I LOVE TV
『プロローグ』
空は荒涼たる灰色に包まれ、昨日までぬめるように流れていた風が、頬を突き刺し、走り抜けていくようになった。
空気は切れ味を増し、太陽は色を失う。
冬が、来る、のだ。
冬は僕の周りから色彩を奪った。
眼下にモノクロームの街が広がる。地面に根付いたコンクリート建造物群は、動けず、震える事も出来ず、吹き曝しの中で、その無機質なフォルムだけを遥か霞みの彼方まで無秩序に並べていた。
僕はコンクリートの地面に寝転がる。
一面に広がった黒く重い雲の隙間から、輝きを失った銀色の太陽が、時折、弱々しくその表情を見せる。
僕は鉛色の街に溶け、海に流れた。
*
それから、冬がやって来た。
冬は、トレンチコートを着たソビエト憲兵隊の行進のように、整然と、そして着実な足音と共にやって来た。
人々は彼等を恐れ、家に閉じ籠もり、窓から憂鬱な目で彼等を眺める。
冬は一足も休む事なく、人通りの跡絶えた灰色の街を、まるでファシストの様に無表情に通り過ぎるのだ。
ただ、着実で硬質な足音だけを響かせて…。
冬はすべての門を閉ざした。
僕も自分の門を閉ざした。
そんな、冬だった。
ただ寒かった。僕は毛布にくるまり、震える指でビールのプルリングを抜く。ビールは金属物のような不快な味覚を残して、喉を傷つけながら流れ落ちる。
*
TVはモニターに何かを映してとてもきれいに微笑んだ。それは平原に降り積もる白雪のような、静かな微笑みだった。
『TV』
僕の友達はTVだった。
人間とはうまくやれなかったが、
TVとはとても気が合ったのだ。
自分の意見を押し付けるニュースキャスター。
ありもしない思い出を笑い話にするコメディアン。
音程を外した歌手が歌い。芸能レポーターは世界の終わりが来るように、切羽詰まってタレントを追い回す。
毎週続く意味のないドラマ。芸能人が大騒ぎで賞品を取り合うクイズ番組。名前も知らない三流バンドのミュージシャンが素人バンドをこきおろす。
宇宙を通じてやってくる世界のウラの戦争も、僕にはそんな場所があるのかどうかも分からない。
怒るばかりで自分では何もしない政治評論家。意味のない羅列と化した、長い長いコマーシャル…。
TVは僕に様々な世界を見せてくれ、
やがて白い砂嵐になって眠りにつく。
おやすみ、僕の大切なTV。
『虫』
TVでは、醜い顔のレポーター達が、何本ものマイクをかざして女優を取り囲んでいた。
女優はゆっくり、思わせ振りに微笑みを浮かべている。
彼女はいくつもの笑顔をストックしている。もちろん、こんな時の為の笑顔もあるのだ。
「どけ、おすな」
「バカヤロー。何するんだ」
女優の微笑みの前で、レポーター達は罵声を上げながら押し合う。たかが下らない噂話に、報道の権利を主張しあって緊迫したムードをかもし出している。それで彼等は、彼等なりに持ち合わしているプライドのかけらを、拾い集めているのだ。
女優はまだ白々しく目を大きく開いたまま、TVカメラに向かって驚いた演技を続ける。
女優の笑顔はこびりついている。
まるで黒いフライパンに焦げ付いた、油のカスのように、ドロドロと黒くて、手にベタベタへばりつくような、吐き気を催す不快な笑いだ。
洗っても洗っても取れないようなヌルヌルした笑みを浮かべて、女優は立っている。
レポーターはまくしたてる。まるで世界の終わりを報道しているような、追い詰められたトーンで。
バカな奴等は同じ演技を毎日繰り返すのだ。
女優は何か話しながら、はぐらかすように笑う。カメラが寄る。レポーターはさらに興奮する。女優は思わせぶりに話を複雑にして、会見をうまく終わらせる。
画面はスタジオに戻る。司会者の男は主婦受けするように、人のいい笑みを浮かべる。
横にいる若い女は、司会の話に阿呆のように頷き、うまくタイミングを計ってコマーシャルに持ち込む。
