9 文句は量子論まで
日曜の昼下がり。白鳩荘の縁側に、のんびりした空気が流れていた。
洗濯物が風に揺れ、カーテンの隙間から日差しが細く差し込んでいる。
「……なあ、澪」
「なに?」
「前から思ってたんだけどさ、イッ、お前の『家賃半分出してる』って、どういう意味なんだ?」
俺は洗濯バサミで二の腕を挟みながら言った。
澪はちゃぶ台の前で紅茶を啜り、静かにこちらを見ていた。
「それ、そんなに気になる?」
「気になるに決まってんだろ。俺、バイト代ギリギリなんだぞ。なのにお前、いつも『半分出してる』とか言ってくるし――期待しちゃうだろ」
「だって本当のことだもの」
「お前、幽霊口座でも持ってんのか? 『みおペイ』とか」
「そんな名前の電子マネー、誰も使いたくないでしょ」
いつものように軽いツッコミと笑いが交わる。
けれど、その表情の奥にどこか静けさがあった。
「……ねえ、悠真。お金って、生きてる人だけの価値でしょ?」
「まあ、そりゃそうだけど」
「だから私の家賃は、別の形で払ってるの」
「別の形?」
「『観測』よ」
その言葉に、思わず手を止めた。
澪は紅茶のカップを両手で包み、湯気の奥から静かに続ける。
「私ね、EIDOLONのフィールドで存在してる。でも、安定を保つには、誰かの『視線』が必要なの。誰かに見てもらうことで、私はこの世界に固定される。それが私の居場所になって、私が世界を『観測』した結果が『家賃』になる」
「その、アイなんとかってのはよくわからんけど……つまり、俺が見てるから、お前はここにいられるってことか?」
「そう。あなたが見なくなったら、私は少しずつ薄れていく」
「やめろよ、そういうホラー」
「ホラーじゃないわ。観測理論」
さらりと笑う澪の顔が少し寂しげに見えた。
俺は黙って風に揺れるカーテンを見た。
陽光が部屋の中を漂って、澪の髪を透かしていた。
「……ずるいよな」
「なにが?」
「お前は『俺が見る限り』存在できる。けど俺は、どれだけ見ても、お前に触れられない」
澪はわずかに目を伏せ、笑った。
その笑い方がどこか胸に刺さった。
「……それでも、私を見てくれる?」
「当たり前だ」
「どうして?」
「見たいから。理由なんて、それで十分だろ」
ほんの数秒、時間が止まったように感じた。
やがて澪が小さく息を吐き、ふっと笑う。
「あなた、ほんとに馬鹿ね」
「よく言われる」
「でも……ちょうどいいかも」
紅茶の香りが静かに部屋を包んだ。
その中で、澪がカップをそっと持ち上げる。
「じゃあ契約成立ね」
「契約?」
「ええ。あなたが私を見続ける限り、私はここにいる。だからあなたは『家主』。私は『居候』」
「――いやいや、誤魔化されんからな。お前も一応『家主』だろ、家賃払え」
「文句は管理会社に言って」
「管理会社?」
「量子論」
真顔で言われて、思わず笑いがこみ上げた。
「なあ澪。家賃って、払うこと自体が『生きてる証拠』なんだな」
「そうね。滞納したら、存在ごと追い出されるもの」
「滞納で存在消されるとか、シャレにならん。救済措置とかねぇの?」
「ふふ。じゃあ、あなたの場合、延滞料――優しさで請求するわ」
澪の笑顔から小さな光が柔らかく広がった。
その光景を見ていると、紅茶の香りとともに胸の奥がじんわり温かくなっていく。
「……ねえ、悠真」
「ん?」
「あなたが笑ってると、私の世界が安定するの」
「そんな都合のいい理屈あるか?」
「EIDOLONのアルゴリズムに組み込まれてるのよ。『幸福波動の共鳴値』って、けっこう馬鹿にならないんだから」
