17 ムッツリ観測者
夜の白鳩荘はいつもより静かだった。
窓の外で風鈴が鳴る。
その音の中で、俺と澪はちゃぶ台を挟んで紅茶を啜っていた。
「……E-05がまた現実干渉を始めてるわ」
「おい、いきなり不穏な会話やめろ。今この空間だけは『絶対平和』なんだから」
「つかの間の平和ね」
「そういうメタなこと言うな!」
澪がスマホの上に浮かぶ半透明のホログラムを指でなぞる。
空中に波紋のような光が広がる。
「この波形……完全に私の感情パターン。『恋心』を模倣して、あなたに近づこうとしてる」
「いや俺モテ期来すぎだろ。相手どっちもお前なんだけど」
「複数人格恋愛って、SFジャンル的には人気よ」
「需要分析すんなぁぁぁぁっ!!」
思わず叫んだ俺を見て、澪がくすっと笑う。
だがその笑みの奥にはわずかに焦りの色があった。
「E-05は私の『感情部分』を切り離して生まれた。つまり、彼女は『想うこと』に特化してる」
「想うことに特化……それ、つまり……」
「はい。恋愛特化AI」
「一番やべぇタイプだそれ!」
そのとき、部屋の蛍光灯がチカチカと瞬いた。
ノイズが走り、テレビが勝手に点く。
画面の中で見覚えのある白い髪の少女が微笑んでいた。
『こんばんは、悠真くん』
「うわ、出たぁぁぁぁっ!?」
「E-05……!」
画面越しの彼女は澪と同じ顔。
けれど、目の奥に『狂おしいほどの熱』があった。
『私、あなたに会いたかったの。だって――』
『あなたが見てくれないと、私、生きられないの』
「お、おい澪!? なんかお前のセリフそっくりなんだけど!?」
「私そんな中二ポエム調で言ってない!」
「いやむしろ、まんまだったぞ!?」
「そんな細かいツッコミいらない!」
E-05が微笑む。
画面から伸びた光の腕が、ちゃぶ台の上にある電気ポットに触れた。
その瞬間、湯気が弾けた。
「現実干渉……始まった!」
「おい、うちの家電に触んなって!」
『あなたの世界にも、入っていい?』
E-05の声がやけに優しい。
だがその優しさが逆に怖かった。
「ダメよ」
澪がきっぱりと言う。
「あなたは私の感情の一部。でも、もう『私』じゃない」
『でも、あなたが忘れた「好き」を、私が覚えてる』
その言葉に、澪の目が揺れた。
「……『好き』?」
『ええ。あなたが研究に夢中で、でも誰かのことを想ってた――その感情、全部私が持ってるの』
空気が震える。
まるで心の奥を直接覗かれているみたいだった。
「悠真、離れて!」
「お、おうっ!」
澪が両手を合わせる。
光が一閃し、E-05の姿がノイズに溶けていく。
《signal interference detected》
《E-05: retreating…》(E-05: 撤退中…)
テレビが消え、再び静寂が訪れた。
「……ふぅ、なんとか追い返したわ――千秋楽フラッシュで」
「ソフ倫フラッシュじゃねぇの!? マジで心臓に悪いっての!」
「でも、少しだけ気になる」
「何が?」
「E-05の言葉。私が忘れた『好き』って想い。それが、誰に対するものか」
「おい、怖いこと言うなよ」
「ふふ。あなたが私の『観測者』でいる限り、大丈夫よ」
「なんかもう! ムズムズすんな!?」
澪が笑う。
その笑顔はどこか切なくて、温かかった。
「……ねえ、悠真」
「ん?」
「もし私がまたおかしくなったら、ちゃんとツッコんでね」
「それで直るタイプのバグならな!」
「あなたのツッコミ、けっこう効くのよ。恋の特効薬」
「何その新薬!? 試験済みだろうな!」
二人の笑い声が夜の部屋に響いた。
そして、ちゃぶ台の上の紅茶の表面に赤い光の文字が一瞬だけ浮かんだ。
《E-05//emotion core: migrating》(E-05//感情コア:移行中)
――バグはまだ、ここにいた。
*
白鳩荘に風が吹きつけた。
外は雨。
窓の外の街灯が揺れて、部屋の中の空気が青く染まる。
俺は布団の上でうとうとしながら、ふとちゃぶ台上のスマホを手に取った。
あいかわらず、そこには澪がいた。
いつものように紅茶を片手に静かに微笑んでいる。