コマーシャルが始まる。ビールのコマーシャルで女が笑い。ゼリーのコマーシャルで女が笑う。生理用ナプキンのコマーシャルで女が笑う。コーラーのコマーシャル。ラーメンのコマーシャル。シャープペンシル。学習教材。外国タバコのコマーシャルでは西洋人の女が笑い。鳥龍茶のコマーシャルでは中国人の女が笑う。
再び画面はスタジオに戻る。弁護士がアナウンサーがレポーターがコメンテーターが、TV画面に並んだ連中は白痴のように笑っている。ハニワのように、次から次へと並んだ笑顔。街にもたくさん溢れている。彼等はさりげなくさわやかに笑っているつもりなのだ。
その黄色のペンキを顔にぶっ掛けたような笑いの行列は、僕を反吐感で包み、眼球を刺激して僕の頭を頭痛で掻き回す。
この街の太った醜い資本主義が、後ろで糸を引き、いも虫の大群を僕の周りにはわせる。
やめろ。やめろ。
君達は騙されているんだ。
君達は操られているんだ。
いくら言っても無駄だった。
みんな理解などできない。廃人寸前の麻薬患者のように、フラフラと歩きながら、白痴の笑顔を浮かべるのだ。
『呪い』
僕はその日も屋上に立った。
街の姿が僕の緩んだ瞳から入り込み、無干渉なガラス体を素通りして、無意思の網膜に投影されていく。街の雑踏、人々の靴音、人の笑い声、車のクラクション、デパートに流れれるBGM。高架線を走り抜ける急行電車。遠くで鳴るサイレン…。
様々な人々が、口々に何かを呟き、笑い、わめいて、唸るような街の喧騒に溶け込んでいく。
僕の視線が暗い空を捉える。
腐り切った空気の塊のような黒い雲が、まるで街を呪うかのように低く垂れ籠めていた。
「呪い」
もし、この雲が呪っているのが、この街の混沌たる日常性であるなら、この街の全ては破壊されつくされるであろう。僕は目をつぶって、その破壊の光景を想像してみた。
最後の日も、この街はいつも通りの平和な朝を迎えようとしていた。人々はその日も、人間肉団子を輸送するような満員電車に揺られ、空中に向けてうねる高架道路の果てしない渋滞に飲まれながら、吸い寄せられるようにこの街にやって来るのだ。
二日酔いの顔が、家庭の問題に疲れた顔が、恋人と外泊した睡眠不足の顔が、
まるで、何か巨大な歯車の一部であるかのように、英会話学校のビラを配る若い男を無視しながら、次々と通り過ぎていく。
真っ黒に日焼けした茶色い髪の女子高生が、路上に寝転んでゴミ箱でみつけたミカンを貪る初老の浮浪者を無視して歩いていく。
収集車を待つゴミ袋が野良犬に引き裂かれ、腐乱した中味を蠅がついばむ。
昨夜、誰かが吐き出した吐瀉物を避けながら、この街の歯車が作動し始めるのだ。
人々は今日も、昨日と同じ一日が展開される事を信じて疑わない。豊かになり過ぎた退屈の国の国民は、自分が神の国にでも住んでいると思い込んでいた。長く続き過ぎた平和と繁栄は、彼等に飽食をもたらし、彼等から警戒を取り払った。人々は長く続いた繁栄そのものが、彼等の未来を保障するものだと信じ込んでいるのだ。半世紀を費やした繁栄も、最後の日は一日で十分なのだ。
そんな街の混沌たる日常性を震撼させるように、遠くから重い太鼓の音が響いてくるのである。
誰も気付かない所で祭りは始まっていた。
その音は段々と近付いて来る。殆どの者達は彼等に気付かない。彼等は高速道路の高架橋を踏み潰し、高層ビルを薙ぎ倒しながら祭りを続ける。人々は笑いながら鮮血の飛沫を上げて、投げ付けられたトマトのように潰れていく。反狂乱の少女が裸足のまま走り回る。首の千切れた男が血液を吹上げながら盲滅法に跳ね回る。彼の千切れた首が転がりながら笑った。
「我々の意識は巨大なカオスによって支配されている。誰もその混沌を抜け出す事は出来ない。混沌より生まれ出ずる者は、また混沌へと回帰するのだ。それこと神なのだ。破壊と殺戮は、その最たるメタファーとしての化身なのだ」
