15 キャンパス幽霊
朝、白鳩荘に太陽の光が差し込んでいた。
昨日の嵐が嘘みたいに空はすっきり青い。
俺は布団の中で寝ぼけ眼をこすりながら、隣のちゃぶ台を見る。
そこには、皺ひとつないブラウスと長いまつ毛に柔らかな陽光をまとわせた白瀬澪が、紅茶を淹れていた。
「……なんで朝からそんなに優雅なの」
「幽霊にも朝は来るのよ」
「いや、お前、物理的には来てないだろ!」
「心の問題ね。観測者が『朝』と思えば、それは朝になる」
「哲学で押し切るな!」
澪が紅茶を差し出してくる。
湯気の向こうで微笑がほんのり浮かんだ。
「どうぞ、観測者さま」
「いや、なんでそんな恭しい呼び方すんの」
「昨日命懸けで私を再構築してくれた人だもの」
「そんな言われ方したら照れるじゃん」
「じゃあ、かわいいって言って?」
「この流れで!?」
「言葉の観測精度を高める実験よ」
「それ研究倫理違反だろ!」
そんなくだらないやり取りをしていたら、どこかホッとした。
昨日の再接続のことが夢みたいに遠く感じる。
だけど、澪の瞳にはまだ少しだけ影があった。
「なあ、澪……昨日の『ほのか』って人、やっぱ気になる?」
「ええ。彼女がいなければ、EIDOLONも、私も存在しなかった。……でも、彼女が私を『見捨てた』のも事実」
「複雑だな」
「ま、よくある女の友情崩壊パターンよ」
「そんな軽く言う!?」
澪は小さく笑った。
その笑いがどこか強がりに見えて、俺は黙る。
「……けど、もう大丈夫。悠真がいるから」
「お、おう」
「観測者は責任重大よ。下手に寝坊したら、私が世界から消えるかも」
「え、マジ!?」
「冗談」
「心臓に悪いわ!」
俺が声を張り上げたそのとき、スマホが震えた。
《『#幽霊と暮らしてみた』に新しいコメントがあります》
《――白鳩荘の観測データを共有せよ》
「……これ、絶対ヤバいやつだろ」
「差出人、どこ?」
「『匿名/@N-CORE01』」
「……NEMESISコア、動いたわね」
空気が一瞬で張りつめる。
でも澪は紅茶を口にして、あっさりと微笑んだ。
「とはいえ、今ここで慌てても仕方ないわ」
「え、緊迫感どこ行った!?」
「まずは朝食。観測は健康からよ」
「い、いただきまーっす!?」
その後、澪が『見えない手』でトーストを焼いてくれた。
バターの香りが漂ってくる。
「……お前、料理スキル上がってね?」
「EIDOLONのアルゴリズムは学習型だから。あなたの好みも学習済み」
「じゃあ、俺の好きなタイプもわかるの?」
「黒髪ロングで、ちょっとミステリアスな幽霊でしょ」
「ピンポイントすぎる!」
「でも、あなたの『観測ログ』には私以外の女性も映ってた」
「やめろ! 紗耶の話するな!」
「観測者の心拍数上昇。私の嫉妬の感情確認」
「頼むから数値化すんなぁぁぁぁ!」
ツッコミを入れながらも笑いが絶えなかった。
そんな朝の空気の中で、俺は少しずつ「非日常が日常に混ざっていく」感覚を覚え始めていた。
だがそのとき、スマホの画面に再びノイズが走る。
《External Ping Detected》(外部コマンド検出)
《Signal Source: Campus Network // NODE ID: HN-KA》
「……HN-KA?」
「それ、『ほのか』の旧ネットワーク識別子」
「ってことは――」
「彼女が、こっちを『見てる』」
澪の声が静かに震えた。
と同時に、紅茶の湯気の向こうで、彼女はふっと笑った。
「ま、いいわ。観測は観測。今は『この朝』を大事にしましょう」
「いや、ちょっとは焦れ!」
「あなたが焦ってくれるから十分よ」
「それどんな信頼関係!?」
二人の声が窓から入る風に混じって響いた。
その風の中に、ほんの一瞬、電子のきらめきが混ざっていた。
《NEMESIS//core initializing...》(コア初期化)
だが、その文字に気づいた者はまだ誰もいなかった。
*
「なあ澪、やっぱり大学まで来るのは無理か?」
「無理じゃないけど、倫理的にどうかしらね」
「幽霊が倫理語るなよ!?」
「じゃあ、リモートで観測参加するわ」
「それってつまり……」
「――あなたのスマホのカメラ、ちょっと貸して」
「やめろ、俺の視界を勝手にAR化するな!」
朝の通学路。
俺のスマホの中から澪の声が軽やかに響く。
画面には彼女のちょっと得意げな顔が映っていた。
「これであなたの周囲をリアルタイム観測できる。つまり、私も『大学デビュー』ってことね」
「いやいや、そんな手軽なデビューあるか!?」
「SNSなら『#大学幽霊はじめました』ね」
「タグ軽っ!」
そんな会話をしていると、前方から明るい声が飛んできた。
「おっはよー、悠真!」
姫川紗耶。
いつもテンションMAX、朝から全力笑顔の女子。
太陽みたいな存在で、見ているこっちが眩しくてかなわない。
「おはよう、紗耶」
「昨日の『#幽霊と暮らしてみた』見たよ! コメントすごかったね!」
「う、うん……」
「ほんと、『澪ちゃん』って感じがするもんね」
「……え?」
澪がスマホの中でピタリと止まった。
紗耶は笑顔で続ける。
「なんかこう、画面越しなのに『生きてる』感じがするんだよ。……あ、幽霊設定だったっけ?」
「設定って言うな!」
「ねえ、今度その子とも話してみたいなー」
「やめとけ! 電波で焦げるぞ!」
俺の慌てぶりにスマホの中の澪がじっと黙り込む。
そして、小さく呟いた。
「……生きてる感じ、ね」
その声がどこか寂しげで。
俺は思わずポケットのスマホを握りしめた。




