越えている。きっと最大までひねったせいだろう。彼は水の音をバシャバシャたてながら、水しぶきを拡散させ、ほとんど暴力的にまで高められたその仕草で、手についた血を洗い流そうとする。これはトータルで言えば、洗浄だろうか暴力だろうか?
「くそ、くそ」彼は言う。これは彼の口癖だ。一体何を慌てる必要があるのだろう?彼にはほかの誰もが持ち得なかった圧倒的な暴力があるのに。
彼は時々、深く沈黙する。その沈黙はあまりにも深いので、私には図り知れない。彼は私と反対の位置に腰掛け、冷たい灰色の壁に背中を当てて、便所に漂う不吉な印象に身を任せる。手は口元に添えている。彼は何を考えているのだろう?私はほとんど動かすことの出来ない首をなんとか動かして、錆びついたロボットみたいな音が身体の内側から鳴るのを聞きながら、出来るだけ多く彼を視界に入れようとする。彼は何を考えているのだろう?彼は時々、深く沈黙する。
彼は立ち上がった。私は瞳を動かした。彼の汚れた灰色の靴が私のそばを通過していく。彼の足音が聞えた。彼は便所から出て行った。便所のタイルに身体を横たえながら、私は遠ざかる彼の足音を聞いている。
静けさがやってきた。それから孤独感が。彼がさっきまで居たところには今はだれもいない。彼の影もない。彼の体臭や、私には計り知れなく深い彼の思索や、彼の口臭もない。なにもない。便所は静かに、ゆっくりと誰にも気づかれないように密かに、部屋を孤独感で満たしていく。親鳥が幼い雛をその羽でゆっくりと覆い隠すように。
彼は戻ってきた。手に巨大なはさみを持っている。それはあまりにも巨大なので、両手でないと取り扱えない。
「なあ」と彼は言った。それからは何も言わなかった。
彼は私の顔を覗き込むように、すぐそばまで顔を近づけ、私の瞳を見つめる。彼は努めて冷酷なふうを装っている。しかし、彼の瞳に恐怖のゆらめきがあるのを私は感じ取る。彼は何に怯えているのだろう?彼が怯えなくてはならないものなんて、彼の外には何一つありはしないのに。
瞳から視線を離すと、彼はサビ付きかけたはさみの間に私の人差し指を置く。彼の顔は職人の顔になっている。あるいは技術士や、修理工の顔に。牧場の管理者に、パルプを閉める配管工に。彼が私に見せようとした冷酷さは消えている。それに伴って恐怖も消えている。彼は何も考えず、彼の仕事をただ遂行する。私の指ははさみによって両端から少しずつ圧迫され、痛みが限界を越えた時、私から離れた。苦痛がほとばしる中に、射精のような快感を伴いながら血が流れるのを私は感じた。視界に映る彼の無表情な顔にさえ、性的なニュアンスを見つけようとしてしまう。私は性に支配されたらしい。
「なあ」と彼は言った。再び。彼は短い言葉で多くを語ろうとする。つまり、彼は詩人なのだ。
仕方ないな、という表情で彼は私の中指をはさみの間に置く。牧場の管理者が牛の乳を絞ろうとするみたいに。そうして彼は一本一本、黙って私の指を切り離していく。私が何かを語るか、私の指が全て無くなるまで。
それが義務的な作業であるみたいに。
彼は時々、ひどい興奮に支配されることがあった。いや、それは誰にでもあった。彼が特別なのではない。いずれにしても、彼は暴れた。モップの柄を折り、バケツを蹴飛ばし、トイレの個室のドアをひとつ、二度と開かないようにへこませた。それから彼はさらなる興奮へと登ろうとする。ほとんど誰もがそうであるように、彼もまた暴れたことによって自分の興奮を煽ったに過ぎなかったらしい。
彼は私の髪を掴んだ。私はもはやほんのわずかにしか動かなくなった瞳を動かして、かすかな彼の存在を感じるだけだった。私たちの関係は終わりかけている。彼は動く。これからも動く。しかし、私はそうはいかない。動き続ける彼を見つめ続けることは出来ない。この関係は終わるしかないのだ。とても寂しいけれど。
彼は私を持ち上げた。植物を植木から引っこ抜くみたいに。私はほとんど何も感じなかったが、下半身が置き去りにされるのには気づいた。
私たちは久しぶりに外へ出た。夜が明けかけている。
そこからは遠い街が見えた。街は丘の下に広く広がり、遠い先にある山のふもとにまで達している。大きな工場がひとつあるのを除いて、後は小さな民家がわずかにあるに過ぎない。風が吹いていた。山の向こうから吹く、乾燥した冬のような風が。既に目覚めている森が揺れ、一枚一枚の葉が結託して同じ方向に向かって一斉に動き崩れる。無邪気な鳥が鳴いている。地面の下で生命が躍動している。まだ姿を見せたばかりの日の光が、広い平坦な大地に、長い影を投げかける。
私が見ているのは記憶かも知れない。実際には目はかすんでいたのだから。
彼は斧を背負って戻ってくる。私は彼を見つめている。これは約束だからだ。彼は動き、私は彼を見つめる。彼の汗は乾いている。髪は縮れたままだ。辛い一晩をようやく過ぎた、疲れた男の表情があった。疲労を客観視する、緩く終わりかけたムードがあった。彼は腰をかがめて私の耳元で何かを囁く。
それから振りかぶって斧を私の頭に振り下ろす。これは混沌とした感覚だ。そこには途方もない喪失があった。彼が斧を振り下ろすたびに、私の過去は崩れ飛び散っていく。私の築いた友情や、信頼やそれから長く付き添った恋人の安心感も。実際には私の肉片が。それから最後に見ていた景色が。彼の表情が。私のかけがいのない人格や、一瞬ごとに奇跡のように保たれていた意識や、今になって気づく、ほんのわずかな希望が。彼が斧を振り下ろすたびにすべてが崩れ、私は肉片となって辺りの草原へ分散していく。私の中にあった貴重な断片が全て分離されたとき、彼はひたいの汗を拭いて私のもとから去っていく。彼の達成感となんらかの想いの乗った背中が遠ざかっていく。私は彼が最後に耳元で囁いた言葉を思い出している。
「違ったんだな、本当に」
これは多分、死のノイズだ。彼はこんなふうには話さないのだから。