歩く祠
ある日、僕の後ろに祠が立っていたんだ。
小学3年生の僕の家の裏には、用水路が流れている。お母さんは『賢治、危ないから、近付いちゃ駄目よ』と言ったけど、僕はその用水路沿いにある祠で遊ぶのが好きだった。その祠は、縁結びの神さまがいるとか、縁切りの神さまがいるとか、大人たちは色々言っていたけれど、僕には関係なかった。
「こんにちは」
祠は赤い鳥居の奥にひっそりと佇んでいた。屋根は苔むして、いかにもなにかが出てきそうな祠だった。僕は遊びに行くたびにお賽銭箱に5円玉を投げ入れた。5円玉は、”ご縁がありますように”というおまじないの意味があるとおじいちゃんは言った。
「お花が枯れているね」
祠に備えられた紫色の菊の花が枯れていたので、僕はたんぽぽの花を摘んでそっと供えた。たんぽぽの綿毛はふわふわと飛んで、祠を隠す、松の枝に引っ掛かった。来年の春には、黄色い花が咲くのかな。
「一緒に遊ぼう?今日はなにをする?」
僕は祠の周りで小石を集めた。その色は白や黒だったり、縞模様や斑点が付いていた。僕は息を殺し、ゆっくりと石を積んでいったけどすぐに崩れてしまって、その度に祠はクククと笑った。
「笑わないでよ!」
不貞腐れた僕は祠に座ってクッキーを食べ始めた。すると祠の扉がガタガタと揺れ始めた。それは『そのお菓子、私にも欲しい』と言っているようで、僕は仕方なくクッキーを半分に割って祠の前に置いた。すると扉は静かになって、僕と祠は一緒に『美味しいね』とクッキーを食べた。
ある雨の日のこと、テレビのニュースで川の水が溢れて用水路に流れ込んだとアナウンサーが目を大きくして早口でしゃべった。僕は祠のことが心配になって、台所でご飯を作るお母さんに内緒で長靴を履いた。ぱっと広げた黄色い傘はたんぽぽみたいだった。外に出ると風がとても強くて、祠のまわりに咲いていたたんぽぽは、濁った水の中で揺れていた。
(ホコラーは大丈夫かな・・・)
僕は祠のことをホコラーと名付けていた。お母さんやおじいちゃんは『祠が』と言うたびに、『あそこでは昔から気味悪いことがあるから』『昔、祠の近くで子供が行方不明になったんじゃ』と嫌な顔をするので悲しかった。そんなことを考えていると、横殴りの雨の向こうに祠が見えて来た。長靴の周りでは雨が跳ねて白くなっていた。ほっぺにあたる雨粒が痛い。
「ホコラー」
祠は水浸しで、お賽銭箱が濁った水に沈みかけていた。祠の扉が半分、川の水に浸かり、僕は慌てて駆け出した。その時だった。長靴が踏み出した場所は、用水路に掛かった橋ではなかった。ズボッと抜ける感触がして、僕の足は流れの早い濁流に飲み込まれた。
「アッ!」
僕の小さな身体はあっという間に用水路の中に飲み込まれてしまった。息をすることも出来なくて、耳の中にゴボゴボと水の泡が入るのが分かった。冷たい水が染みて服が重くなり、心臓がバクバクと鳴った。手で用水路の壁をつかもうとしたけれど、そのでこぼこは水苔でツルツルと滑った。
(お母さん!おじいちゃん!)
その時だった。祠の扉がガタガタと鳴って僕の手首を誰かが握った。細い指だったけれど、グッと力強く握られた。『お母さんの笑顔が見たい』と思ったけど、目がくらんで真っ暗になった。そして、僕の身体の力は抜けて、意識が遠のいた。
「賢治!けんちゃん!」
そして次に気が付いた時は、お母さんとおじいちゃんが泣きながら僕を見つめていた。天井の蛍光灯がとても眩しくて白い部屋だった。
「賢治、どうやって助かったの?」
お母さんは僕の手をぎゅっと握った。
「祠の前で倒れていたんじゃが・・・どうしてあんな場所で・・・」
おじいちゃんは不思議そうな顔をしていた。僕は手首がチクチクして、パジャマの袖をめくった。そしておじいちゃんが『警察官がパトロールで用水の近くを通ったら、祠の前で賢治がびしょ濡れで倒れててな・・・・』と呟いた。僕の手首には、4本の指の赤い痕がくっきり残っていた。
小学3年生だった僕は、家の裏にある古びた祠が用水路の水で流されないかと心配になった。台風が近づく夕暮れ時、僕はお母さんに内緒でそっと家を抜け出した。ぱっと開いた傘は黄色いたんぽぽの花のようだった。けれどそのあと、僕は用水路に落ちて流された。
でも、その時のことはよく覚えていない。『賢治は用水路に落ちたんじゃ・・・そんで、祠の前で見つかったんじゃ』黄色い傘はグシャグシャに折れ曲がり、用水路下流の側溝に引っ掛かっていたとおじいちゃんは言った。
(誰が助けてくれたんだろう)
不思議な体験をした僕の手首には、4本指の赤い痕が残っている。
(普通、手で握ったら・・・5本だよね?)