背後から忍び寄って来た道化師が、右手に持ったステッキを振り上げてその生首を脳天から叩き割った。一瞬、生首は呻くようにして頭蓋骨から潰れた脳髄を弾き飛ばした。縮れた白い脳髄を全身に浴びて、道化師はすぐさま次なる標的の浮浪者に襲いかかる。道化師のステッキが浮浪者の腰を叩き割り、眼窩に突き刺さった時、背後から角材を抱えたサラリーマンが現れ、道化師の頭蓋骨を叩き割る。倒れ込んだ道化師にとどめをさすべく、角材を振り上げたサラリーマンの心臓を一発の銃声が捉える。サラリーマンは見る見るワイシャツを血に染めて、目を大きく見開いたまま、もんどりうって倒れ込んだ。しかし次の瞬間、銃を放った男も、自転車でやって来た坊主頭の中学生二人組の、金属バットのスイングに潰されていく。殴られる度に何度もグシャと言う音を立て、体液が滲み出す。男が潰れたのを見計らって、物影に潜んでいたOLがポケットナイフを取り出して、中学生の剄動脈を切り裂く。中学生は血飛沫を自分の背丈と同じくらいに吹上げて走り回る。もう一人の中学生が、野菜を乗せた乳母車を押す老婆と、返り血で真っ赤な顔をしたOLに殴り掛かる。血を流した老婆が乳母車で中学生を殴り付ける。中学生がひるんだスキにOLは老婆の首を締める。OLは更に老婆の目にカッターを突き立て、えぐり込むようにかき回す。OLの背後から何本もの手が伸びてきて、その長い黒髪を皮膚ごと剥ぎ取った。
高速道路からは次々と人が落とされ、満員電車は巨大なミキサーと化した。そんな彼等の上に、やがて静かに高層ビルが崩れ落ちる。
「神だ。神だ、カミダア」
僕は目を開けた。眼下にはさっきと同じ街があった。
僕は灰色の街に背を向け、屋上を後にした。
『鳥』
僕は彼女とじゃれあいながら、昼下がりのまどろみの中にいた。
床に転がるウオッカの瓶を取り、キャップを開けて、一口、口に含む、ウオッカは口の中をうねり回った後、特有の熱さを持って、喉から胃袋に流れていく。
熱が出たような柔らかいまどろみが、死の幻影を伴って、僕の脳細胞を流れていく。
僕の筋肉は緩み、眼球の焦点が不安定になる。
彼女は僕の傍らに佇んで、青白く微笑んでいた。
画面には走る子供が映っている。緑の草原を、両手を伸ばして何かを掴むように、つまずきながら駆けている。
子供の手の先に白い点が見える。その白い点は小刻みに揺れながら、子供の手の少し先にある。
僕は白い点を見詰める。
白い点は上下に揺れている。空気に乗ろうかとしているかのようだ。白い点から何か平な物が伸びて、はばたくように動いている。
鳥だ。白い鳥がはばたいているのだ。子供はその白い鳥に近付く為に、裸足で走っている。白い鳥は子供に飛び方を教えているのだ。
鳥は序々に高度を上げる。
子供は手を伸ばして、走っていく。子供は鳥に近付く事に夢中なのだ。
鳥が段々高くなる。子供の足はついに地面を蹴って空中に飛び上がり、体が宙に舞う。子供は笑う。そして、飛びながら白い鳥に手を伸ばす。
その時、草原はアスファルトに変わり、灰色の空からの稲妻が鳥を撃つ。街が黒いアスファルトから灰色の手を伸ばし、子供の足首を掴んで地面に叩き付ける。
動きが止まる。
子供は地面に激しく頭を打ち付けて倒れる。
アスファルトに、ゆっくりと黒い血の染みが広がっていく。
鳥は黒焦げになって、子供の横にポタリと落下する。
やがて、青い色のゴミ収集車がやって来て、灰色の服を着た二人の職員が手際良く二つのゴミを収集車に放り込んで走り去る。
雨が降ってきてアスファルトの血の後を流していく。
雨の霧の向こうに大きな黒い影がぼんやりと映る。
あれが神に違いない。
彼が鳥と子供を殺したのだ。
僕の脳細胞に、ぼんやりした、密度の濃いまどろみが覆ってくる。
僕は目をこらして、神の姿を見極めようとしたが、駄目だった。
彼の姿はまどろみの向こうに吸い込まれて、僕の意識から遠ざかった。
『神』