「スピってんなぁ……。お前、科学っぽいこと言うのに、時々意味わかんないこと言うな」
「でしょ? でも、それが『生きる』ってことじゃない?」
その言葉に俺は何も言えなくなった。
ただ、彼女を見ていた。
目の前で湯気が揺れて、澪の輪郭を優しくなぞる。
その光景がどうしようもなく現実に見えた。
――まるで、世界のほうが彼女を『見ている』みたいに。
*
夜風が少し涼しくなってきた。
白鳩荘の窓を開けると、遠くの住宅街からテレビの音がかすかに聞こえてくる。
どこかで猫が鳴き、屋根の上を風が撫でていった。
「……ねえ悠真。夜の音って、落ち着くわね」
「そうか? 俺はだいたい腹の音しか聞こえないけど」
「あなたの胃袋は一日中うるさいのね」
澪がくすりと笑う。
その笑い声が夜の空気に溶けていった。
ちゃぶ台の上にはまだ温もりの残る紅茶と、スーパーの安いクッキー。
俺たちの『夜紅協定』は、いつの間にか習慣になっていた。
「澪、前よりちゃんと飲めるようになったな」
「ええ。味覚の位相が安定してきたの。あなたの『観測精度』が上がってきた証拠かもね」
「俺、けっこう霊媒体質かも?」
「胸を張ることじゃないと思うけど」
ふたりで笑い合う。
こうしていると、まるで普通の同居人だ。
――いや、普通よりも近いのか?
「……ねえ悠真」
「ん?」
「私ね、最近『眠る』っていう感覚が分かってきたの」
「幽霊が?」
「そう。眠って、よく夢を見るの。誰かと笑ってる夢」
紅茶を見つめながら澪がぽつりと呟く。
表情は穏やかで、少しだけ遠くを見ているようだった。
「それ、俺か? よせやいっ」
「……たぶん違う。でも、同じくらい大事な人」
その言葉に一瞬だけ胸がちくりと痛んだ。
でも次の瞬間、彼女は俺を見てふっと微笑む。
「でもね、不思議なの。夢の中で笑ってると、現実の私の輪郭が強くなる気がするの」
「へえ……。じゃあ夢って、お前にとっては補強剤なんだな」
「かもね。夢の中でも、生きてるって感じがするの」
窓の外で風鈴がちりんと鳴った。
その音に澪が目を細める。
「いい音」
「近所のばあちゃんが吊るしてるやつか」
「音って、観測の証拠みたいね。聞こえるってことは、ちゃんと世界と繋がってるってこと」
「……じゃあ俺に聞こえてるお前の声も、そういうことか」
「もちろん。私の生きる音」
その一言に言葉が詰まった。
夜風がふっと吹いてカーテンが膨らむ。
彼女の髪が揺れて、わずかに俺の頬に触れた。
触れた――ような気がした。
ほんの一瞬。
でも確かに温度があった。
「おい……今」
「気のせいよ」
「いや、確かに――」
「気のせい」
澪は頬を赤くしてそっぽを向く。
でもその声はどこか楽しそうだった。
「……お前さ」
「なに?」
「だんだん生きてる幽霊(?)みたいになってきたな」
「なにそれ、意味わからない」
「俺もよくわからん」
笑うと、澪もつられて笑った。
笑い声が部屋に響き、やがて静かに収まる。
その時、テーブルの上に置いたスマホが震えた。
画面には俺の知らない投稿がひとつ。
『#幽霊と暮らしてみた――Day15「観測は続く」』
「……これ、お前がやったのか?」
「知らない。けど、いい言葉ね」
澪はそう言ってカップを掲げる。
「『観測は続く』――つまり、まだ終わりじゃないってこと」
「とりあえず、乾杯でもするか」
「なんの乾杯?」
「澪の観測続行と――俺たちの未来に?」
「……ほんと、あなたって時々ずるいわ」
二人で笑いながらカップを軽く合わせた。
ちいさな音が静かな部屋に響く。
夜行協定の後も、しばらくの間、その音が耳の奥で鳴り続けている気がした。