消灯時間も過ぎ、静まりかえった病院のベッドの上で、僕はパジャマの袖をめくった。看護師さんが懐中電灯を持って廊下を歩いている。白い明かりが上下左右に動いた。
(あの時、僕は)
仄暗い病室でも赤い指の痕はクッキリと見えた。それは本当に細くて、先っぽは鳥の爪みたいにとんがっていた。
(変なの、でもホコラー大丈夫かな)
外の雨はどんどん強くなり、僕は泥水に浸かっていた祠とプカプカと浮いていた賽銭箱を思い出し、胸がチクリと痛んだ。この暴風雨でホコラーが壊れていないか、賽銭箱が流されていないか、松の枝が折れていないかと不安になった。『でも!大丈夫だよね!』僕は自分に言い聞かせた。けれど、胸のざわめきは落ち着かなかった。
「ホコラー・・・・」
僕は、窓の外を見ようと思い、ベッドから起き上がった。ベッドが軋んだ音で、隣で眠っていたお母さんが『ううん』と寝返りを打った。心臓がドキドキした。僕は静かに両脚を床に下ろした。ヒヤリとした感触に背中まで震え上がり、僕は慌ててスリッパを履いた。
ぐーごぉぉ ぐーごぉぉ
耳を澄ませると、一緒の病室に入院しているおばさんたちは、いびきをかいて眠っていた。チッチッチッと、壁掛け時計の針の音が響いている。僕はゴクリと息を飲み込んで、間仕切りのカーテンをゆっくりとつかんだ。サラサラとした手触りのカーテンから顔を出して見たけれど、そこには誰もいなかった。
(よかった、みんな寝てる)
ホッとした僕は、またゆっくりとカーテンを閉じて、音を立てないように窓へと向かった。それはとても悪いことをしているような気がして、心臓が跳ね、耳鳴りがした。窓のカーテンまでもう少しというところで、なにかが開いたり閉じたりする音が聞こえた。
(あれ?この音・・・・なんだっけ?)
それはどこかで聞いたような懐かしい音だった。
(この音、この音って!)
突然、僕の緊張は一気に高まり、指先が小刻みに震えた。それはどこかで聞いた、祠の扉がギシギシ震えるような音だった。病室の窓を激しい雨と風が叩き、ガラスをガタガタと鳴らしている。僕がカーテンを開けようと腕を伸ばした時、ゆらりと黒い影が揺れ、ククククと笑う声がした。
「ホコラー!?ホコラーなの!?」
僕がカーテンを開けるとそこには、暴風雨で今にも薙ぎ倒されそうな暗い竹林が広がっているだけだった。僕は夢中で、錆びた鍵をやっとの思いで外し、窓ガラスを開けた。ものすごい勢いで風と雨粒が病室に傾れ込み、痛いくらいに顔を叩いた。あっという間に僕はびしょ濡れになった。
「ホコラー!」
僕はホコラーの名前を叫び、雨の中をじっと見たけど、胸がドキドキして涙が出てきた。病室の中の間仕切りカーテンは羽根のように舞い上がり、寝ていたおばちゃんたちは『なに!?どうしたの!』『風が寒いよ!閉めて!』と次々にベッドで起き上がった。
「賢治、なにをしてるの!?」
お母さんは眼鏡を掛けてベッドから飛び起きると、僕を窓から引き剥がそうとお腹に手を回した。僕はその手を振り払い、手足を忙しなく動かした。けれど僕は簡単に床へと倒れ込み、尻餅をついた。その騒ぎに、看護師さんが駆け付け、『危ないから下がっていて下さい!』と、慌てて窓ガラスを閉め鍵を掛けた。
「賢治、あなた、なにをしてるの!?寝ぼけたの!?」
「だって、ホコラーがいたんだよ?」
お母さんは怒っていたけれど、『良かった、良かった』と涙を流して、僕を痛いくらいに抱きしめた。僕の病室は3階で、タンポポの綿毛がふわりと舞っていた。
数日後、僕は病院を退院した。まだ手首がチクチクしたけど、お母さんの笑顔を見て安心した
「いいお天気だね」
「台風がいなくなったからね」
家に帰る車の窓から、干上がった用水路が見えた。『なんで水がないの?』『用水路の掃除をするからよ』川の水はせき止められ、用水路の川底が見えていた。そこには、水苔の生えた石が剥き出しになり、川の上流から流されて来た大木が横たわっていた。
「お母さん!カニだよ!」
「ほんとだ、いっぱいいるのね」
水たまりでフナやコイが跳ね、サワガニが横歩きで岩の下に潜って行った。緩やかなカーブを曲がると、大きな松の木が見えて来た。祠の脇に植えられている2本の松だ。