その日、屋上に行くと、そこには不規則なリズムを刻み続ける小太りの丸顔のドラマーと、シンセサイザーと戯れる青白い顔の少年がいた。締め殺される女の断末魔のような音を上げて喘ぎ続けるシンセサイザーの悲鳴が、アフリカ狩猟民族の戦いの歌のようなデタラメなリズムとシンクロして、渦を巻きながら時間を歪める。
ドラムの男は空を見上げながら、無茶苦茶にスティクを振り回し満面に人のいい笑みを浮かべている。時々口を開けて何かをわめきながら、首を左右に振り、リズムを取るような仕草をしている。シンセサイザーと戯れる少年は目を閉じて体をくねらせ、ヨダレを垂らしながらキーボードに抱き着くように絡み付いている。
「アハハ、アハ、アハ」
シンセサイザーの少年が笑う。
「エヘヘ、エヘ、エヘ」
ドラムの男が笑う。
僕が二人に近付くと、ドラムの男は感極まったと言う表情で「キャハ」と奇声を上げ、更に激しくドラムを叩き付ける。
青白い顔の少年は、口もとに大きく笑みを浮かべながら、ナイフのような光る鋭い視線で、怯えるように僕を見ている。
それは、僕を見ていると言うよりは、僕の体の前の空気を見ていると言った感じでもあった。
彼の額には大きな穴が開いていて、そこに黒いピンジャックが突き刺してある。額から伸びる黒いコードは少年の背後の大きな機械の中に吸い込まれていて、少年はその大きな機械の触手であるかのようにくねくねと体を曲げる。
機械の一番上に据え付けられたモニターが僕の顔を映す。画面に映る僕の顔は不安定でゆらゆらと揺れながら、ピントが前後にずれる。
きっと彼の虚ろな目に映る僕なのだろう。
キーボードが彼の怯えた目に連動して低い唸り声を上げる。まるでシベリアのオオカミがぐるぐると回りながら相手との距離を計り、タイミングを計っているような不吉な低い唸り。
「誰だ。おまえは」
少年は怯えながら呟く。いや、正確に言うと彼ではなく、シンセサイザーが鳴っているのだ。モニターは僕の顔を写しながら画面の隅に彼の言葉を映す。
『ケイサツカ?ボクハ、カエリタクナイ』
合成された電子音が呟く。
「僕は警察なんかじゃないよ」
僕が言うと、彼は満面に笑みを浮かべて白眼を剥いた。
「アハハハ」
彼の笑い声が漏れる。不安気にこっちを覗いていた丸顔のドラマーが奇声を上げてステイックを叩き付ける。
「だったらいいんだよ」
「どうして、警察を怖がっているの?」
「僕は少年院にいたんだ。僕は音楽をやるためにこいつと一緒に逃げて来たんだ」
シンセサイザーはそう呟いて、少年は丸顔の男を見る。
「エヘヘヘヘ」
丸顔の男は笑いながら、何度もうなずく。
「こいつは、そこの看守だったんだよ」
「どうして、少年院にいたの」
少年はそれを聞くと、白眼をむいて真っ赤な舌を出して笑った。
シンセサイザーが答える。
「僕は学校で先生を殺したんだよ。放課後、職員室に呼ばれて殴られたんだ。そこにはたくさんの先生がいたけど、みんな見ないふりをしていた。先生は殴り続けた。とても痛かったんだ。だから僕は机の上のナイフを取って、先生の額を開いたんだ。頭蓋骨を割ってね、前頭葉を切り刻んで、小脳の方へナイフを入れたんだ。人は小脳で運動しているって、理科の先生が言ってたからね。止まったよ。行った通りだった。血を吹上げて後ろ向きにバターンと倒れた。電源のコードを切ったからね。もう僕を殴らなかったよ。まわりの先生は誰も助けようとはしなかった。みんな逃げて行ってしまったんだ。先生はそれでも少しだけピクピクしているんだ。だから先生の胸を開いたんだ。心臓を止めようと思ってね。モーターを止めれば機械は動けないからね。心臓はあったよ。理科の教科書の通りだった。まだピクピク動いていたよ。ピュッ、ピュッ、ピュッってね。とっても面白かったけど、僕はそれを握り潰してしまったんだ。それから僕は黒い服の人達に捕まって、閉じこめられてしまったんだよ」
「どうして逃げたの?」