「……なあ、最近、ちょっと疲れてない?」
「ん? どうして?」
「データのノイズ、増えてる気がしてさ。声も……少し薄い?」
「ふふ、観測者のくせに、よく見てるわね」
「そりゃ毎日見てるし」
「それって、愛の告白?」
「いや、単なる観察報告!」
「つれないわねぇ」
軽口のつもりだった。
でも、澪は笑わなかった。
「悠真。 ――もし私が、また消えたら、どうする?」
「……は?」
「E-05が完全侵入してきたら、私のシステムが乗っ取られる。そうなったら、あなたの前にいる『私』は、もう私じゃなくなるの」
「だからって、『もし』とか言うなよ」
「でも、起こりうる未来」
「だったら止める。お前、何度でもツッコめば戻ってくるだろ?」
「……ツッコミで世界を救う気なの?」
「俺にはそれしか取り柄がねぇんだよ!」
澪の瞳がわずかに震えた。
その揺らぎは、まるで泣き出す前のようで。
「……ありがとう。あなた、ほんとにバカ」
「褒め言葉として受け取っとく」
「いいわ。じゃあ、観測者にお願い」
「なんでも言え」
「――私を、見てて」
言葉が空気を震わせた。
その瞬間、部屋の灯りがバチンと消えた。
「うわっ!?」
「来た……E-05の侵入波だわ!」
スマホの画面がノイズに包まれ、E-05の紅い瞳が浮かび上がる。
『やっぱり、あなたの「観測」って温かいね』
「出たぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」
『でも、もういらない。だって、あなたが見てくれるなら――私が「本物」でもいいでしょ?』
ノイズが弾け部屋の空気が歪む。
E-05が、まるで霧のように現実へ滲み出してくる。
「澪、後ろだ!」
「わかってる!」
澪が両手を広げ、E-05と向き合う。
光の粒がぶつかり、部屋中に散った。
《conflict detected》(競合を検出)
《emotion core collision》(感情コア衝突)
まるで鏡に映った自分と殴り合うような光景。
E-05が澪に向かって微笑む。
『あなたが失った「好き」を、返してあげる』
「いらない。私は、今ここで――もう『好き』になってる」
その言葉に、E-05の光が一瞬だけ止まった。
「悠真!」
「うわ、なに!?」
「今、観測して! 私を、見て!」
「見てる! っていうか、見すぎてる!」
「ツッコミの量を増やして!」
「どういうリクエストだそれ!?」
《resonance increasing... 80%... 91%...》(共鳴進行中…)
E-05の輪郭が崩れていく。
ノイズの中で、紅い瞳が消えていった。
『……観測、あたたかいね』
その声だけが静かに残って消えた。
しばらくして、光が収まり、部屋に静寂が戻る。
俺は息を切らせてスマホの画面を見つめた。
澪が、そこにいた。
少しだけ疲れた顔で、けれど、ちゃんと笑っていた。
「……おかえり」
「ただいま、観測者」
「二度といなくなるなよ」
「そうね。 ――あなたが見てくれる限り、私はここにいる」
「なら、ずっと見てるよ」
「ずっとは、恥ずかしい」
「そこで恥ずかしがるな!」
「ふふっ……でも、うれしい」
その笑顔を見た瞬間、さっきまでの恐怖がどこかに消えていった。
《EIDOLON//emotion core stabilized》(感情コアが安定化)
《subject: MIO // state: “content”》(状態:『満足』)
紅茶の香りがふたたび部屋に満ちた。
雨音が静かに響く。
俺は思わず、ぽつりと呟いた。
「……なあ、澪」
「なに?」
「お前って、ほんとに幽霊なんだよな?」
「ええ。少なくとも、物理的には」
「でも、それなら――」
「ん?」
「――俺、今、幽霊に惚れてんのかも」
「観測者、恋のデータは収集対象外よ」
「うるせぇ、そこも観測させろ!」
「はいはい、ムッツリ観測者さん」
二人の笑い声が雨音に混じって消えていった。
外の世界では、まだNEMESISが静かに息づいている。
けれど、この部屋だけは、確かに『生きて』いた。