「ねぇ、お母さん」
「なぁに?」
ホコラーと石を積んだり、クッキーを分けた日を思い出し、胸がドキドキした。
「ホコラーは大丈夫?」
「ホコラー?あぁ、祠ね?自分で見てごらんなさい」
僕は、お母さんは意地悪だと思った。お母さんが運転する車はスピードを落とした。すると、泥だらけの駐車場の向こうに、苔むした、えんじ色の屋根が見えて来た。
「アッ!ホコラーだ!」
僕の5円玉が詰まった賽銭箱は流されて無くなっていたけれど、ホコラーは無事だった。けれど扉の半分まで水に浸かったらしく、乾いた泥が白くなってこびりついていた。そして、松の枝は折れずに残り、たんぽぽは泥に埋もれていた。泥だらけのホコラーを見て、僕を助けてくれた友達がまだそこにいる気がした。
お母さんに『あとで行ってみてもいい?』と聞いたけれど、『今日はお家で休みなさい』と玄関の鍵を掛けられてしまった。『早くホコラーに会いたかったのに』内緒でホコラーに会いに行くことが出来なくなった僕は、リビングのソファーでテレビを見ていた。
「おい、賢治」
おじいちゃんが僕を呼んだ。(なんだろう、珍しいな)幼稚園の時、おじいちゃんのお皿を割ってから、部屋に入れてくれなかった。そのおじいちゃんが僕を呼んでいる。僕は、用水路に勝手に行ったことを叱られるのかと思い、廊下の音を立てないように、恐る恐る部屋を覗いた。
「なに?」
「ちょっと座りなさい」
やっぱり怒られるんだと思った僕は、肩をすくめて目をギュッとつむった。すると、カサカサと紙の音がして(なんだろう)僕はちょっとだけ薄目で振り向いた。座敷テーブルには、赤や青、黄色の鮮やかな色紙が広げてあった。
「おじいちゃん、なに、これ?」
「折り紙じゃ、見てわからんのか」
「わかるよ!」
僕が顔を赤くして怒ると、おじいちゃんは目を細めて笑った。視線を落とすと、おじいちゃんの膝の上には色鮮やかな”鶴”が糸で繋がれていた。その色は虹のように綺麗で、おじいちゃんが持って立ち上がると膝まであった。僕は思わず『うわぁ!』と声を上げていた。
「賢治、”鶴”を一緒に折らんか?」
「僕が?なんで?」
おじいちゃんは、これまで家の裏の祠のことを『あの祠は気味が悪い』『賢治、近寄っちゃ駄目だぞ』と嫌っていたけれど、台風の日、僕が用水路に落ちた時に助けてくれたのは祠の神様だと思ったらしい。おじいちゃんは僕が見つかった夜、祠をじっと見て呟いていたと、お母さんが言っていた
「賢治、お前がホコラーと呼んで可愛がったから、助けてくれたんじゃろ」
僕がホコラーと毎日のように、石積みをしたり一緒にお菓子を食べたりして仲良く遊んでいたから助けてくれたに違いないと、おじいちゃんは『うん、うん』と頷きながら僕の頭を撫でた。
「あの祠の神様は”縁結びの神様”だったんじゃな・・・」
おじいちゃんは器用な手付きで”鶴”を折りながらそう言った。
「なんの”縁結び”なの?」
「賢治をこの世と結ぶ”縁結び”じゃ・・・」
「この世?」
「祠の神様がおらんかったら賢治は死んどった」
僕は初めて、自分がなにをしていたのか気付いてゾッとした。『死んだらもう、お母さんやおじいちゃん・・・友達にも会えなかったんだ』僕は、4本の指の赤い痕を見た。手首の赤い痕を握り、ホコラーに心からありがとうと思った。
「この”鶴”はどうするの?」
「祠にお納めするんじゃ、賢治を助けて下さってありがとうございました、って」
僕の目は輝いた。おじいちゃんがホコラーのことを認めてくれたことが嬉しかった。『僕!金色の折り紙がいい!』ホコラーなら、5円玉の金色の”鶴”を喜ぶと思った。僕はおじいちゃんと一緒に”鶴”を折った。
翌日、おじいちゃんと僕は千羽鶴を持ってホコラーに会いに行った。朝、お母さんに『安静にね』と言われたけど、金色の鶴を手に持つとワクワクした。
「千羽には足りんけれど、ホコラーさんは喜ぶじゃろ」
「ホコラーさんじゃないよ、ホコラーだよ!」
おじいちゃんは目を細め、肩をすくめて笑った。退院後、足取りは少し重かったけど、外の明るい空とポケットの5円玉のキラキラが嬉しかった。
「あれ?」