「とても良い所だったよ。言う事さえ聞けばね。でも、おもしろくなかったんだ。いつも同じ時間に起きて、食べて、働いて、休んで眠るのが。そんな所にいると、みんな感情を失うんだ。そして、思考を失う。刑務所は人間の脳をいじって街の部品に変える所なんだ。学校も同じだよ。規則をたくさん作ってみんなに強制するんだ。最初はみんな反抗するけど、そのうち何も言わなくなる。規則がないと生きられなくなるんだ。そして、感情を失い、思考を失った人間は、街に依存しないと生きられなくなるんだ。そういう人間から街は血を吸い取るんだ。そして、ブクブク太るんだよ。アハ、アハハ」
彼はそう言って、キーボードに倒れるように抱き着いた。
「アハ、僕の名前はタカシって言うんだ。アハ、君はいい人みたいだから、アハ、神様を見せてあげるよ。アハ」
そう言って太った丸顔の男に合図すると、男はうれしそうに笑った。
「アハ、アハハ、アハハ」
「エヘヘ、エヘ、エヘヘ」
そして、タカシは女の悲鳴のような音を上げて、ドラマーはデタラメにドラムを叩き付けた。
「アハ、見えるよ。アハ、感じるよ。アハ、見えるんだよ。アハハ」
タカシは笑いながら、体をくねくねとくねらせる。丸顔の男はドラムを叩きながら、笑って首を左右に振っている。
灰色の街が揺れる。小刻みにガタガタと、そして、それがだんだんと大きくなる。ビルがボロボロと崩れていく、街の中心が丘のように隆起する。
「アハハ」
「エヘヘ」
タカシと丸顔の男が笑う。
深い、低い唸りが僕の体を揺する。
グググ、ググググ…。
そして、大きな破裂音を残して、街はバラバラに割れ、砕けた街の隙間から、ドロドロとした真っ黒な血が吹き上がる。血は僕らに降り注ぐ、われめの奥からドクドクと動き続ける、不気味な蔵器が見える。血はそのリズムに従ってドクドクと吹き上がる。
「アハハ、見えるか、アハハ」
「エヘ、エヘ、エヘヘヘヘヘ」
血を浴びて真っ黒になりながら、タカシと丸顔の男が笑っている。血にまじって、時折、白い脂肪とコレステロールの塊が、ポタポタと落ちてくる。
街はのたうち回るように、血管をうねうねくねらせる。
「アハハ、アハハ」
*
気付いた時。僕は眠っていた。
とても深い眠りだった。コンクリートはとても冷たくて、風は身を切るようだった。
街はいつも通り、灰色の喧騒を放っている。 僕は自分の手を見て、血が付いていないのを確認してから、部屋に戻った。
『部屋』
重い鉄のドアを開けると、長い間溜まり続けている澱んだ空気が特有の質量を持って流れ出る。閉め切られたカーテンの隙間からもれる一直線の光がドアからの光と交差して、床に転がるビールの缶や酒瓶の雑然としたシルエットを浮かび上がらせる。ドアのノブから手を離すとドアは不吉な呻きを残して闇に消えた。
部屋の中に一人残された僕の網膜に、青白く光る金属的なフォルムが投影されている。 TVだ。僕は寝転がって彼女に近寄る。彼女は僕に気付いて、黒いブラウン管の上にとても綺麗な微笑みを浮かべてくれる。
「ただいま」
僕は彼女に言う。
僕は手を伸ばして、床に転がるリモコンを掴んでTVに向けた。
「街は、どうだった?」
彼女は走査線に青白い光をゆっくりと灯しながら、僕に尋ねる。
「最悪さ。いつもの通りだ」
僕はリモコンで、いくつかのチャンネルを回しながら答えた。
「物事を悪い方に考えるのはよくないわ。私にはみんな結構うまくやっているように見えるけど」
彼女は夕方の再放送ドラマを映している。「そう見えるんだよ。みんなには。そして君にもね」
ビール缶の山の下で電話機がけたたましい叫びを上げる。
1回、2回、3回……
しばらく数えた後で、僕は数えるのをやめた。僕は電話に興味はないし、実際、出る事もないだろう。
この所、僕の部屋に掛かってくる電話の中で、取られたものなど一つもないのだ。
今の僕にとって、電話機なんて道具はまってく価値のないものであり、そのベルの数を数えるなどあまりに無意味な行為なのだ。
