1 一人暮らしのはずだった
これが――俺の王国だ。
六畳一間、押し入れ付き、天井の木目は年輪みたいにぐるぐるしてて、歩くたびにミシミシと悲鳴を上げる。キッチンは蛇口がレトロで、ひねると水が「ちょろ……ちょろ……」と時間差で出てくる。
エアコンはおじいちゃんの形見かな? ってくらいの骨董感。
でも、ここがいい。ここしか勝たん。
「へっへっへ。自由、爆誕」
ダンボールの山のてっぺんから、俺――新城悠真は勝者のポーズをきめた。
高校まで実家暮らしで、夜十一時以降のゲームは「おやすみ」の合図とともに強制終了。
ついに来たぞ、ノンストップ深夜帯。カップ麺を丼で食べても怒られない社会。洗濯物を畳まなくても誰にも咎められない天国。
……いや、洗濯はまあ、畳まないと自分が困るけど。
部屋の鍵は丸いノブで、差し込んで回すとコトンと優しい音がした。
アパートの名前は「白鳩荘」。看板の「鳩」のイラストが手描き感満載で、ちょっと顔が怖い。
ついさっき、大家さんのばあちゃん――佐久間さんに挨拶したら、目尻に笑い皺を寄せてこう言った。
「ここはねぇ、すぐ慣れるよ。ちょっと『味』があるけどねぇ」
「『味』って、どんな味です?」
「うーん……お出汁?」
出汁の出る部屋ってなに。
突っ込む間もなく、ばあちゃんは湯呑みを俺に渡し、「困ったらいつでもおいで」と手を振って去っていった。
湯呑みは渋いのに、中身はスポーツドリンクだった。
さて。まずはネットだ。
文明の心臓。俺の王国の鼓動。ルーターを箱から取り出し、コンセントにぷすっと刺す。
「PPPOEってなに?」みたいな壁にぶち当たり、開通工事の書類を読み、三十分ほど格闘して――
「キタァアアア!」
スマホにWi-Fiマークが灯る。勝利のファンファーレが脳内再生された。
続いてテレビ。前の住人が置いていった小型テレビを恐る恐る電源オン。リモコンがベタベタするのは見ないふり。チャンネルは普通に映った。ニュースキャスターが「本日は穏やかな天気で――」と微笑む。
へへ。俺の心も穏やかです。平和に浸らせてください。
昼は、引っ越し祝いに豪勢に行く。
徒歩一分のコンビニで、からあげさんとジャンボカツサンド、あと『大学生だから』って理由でよく分からないエナドリを二本。戻ってきて、床に直置きで宴を開催する。
食べ終わったカスをちり紙で拭き取り、「あとでちゃんと掃除する」と誓う。
この『あとで』が積もり積もって山になるのを、人は知っている。
だが今日は特別、王の休息日だ。
風呂場チェック。
タイル張りで、ところどころヒビが走ってる。蛇口は二つで、赤い方からは熱湯、青い方からは冷たさの暴力。うまい配合を見つけるまで修行が必要だ。シャワーを捻ると、まず茶色い水が「おひさしぶりです」と出てきてから透明に戻る。
なるほど、これが出汁か。
洗濯機はベランダ。二槽式の年季ものだ。ふたを開けると、かすかに洗剤と太陽の残り香がする。前の住人、意外と綺麗好きだったのかもしれない。
よし、一発目の洗濯いくか。
引っ越し汗でびっしょりのTシャツ三枚とズボン、雑巾に昇格予定のタオルを放り込み、スイッチオン。ウィィィン、と頼りない音が鳴り、洗濯槽が回り出す。
ベランダから見える通りには、古い家と新しいカフェが同居していて、午後三時の光が眠たげに電線から覗いた。
ここで暮らすのか。なんか、悪くない。
「んで、ベッドは……ない」
敷布団を買い忘れたことに今さら気づく。やってしまった。
仕方ない、今夜はダンボールとの友情を育もう。だがゲーム機だけは、譲れない。テレビの前に本体を置き、配線を繋ぐ。起動音が鳴る。おかえり、相棒。
コントローラーを握って、脳内スケジュールを立て直す。
――夕方までに洗濯干す。夜はコンビニでアイス。二十三時、配信者のアーカイブ。二十四時からは、前から積んでたアクションRPGをノーマルで一気に……
ピンポン、とインターホンが鳴った。
ドキッとする。なんだこの部屋の音響、やたら響く。
玄関を開けると、さっきの大家さんが、今度は風呂敷を抱えて立っていた。
「はい。お赤飯」
「いや今日、そんなにお祝い感あります?」
「あるある。若い子が住むと、家が喜ぶのよ。――それと、夜はあんまり起きて騒がないようにね」
「えっと、壁が薄いからですか?」
「それもあるし……まあ、いろいろねぇ」
含みのある笑顔を残して、ばあちゃんは帰っていった。
風呂敷の中身は本当にお赤飯で、しかも美味しかった。
結局、コンビニアイスの枠が消滅して、夕飯は赤飯と味噌汁(インスタント)という渋すぎる構成になった。
夕暮れ。
洗濯機が止まり、俺は洗濯物をベランダに干す。Tシャツが風に揺れて、小さく旗みたいに翻る。やりきった感が胸に満ちる。
よし、大学生の自立、一歩前進。
日が落ちて、部屋は蛍光灯の白に満ちる。窓の外から虫の声。冷蔵庫は「ぶうう」と低く唸り、たまに「コトッ」と喉を鳴らした。
音が全部、少しずつ古い。
「さて、開幕オールナイト、いきますか」
テレビの音量を控えめにして、コントローラーを握る。
最初のステージで五回死んで、無言で難易度を『イージー』に下げる。俺の王国は、寛容だ。
気づけば、うとうとし始めていた。ダンボールの上は想定以上に固く、背中がボキボキ鳴る。目を閉じると、遠くで洗濯物が揺れる音。
風、かな。夜風けっこう入るな。網戸、閉めたっけ?
――カサ、カサ。
――コト。
――チリ……。
ん? いま、キッチンで、何か……。
気のせいだ。きっと冷凍庫の氷が降臨しただけ。
俺は毛布代わりのパーカーをかぶり、ゲームを一時停止にして、ごろりと横になる。まぶたが落ちる。
明日は大学の入学ガイダンス。初めての通学路。新しい友達。新しい生活。
――そう、ここから始まるんだ。俺の一人暮らし伝説が。
そのときはまだ知らなかった。
この部屋が『ひとり』を許さないことを。
それから数時間後――洗濯物が勝手に畳まれているなんて、想像もしないで。
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