祠の周りが賑やかで、大勢の人がバケツや雑巾を手に持っていた。おじさんやおばさんが、額に汗を流しながら、祠にこびりついた泥を拭き取っていた。そして、立派な千羽鶴が吊るされていた。僕はおじいちゃんと作った”折り鶴”が小さく見えて少し恥ずかしかった。おじいちゃんは『ほれ、賢治の鶴もお供えするぞ』と背中を軽く押した。それを見たおばちゃんが顔を上げた。
「いやいや、お疲れさまです」
「あらまぁ、賢治くんも”鶴”、作って来たの!偉いねぇ!」
「・・・うん」
おばちゃんに”折り鶴”を手渡すと、それは祠の垣根に下げられた。おばちゃんは最後に形を整え、満足げに手を叩いた。『賢治くん、用水路に落ちたんだって?』『いやぁ、助かってよかったね』そう言って大人たちは笑うけれど、大人たちの目が僕に集まり、顔が熱くなった。村のみんなが僕のことを知っているようで居心地が悪かった。
「ねぇ、おじいちゃん」
おじいちゃんは近所の人との立ち話に夢中で、僕のことをチラッと見ただけだった。その中で、ひとり黙々と祠を拭き続けるおじさんがいた。(みんなとお話ししないのかな?)ホコラーはどんどん綺麗になって、扉を小さくパタンと開け閉めしながら、クククと小さく笑ったような気がした。僕もそっと笑い返した。するとそのおじさんも手を止め、ホコラーを眺めていた。
「ホコラーの言葉がわかるの?」
「なんだ、ホコラーってのは」
「これだよ」
僕が祠を指差すと、おじさんは眉間にシワを寄せて口をへの字にした。
「妙ちくりんな名前をつけんじゃねぇ、貴船様ってんだ」
僕は初めて、ホコラーに名前があることを知った。ホコラーは僕の友達なのに、村の神様でもあるんだな、と不思議だった。
(貴船ホコラーっていうんだ)
なんだかお笑い芸人みたいだな、と思いながら僕も雑巾を絞ってホコラーを綺麗にすることにした。けれど僕は雑巾をうまく絞ることが出来なくて、ベシャベシャと水が滴った。『貸せ』『・・・?』『絞ってやる』おじさんは、無口で顔は怖いけれど優しくて真面目な人だった。ホコラーはすっかり綺麗になって、嬉しそうにクククと笑った。
「・・・・あ」
お賽銭箱はないけれど、祠の前には5円玉が積み上がっていた。それだけホコラーがこの村で大切にされて、頼られているのだと思った。なんだか嬉しかった。僕もポケットから5円玉を取り出すと、おじさんもポケットから2枚の5円玉を取り出してホコラーにお供えをした。
「おじさん、それじゃ10円だよ」
「いいんだ」
「いいんだ、面白いね」
「面白くなんかねぇ」
おじさんは祠のまえに立つと、深々とお辞儀をしてパンパンと手を叩き、目をつむり、静かに何か呟いていた。僕も真似をして手を叩いた。するとおじさんは僕の頭をグシャグシャに撫でて、みんなに軽く手を挙げると無言で用水路沿いの道を歩いて行った。すると大人たちが小声で話し始めた。『ほら、あそこのお家』『あぁ、そうそう。奥さんが』『縁切りに通っているらしいね』と眉をひそめた。
(縁切りなんだ)
あのおじさんは”縁切り”のお願いでホコラーに会いに来ている、ちょっと寂しそうな横顔を思い出した。みんなに挨拶をして家に帰る途中、あのおじさんのことを聞いた。『あのおじさん、5円玉、2枚置いて行ったよ。どうして?』おじいちゃんは一瞬、気まずそうにしたけど、ゆっくりとしゃべった。
「賢治、5たす5はいくつじゃ?」
「10だよ!」
僕は得意げに答えた。
「10円は”とおえん”なんじゃよ」
「遠縁?」
「縁を遠くする、”縁切り”ということじゃな」
「ふーん」
その時、おじいちゃんの手にちょっと力が入った。
「貴船様は古くから村を見とるんじゃ」
顔を見上げるといつもと違う顔をしていた。おじいちゃんは眉を下げ、遠くの用水路をじっと見ていた。僕は用水路の脇で、たんぽぽの綿毛が風に舞うのを見つけ、ホコラーに届くような気がした。その時、祠の扉がカタンと鳴り、僕とおじいちゃんは顔を見合わせた。
僕にはお父さんがいない。幼稚園の頃から、父の日の似顔絵はおじいちゃんの顔を描いていた。僕が住んでいるこの古い和風家屋は、おじいちゃんの家だ。お母さんは小さな僕を抱いて、障子がカタカタ鳴るこの家に引っ越して来た。
「ねぇお母さん」