僕は屋上に行く以外はまったくこの部屋を出ない。来客があってもドアを開けない。
どうせ下らない事に決まってるのだ。
それよりTVといる事の方がずっと楽しかったし、TVもそんな僕にとても優しく笑いかけてくれた。
電話は、行き場のないベルの音をさんざん放った後、何の前触れもなく突然叫びを止めた。嵐のようなベルが過ぎた後の電話はさっきまで鳴っていたのがまるで幻聴であったように思える程、静まり返って、ビール缶の間で微動だにせずに佇んでいる。鳴らない電話は固くその心を閉ざしてしまった様に見えるし、魂が抜けてしまったようにも見えた。 電話のベルによって一時的に大きく膨脹された空気の間に、とても穏やかにTVの音が差し込んで行くのを感じた。
僕は彼女に微笑んだ。
彼女も僕に微笑んだ。
僕は床にあった飲みかけの缶ビールを喉に流した。ビールは生温くて、喉にひどくゴワゴワした感触を残した。
『仲間』
屋上に立つと、仲間がいた。
「やあ、待っていたんだよ」
先頭のリーダーらしき男が、ウインクをしながら僕に言った。
「神も破壊も必要ない。君は生きているんじゃないか、君の体には赤くて熱い血が流れているんだよ」
「一緒に来いよ」
「仲間になろうぜ」
別の若者達が口々に言う。みんな、はち切れんばかりの笑みを浮かべて輝いている。
「駄目なんだ」
僕は言った。
「遠慮する事はないさ、俺達は仲間になるんだ」
「でも駄目なんだ」僕は続けた。「僕は力がない。それに君達程強くはないんだ」
「そんな事はないよ」
「考え過ぎだよ」
「一緒においでよ」
僕のヒザが不器用に、ワナワナと震える。 腕の力のバランスが崩れて、肩がガタガタ揺れた。表情がうまく作れずに、中途半端な笑顔にしかならない。強い緊張が僕の体をこわばらせる。
彼等にそれを悟られないようにしようと思えば思う程、体がぎこちなく固まった。
彼等は僕に対して優しい微笑みを浮かべた。
それが、彼等の満足になるのだ。
みんな僕の事をかばっていた。
弱い僕をかばっていた。
僕の体から冷たい汗が吹き出る。僕は弱い人間で、彼等は弱い僕をかばっているのだ。 拳に力が入った。僕は何か言おうと思ったが、何も口からは出ては来なかった。とても、口が乾いて、口をパクパク開き、頬がヒクヒク動く。逃げたかった。一瞬でも早く、この場から走り去りたかった。僕は屋上に来た事を後悔した。もし彼等がこれからもやって来るなら、僕はもう屋上に来ない来とにしよう。
彼等はいい人なのだろうが、明らかに不快だった。
「強く生きなくちゃ」
「明るく生きなくちゃ」
彼等は口々に言った。
「…僕は弱いんだ」
僕は俯いて言った。
「何だって?」
「意味が分からないよ」
意味なんか考えないようにした。頭脳の回路を引き千切って、機械的にもう一度同じ言葉を叫んだ。
「僕ハ、ヨワインダー」
彼等は一瞬、不思議そうな顔をしたが、また、優しげな笑みを浮かべた。
その目には、慈悲と慈愛と偽善が溢れている。
僕は急いで屋上から飛び出した。
気付くとTVが僕の横で、青白い光を放っている。さっきの事は、夢なのか現実なのか分からない。外は真っ暗で、真夜中らしかった。
僕は転がっていたウオッカの瓶をひっ掴んで喉に流した。
Tvは僕の隣で微笑んでいた。
『情報』
「おはよう」
僕はTVに話し掛け、TVのリモコンを握った。
「今日はとても寒いわね」
TVは返してくれた。
「もうすぐ冬が来るんだ。みんな枯れてしまうんだ」
「とても悲しいわね」
彼女はとても悲しそうな表情をしてそう言った。今年の春に作られた彼女は冬を知らないのだ。
「ああ、最悪さ」
僕は転がっていたビールのプルリングをひねりながら、TVに答えた。
彼女とはとてもうまくやっていた。僕がリモコンを握ると、彼女が画面を映す。彼女は何種類もの画面を映す事ができた。この街のTVは、殆ど休む事がないのだ。