「なに?」
月明かりが障子を照らす静かな夜、絵本を閉じたお母さんがタオルケットを掛け直してくれた。ウトウトしながら、父の日の似顔絵を思い出し、そっと聞いた。
「僕のお父さんはどこにいるの?」
お母さんの指先がピクっと震え、手の動きが止まった。僕が不思議そうに見上げると、電気スタンドの灯りに浮かび上がったお母さんの顔は悲しそうだった。僕は聞いてはいけないことに触れてしまったのだと胸がチクリと痛み、布団から飛び起きてお母さんに抱きついていた。すると、お母さんは僕の頭に顔を埋めて『ごめんね、ごめんね』と謝った。いつも笑顔のお母さんが泣いていることに驚いた僕は身動きが取れなかった。
「けんちゃん、ごめんね」
「うん、大丈夫だよ?お母さん、泣かないで」
僕はお母さんの背中に腕を伸ばすと、大きな背中をギュッと抱きしめた。窓ガラスがカタカタと風に揺れ、障子に黒い影が揺らめいたような気がした。
あれから3年、僕はおじいちゃんと毎日のように貴船様にお参りし、台風の思い出やホコラーの笑いを胸に秘めてきた。そして小学6年生の進級式を迎えた。それまで僕は、毎日のようにおじいちゃんと5円玉を持ってホコラーにお参りに行った。
お供えの花が枯れていれば、おじいちゃんが準備した黄色い菊の花束と、僕はタンポポの花を花立に活けた。手を合わせる時、おじいちゃんは『賢治を助けて下さってありがとうございます』と小さく呟いていた。僕も手を合わせて『ホコラー、助けてくれてありがとう』と心の中でお辞儀をした。
ククク
祠の扉が一瞬音を立て、おじいちゃんは目を丸くして驚いた。
「賢治、今のはなんじゃ?」
おじいちゃんは祠をじっと見た。
「風じゃない?」
「そ、そうか・・・祠の戸が動いたような気がしたんじゃが」
「風だよ、風」
僕は、ホコラーのことは、『どうせ誰も信じてくれないだろう』と考えるようになっていた。それで、大人や友達には内緒にすることにした。けれど僕の手首には、茶色くなった4本指の痕が残っている。そっとそれに触れるたび、僕は『本当は誰が助けてくれたんだろう』と不思議で、あの時、ホコラーと目が合った気がした。
「ねぇ、おじいちゃん」
ある日僕は、おじいちゃんに『ホコラーと一緒に写真を撮って欲しい』とお願いした。いつも一緒にいたいと思った。するとおじいちゃんは怖い顔になって僕の両肩を握った。
「賢治、貴船様で写真を撮っちゃ駄目だ」
「どうして?」
「貴船様を、家に連れて来ちゃ駄目だ、昔・・・」
「昔、なに?」
「なんでもない」
最近、貴船様が”縁結びのスポット10選”として全国誌で紹介され、大勢の観光客が村を訪れるようになっていた。用水路の道路は車のタイヤの跡が沢山ついて、カップルたちはVサインをして記念写真を撮っていた。『ああ、まただ!』マナーの悪い観光客は、貴船様の鳥居にゴミを捨てた。そのたびに近所のおばちゃんは苦々しい顔をした。『あの人たちにはよくないことが起こるよ』そう言ってゴミを袋に拾っていた。
(僕には優しいのに)
おじいちゃんもおばちゃんも、貴船様を怖いものだと言っていた。3年間、雨の日もホコラーに5円玉を供え、クククと笑う音を聞くたび、友達だと思っていた。ホコラーは僕の友達なのに、全然怖くないのに不思議だった。
夏休み
小学6年生の夏休み、貴船様の騒ぎも落ち着いた日、僕はおじいちゃん自慢の手打ちそばを食べていた。
縁側から吹き込む夏の風に、ガラスの風鈴の舌がクルクルと回り、涼しげな音色がリビングに響いた。蕎麦の実色の麺は弾力があり美味しかったけど、きしめんみたいな麺に笑い、ホコラーと食べたクッキーを思い出して胸がチクリとした。
(最近、ホコラーに会いに行ってないな)
僕は少年野球に入って、毎日、小学校のグラウンドに通っていた。そして家に帰れば夏休みの宿題で頭を悩ませ、自然と貴船様の祠から足が遠のいていた。そんなことを考えぼんやりしていると、お母さんが僕の顔を見た。『ネギも食べなさい』お母さん特製の少し甘ったるい蕎麦つゆに浮かぶネギを恨めしく見ていると『大人になれないわよ』と言われ、渋々ネギを口に運んで臭みに顔をしかめた。
ドンドンドン!ドンドンドン!
その時、突然玄関の扉を叩く音が響いた。
「おい!いるんだろ!おい!」
その声を聞いたお母さんは蕎麦つゆの茶碗をテーブルに置き、おじいちゃんは蕎麦を茹でる手を止めガスレンジの火を消した。その男の人の怒鳴り声は激しく、まるで雷が天井に落ちて来たようだった。お母さんの顔色は青ざめ、おじいちゃんが『奥の座敷に行きなさい』と僕とお母さんの背中を押した。お母さんは僕の身体を抱きしめて、座敷の隅に小さく縮こまった。
「・・・ワシが行く」
おじいちゃんはエプロンを外すと玄関へ向かった。お母さんは怯え、ガタガタと震えていた。僕はその手をギュッと握った。男の人とおじいちゃんは玄関の扉越しに話をしていたけれど、おじいちゃんのあんな厳しい怒鳴り声はこれまで聞いたことがなかった。なにを言い合っているのかよく聞き取れなかったけれど、その男の人は僕の名前を叫んでいた。とうとう男の人は玄関の扉を足で蹴り始めた。古い扉の蝶番はガタガタと音を立て、今にも外れそうだった。観念したおじいちゃんは扉の鍵を開けた。
「あいつはどこだ!賢治をよこせ!」
男の人はおじいちゃんを突き飛ばした。テーブルの上の蕎麦が畳に飛び散り、蕎麦つゆの茶碗が割れる音がした。いつの間にか僕の身体は冷たくなって、歯の噛み合わせがガタガタと鳴った。僕とお母さんは抱きしめあい、襖をじっと見た。
「ここか!」
襖が勢いよく開き、派手なシャツとサングラスを掛けた大きな男の人が座敷に入ってきた。首には金色の太いネックレスが光っていた。僕はホコラーを思い出した。男の人は毛むくじゃらの腕で僕の腕を掴むと、お母さんから引き剥がした。その力は強かったけれど、用水路に落ちた時に感じた手とは全然違い、ゾワッと気持ちが悪かった。『賢治、探したぞ』サングラスの奥の目は蛇みたいだった。『い、嫌だ』『なに言ってるんだ、おまえの父ちゃんだぞ』それを聞いた瞬間、胸が締め付けられ、(お母さんが泣いたのはこの人?)と頭がぐちゃぐちゃになった
「お母さん?」
僕はお母さんの顔を振り返った。お母さんは目を見開いて、激しく首を横に振った。そして、『あの人じゃない』と小さく呟き、怯えた目で僕を見た。
「賢治、逃げろ!」
「お、おじいちゃん!」
「逃げるんじゃ!」
おじいちゃんが真っ赤な顔でその男の人に抱きついて叫んだ。僕は無我夢中で手を振り払うと、裸足で外に飛び出した。熱いアスファルトに足が焼けそうで、涙がこぼれた。縁側からおじいちゃんとあの男の人が激しく揉み合い、茶碗が割れる音が聞こえてきた。僕は右左、どちらに逃げようかと迷ったけれど、そこでホコラーの姿が浮かんだ。
(ホコラー!ホコラー!)
僕は震える足をもつれさせて、貴船様へと向かった。それはまるでスローモーションのようで、いつもは近い距離をとても遠く感じた。息が上がる、心臓が恐怖で張り裂けそうにドクドクと脈打った。いつの間にか僕は涙を流していた。
「ホコラー!助けて!」
僕は松葉の陰に隠れるように身をかがめ、貴船様の祠の裏で息を潜めた。ホコラーはいつものようにクククと笑うことはなく、怒っているようだった。祠の扉が激しくバタンバタンと開いたり閉まったりを繰り返した。僕はホコラーに守られているような気がして、深呼吸をすると足の震えが小さくなった。
ピーポーピーポー
しばらくすると警察の車のサイレンが鳴り響いて、僕の家の近くで止まった。『なに、どうしたの!?』近所のおじさんやおばさんが家から顔を出した。あの男の人は警察に捕まったらしく、おじいちゃんとお母さんが僕を探しに来た。僕はお母さんに抱きついて声を出して泣いた。
ククク
その時、僕は貴船様が”縁切り”の神様だということを思い出した。僕は心の中で『ホコラー、あの男の人と縁が切れますように!お願いします!』と何度も唱えた。すると祠の扉がゆっくりと開いて、見えないなにかが外に這い出したような気がした。
数日後
「お母さん!あの人が!」
テレビのニュース番組に、派手なシャツを着た男の人の写真が映し出された。アナウンサーはその事件を淡々と読み上げた。
ーーーー(49歳)さんは路上で通り魔に遭い、鋭利な物で刺され死亡しました
ニュースを見た僕は、(ホコラー、縁を切ってくれたの?)と震え、4本指の痕を見つめた。