「好きなのを一つ選んで」
彼女はカードゲームのように言う。
僕は彼女の映し出すカードを、何度も引いた。そうやって、彼女と僕は夜まで過ごした。
彼女は真夜中になって、画面に何も映さなくなって眠ってしまう。
「おやすみ」
僕は彼女に言って冷たいベッドに潜り込んだ。
『目覚め』
僕は目覚めて、辺りを見回した。
今がいつなのか、全く分からない。しかし、そんなことは今の僕には知る必要もない。彼女は青いブラウン管を灯して僕を見ている。
閉じられたカーテンの隙間から、黄色い色褪せた陽射しが洩れている。
僕はカーテンの方によろめきながら近寄って、カーテンを押し開いてみる。カーテンの脇にあった空のビール缶が、三つ程、乾いた音を立てて転がった。
青空だった。
音もなく、全てを狂わせるような、とても冷たい青。
冬の限られた太陽が、傷つきながらも、何か決意に満ちた光を万物に浴びせている。
地上に根を下ろした幾多の建造物群が、ただ音もなく、その約束された光に低く長い影を落としている。
葉が殆ど落ちてしまった、寒々しい街路樹の列が、通り過ぎていく車列の脇で微弱なる祝福を精一杯に受けていた。
突き抜けるような青空の、触れる事すら許されない冷たさから降り注ぐ、淡い黄金の粒子は、地上に根を下ろし、移動を禁じられた物達への、神々のささやかな祝福であるかのように見えた。そして、それを受ける街の姿は、まるで永遠に時間を止められ、色褪せていくリアリズムのようにも見えたし、運命に見捨てられ、永遠の時の中に頽廃を重ねていく過去の都のようにも見えた。
僕は冷蔵庫からビールの缶を一つ取り出して、プルリングをひねった。
僕は低く色褪せた太陽に、何か乾杯するべきかどうか迷ったが、結局何も思いつかず、そのまま冷たいビールを喉の奥に流し込んだ。
『雪』
そして、雪がやって来た。
太陽は重い黒雲の果てに追い立てられ、地上は不安定な湿気を帯びた冷えた大気で満たされる。
果てる事なき雪の群れは、その青みがかった世界の支配者であるかのごとく、ゆっくりとした速度で舞い降り続ける。
雪は白く柔らかく優しい暴力で、静かにそして確実に、僕たちの心を浸食していた。
僕はウォッカを喉に流し込みながら、TVと共に、その残酷な空からの使者を眺める。
死にたくない。
僕はまだ、死にたくない。
それでも雪は、僕たちの陥落の予感を、正確に予言しているようだった。
そして、僕は…。
『遺書』
その日の夕方、何度かのインターホンのコールの後に、一枚の紙切れがドアの郵便受けからコトンと転がり込んで来た。
僕はその紙切れを拾う。
電力会社からだった。主旨は、明日、電気を止めるとの予告で、それを行う時間などは、一切書かれていなかった。ただ、明日電気が止まる。
もちろん、時間など予告されたとしても今の僕には何の手立ても出来ない。せいぜい何かの儀式をへて電気が止まるのを見送るだけだ。
彼等が僕の生活から電気を奪うのは当然の事だ。僕は永い間、彼等に対して一銭の利益ももたらしていない。そして、今後に於いても、僕が彼等の利益となる事はないのである。彼等にはその損失を最少限に食い止める義務があるのだ。彼等はシステムを潤し続けなくてはならない。
同じ理由でもう既にガスは止められていた。水道も少しづつしか出ない。電話もこの所鳴らなくなったから、きっと止められているのだろう。ここの家賃は銀行口座の預金の限り支払われるが、それもそろそろ切れる頃だろう。
僕の周りを取り巻いているシステムは、序々に僕との距離を縮めているのだ。
制空を奪われ、東西をソビエトと連合軍に囲まれた1945年のベルリンのように、僕とTVの陥落の日は迫りつつあった。
裏切り者は消え去れ。おまえは不用だ。不利益だ。システムの端末につながれたオオカミ達が、群れたサメが、僕の周りをぐるぐる周りながらよだれを垂らしている。
消えろ。消えろ。消えろ…。