夏休みのあの事件から数年、僕の父親らしき人物が通り魔に遭って亡くなったことは、我が家でタブーだった。僕もあえて尋ねなかったし、母は笑顔で料理を作り、おじいちゃんは静かに蕎麦を打ち、僕らは貴船様をそっと避ける日々だった。
(ホコラーに会いに行こうかな)
高校3年生の夏、教室の窓から見える青空の下、僕はあの日のホコラーを思い出しながら教科書のページをぼんやりとめくっていた。ホコラーの縁切りは僕らを守ったけど、殺人事件という重さに胸がざわつき、(本当に良かったのか)と夜中に考えることがあった。タンポポの綿毛がカーテンの風に揺れ、遠くからクククとホコラーの笑い声が聞こえたような気がした。
(大きくなった僕を見て、ホコラーは驚くかな)
僕は財布に5円玉を入れ、黄色い菊の花束を買った。用水路の道を上流に向かって歩くと、会いたい気持ちと畏れが交互に押し寄せた。ホコラーの存在は超常現象だと僕は気付いた。現に今、貴船様に近付くにつれ、手首の4本指の痕がチクチク疼き、『鳥の爪みたい・・・通り魔の刃物と関係ある?』と考えると、背筋がゾッとした。
(僕のことを、覚えているかな・・・忘れちゃったかな)
僕は貴船様の赤い鳥居の前に立った。相変わらず松の木が濃い影を落とし、涼しい風が汗ばむ首筋をなでた。僕はハンカチで首筋を流れる汗を拭いて深呼吸をした。サラサラと流れる用水の流れに、虹色の千羽鶴が映えて美しかった。ただ、僕の目線だけが高くなって、貴船様は変わらず厳かな雰囲気に包まれていた。祠の前でしゃがみ、枯れた花を黄色い菊に取り替え、『ただいま』と心で呟いた。その黄色は、あの日の黄色いタンポポの花を思わせた。
(新しくしたんだ)
賽銭箱は新しいものが置かれていた。真新しい賽銭箱に5円玉をソッと投げ入れた。乾いた音が箱の中で響いた。村の人たちが貴船様を守っていると思い、嬉しかった。僕は祠の前で手を合わせると(ただいま、ホコラー・・・あの時はありがとう)と小さく呟いた。するとクククと笑い声が聞こえ、確かに祠の扉が静かに開いた。それはまるで『おかえり』と言っているような気がした。
「ホコラー、クッキーを持って来たよ。一緒に食べよう」
扉は静かに閉まった。僕は祠の隣に腰掛けるとクッキーを半分に割った。ククク・・・僕は、ホコラーが覚えていてくれたことが嬉しかった。(あれ、なんだろう?)ふと見ると、赤い鳥居の向こうに立て看板があった。回り込んで見た僕は後頭部を殴られたような衝撃を覚えた。
「リゾート計画、なんだよこれ・・・観光客が増えたから?」
その看板には、リゾートホテルを建設する計画で、貴船様は村の外れに移転すると書かれていた。僕は唇を噛み、握り拳を作った。
(ホコラー、今度は僕がホコラーを守るよ)
祠の扉がカタカタと揺れた。
僕は村役場に掛け合い工事の中断ができないかと詰め寄った。そして村の家々を回ってリゾート計画反対の署名を募ったが反応は悪かった。『賢治、村はリゾート計画には賛成なんじゃよ』おじいちゃんは蕎麦を打ちながら声を落とした。
「どうして!あんなに貴船様を大事にしていたのに!」
「今の村を救うにはそれしかないのよ・・・」
母は申し訳なさそうに目を伏せた。
「貴船様を壊すわけじゃないんじゃ、移動するだけなんじゃ」
祖父は眉を下げて口篭った。
「おじいちゃんは賛成なの!?」
母と祖父は黙り込んでしまった。子どもの頃、一緒に千羽鶴を供えた日を思い出し、胸が締め付けられた。けれど、特に目立った産業もない村の人口は目減りするばかりで、傷んだ村道を直すことも出来ないほど財政的にも困窮していた。賢治は絶望を抱いて貴船様へと向かった。
「ホコラーごめん。僕ひとりじゃなにも出来なかったよ」
するとクククと笑い声と一緒に祠の扉がガタガタと鳴った。それはまるで、『ありがとう』と言っているようだった。僕は声が震え、祠に額を付けて泣いた。すると細い指が賢治の頭を撫でた。
(やっぱり、用水路に落ちた僕を助けてくれたのはホコラーだったんだね)
手首の4本の痕がチクチク疼き、(ホコラー、ずっと僕を守ってくれる?)と涙ながらに思った。
高校3年生の夏も終わりを告げ、とうとうリゾートホテル計画が本格的に始まった。チェーンソーの空を切り裂くような音が響き渡り、周囲の杉の木立が伐採され次々に運び出されていく。掘り起こした土砂を運び出すダンプカーが林道を往来するようになり、僕の家もその振動で激しく揺れ、窓ガラスがガタガタと鳴った。
(なんだよこれ、なんなんだよこれ!)
僕は署名を募った日やホコラーとクッキーを分けた思い出がよぎり、拳を強く握った。経済的理由で、自らの山や田畠を売り渡した村人たちは、日々変わりゆく祖先代々受け継いできた景色に胸を痛め、涙を流した。そして、貴船様との歴史に、『移転しても守れるのか』と呟いた。賢治は行き場のない怒りを感じながら、ホコラーに会いに行った。5円玉を賽銭箱に落とすと、黄色い菊の花を花立に入れ、祠の扉をじっと見つめた。
「ホコラー、明日だよ」
祠の扉がクククと震え、『頑張るよ』と聞こえた気がした。
貴船様の移転作業は村人の希望もあり、大安吉日に行われることになった。移転作業は曳家工法で、貴船様を解体せずにパイプを建物の下に敷いて転がして移動することになった。誰もがその作業の無事を祈り、貴船様には千羽鶴や菊の花束が供えられていた。賽銭箱は難なく移転先へと運ばれた。(・・・良かった)村人の誰もが胸を撫で下ろした。次は祠だった。
「オーライオーライ、ストーップ!」
村人の間に緊張感が走った。貴船様にワイヤーが掛けられた。タンポポをむしり取るようにゆっくりと吊り上げられた。(頼む!無事で!頑張れ、ホコラー!)賢治は両手を組むと天にその工事の成功を祈った。村人の誰もが固唾を呑む中、貴船様は地面から持ち上がり、移動のために並べられたパイプの上に置かれた。
(・・・・やった!)
パイプの上に慎重に置かれた貴船様はその上をゆっくりと転がり始めた。工事の成功を確信したその時、パイプの一本が石に乗り上げた。あっという間の出来事だった。作業を見守っていた村人から悲鳴が上がった。斜めに傾いた貴船様は波打ち際の砂の城が崩れるように、ガラガラと音を立てて倒れてしまった。
「ホコラー!」
僕は無我夢中で、制止する工事作業員の手を振り払って見るも無惨に姿を変えた、貴船様に駆け寄った。苔むした、えんじ色の屋根の下敷きになった祠は真っ二つに割れ、破片があちらこちらに散乱していた。(僕が守れなかった)と涙が溢れ、僕は割れた祠に手を伸ばした。
その瞬間だった。
割れた祠から黒い煙が噴き出し、空へと駆け上がっていった。それは他の誰にも見えず、賢治の目にだけ映った。
(・・・ホコラー?どこに行くの?)
クククと笑い声が聞こえ、ふわりと白いタンポポの綿毛が賢治の手のひらへと落ちて来た。それは『どこにも行かないよ』と言っているようだった。
貴船様が壊れてから、リゾートホテル建設用地で不可思議な出来事が続いた。
重機が突然止まり、作業員が足を挫き、本社役員が熱で倒れ、村では『貴船様の呪いか』とざわついた。それは神主の2度目の地鎮祭を以てしても収まる気配はなく、工事は中断。事実上、リゾートホテル建設は白紙に戻った。
貴船様が崩れて数か月、新しい神社がその場所に建った。東京の大学に進学することになった僕は、村を発つ朝に5円玉とクッキー、黄色い菊を手に、貴船様を訪れた。移転時に傷がついた賽銭箱に5円玉を投げ入れると、花立に菊の花束を立て、祠のまえにクッキーを供えた。そして、両手を合わせて『いって来ます』と小さく呟いた。けれど祠の扉は開くことはなく、あの笑い声も聞こえなかった。
(ホコラー・・・どこかに行ってしまったんだね)
僕は用水路で助けられた日、クッキーを分けた日を思い、涙がにじんだ。新しい祠は空虚な木の箱のようで、クククの笑いも、細い指の温かさもなかった。村は”縁結び”と”縁切り”の神を失い、静かに変わっていく気がした。母も祖父も、『貴船様はもう・・』と目を伏せた。村はタンポポの綿毛さえ寂しく舞うだけだった。
月曜日の気怠い朝日が水平線から顔を出した。僕は鮨詰め状態の電車に揺られ毎日同じ場所へと向かう。その繰り返しを鬱陶しいと思いながらも厳守している姿はアリによく似ている。しかも働きアリではなく、闇雲に右往左往している役立たずのアリだ。
(・・・ふぅ)
僕は、コンクリートの谷間に住んでいた。マンションの窓を開けても見えるのは隣のビルの壁。薄曇りの空に、大きな溜め息が出た。
「賢治!」
「なんだよ」
僕は夏の喧騒を満喫していた。
「お、今日のゼミ、代返頼むわ」
「マジかよ」
ゼミナールの仲間や友達との日々は賑やかで楽しかった。それでも時々、ホコラーの気配を感じることがある。ホコラーのクククや用水路で助けられた日を思い出すと、手首の痕がチリチリと痛み、胸がチクリとした。
ある晩、友達とビールやつまみを用意して家飲みをしていた時のことだった。『腹減ったな』『そうだな』買い出しに行くのも面倒なのでウーバーイートを利用しようということになった。
ピーンポーン
意外と早くインターフォンが鳴り玄関に急ぐと、黒い服の男性が無言でハンバーガーの袋を差し出した。僕はその指先に違和感を感じた。
「ちょっと待って下さい、財布を取って来ます」
財布を取りに戻ろうと踵を返すと、クククと懐かしい笑いが背中に響いた。
(指が・・・4本・・・ホコラーなのか!?)
僕が振り向くとそこにはハンバーガーの袋だけが残されていた。風がスッと吹き、たんぽぽの綿毛のような気配が消えた。ホコラーは今でも僕を守ってくれているのかもしれない。僕の胸は温かなものでざわめいた。
了
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