僕の目の前には、システムの巨大なミキサーが、そのおぞましき口を開けている。嘘と情報で塗り固められたその口の奥では、何億もの人達が切り刻まれ、すり潰され、血を吸い取られているのだ。
神。資本主義の神が飲む健康ジュースのために…。
誰もそのシステムのミキサーを拒む事は許されない。神は、そのような者を好まない。 巨大な手、神のファシズムは、一瞬でそんな者を捻り潰し、消滅させるに違いない。
『神』
それは文明と高度情報社会が生んだ、肥え太ったシステムの醜い支配者なのだ。地球社会システムの経営者。人間をあらゆる物で競わせ、その熾烈な競争の中でこぼれ落ちる血のエキスを、うまそうに舐めている。
神は、自らの食欲を満たすためにこの地球と言う名の畑を作った。そして、四十六億年をへて、ついに人類が、激しい淘汰の末に熟れた実を実らせたのである。神は目を細めてその実を貪った。神が貪れば貪る程、実はそれを上回るスピードで実り続ける。人類はそういう種類の増殖生命体として、この地球上に造り上げられた。神の食欲は決して衰えない。食い貪り、太り続けてついに自己の破滅に至るまで、その血の果実を飲み込み、すり潰し、消化し続けてるのであろう。そして、彼が体を圧迫する脂肪と、血中に固まったコレステレールによって、肥満の末に果てる時、人類はその歴史を閉じる。
なぜなら人類はもう必要ないからである。
*
部屋の一角に、プラグとアンテナコードだけをつないでTVは置かれている。
僕はTVにリモコンを向けた。しばらくして、TVはいつものように、やさしく微笑みを浮かべた。
Tvは僕の大切な、そして唯一の友達だ。
僕はTVだけは失いたくなかった。
僕はTVを正視できなかった。
「僕は君と過ごして来た間にいろんな物を失ったよ。もちろんそれは君のせいではないし、僕のせいでもないんだ。仕方のない事なんだ」
TVは少しこわばった微笑みで、僕を気遣うように言った。
「あなたは人と違わないわ。普通よ」
「………」
TVは一般論の波の中で生きている。それは僕にもよく分かっている。
「ありがとう。君の気持ちだけでもうれしいよ」
「………」
TVは黙り込んだ。
「僕は君といると、とても楽しいよ」
「私も楽しいわ」
TVは再び笑みを取り戻した。
「僕はいつまでも君を忘れないよ」
「私もよ」
「あ、あのさ…」
言い出すのに少しためらった。TVは未だ何も知らないのだと思うと、たまらない気持ちになった。「僕達はもう今日でお別れなんだ」
僕はTVを正視できない。
「そう、楽しかったわ。ありがとう。今まで」
TVは軽く言った。僕はTVを見上げる。TVは屈託なく笑っている。
そして、『アリガトウ。イママデ』と言ったのだ。
「ありが、とう…」
彼女の笑顔に、僕はそれ以上の言葉を失った。
「あの、さ…」
「何?」
彼女は僕を覗き込むようにして聞く。
「僕達はいい友達だったよ」
「よく分からないわ」
「何が?」
「あなたの言っている事が」
「だって、僕は君をよく知っているし、君も僕をよく知っている」
僕は付け加えた。「それに僕達はずっと同じ部屋に住んでいたんだ」
TVはまた、少し考えて笑った。
「ヤッパリ、ワカラナイワ、ソレッテ」
TVが付け加えた。「私はあなたにカードを差し出す。あなたはそれをリモコンで選ぶ。ずっとそうやってきたわ」
「そうじゃないんだ」
僕は黙った。しばらく何も言えなかった。
「でも…」僕は言葉をかき集めた。「僕は君の事が好きなんだ」
見上げるとTVはにっこりと笑っていた。 寸分の隙間もなく、僕の立ち入れない程の、とても綺麗な微笑みだった。
「ありがとう。そんな事言われたのは、初めてだわ」
僕はTVの笑顔の意味を理解した。周囲の闇は密度を増し、闇は僕に迫った。僕の頬に涙が伝った。
「僕は一人だった。僕は今まで、なるべく自分の事は自分で片付けて来たんだ。人に頼る事はいけない事だと思っていた。僕が人に頼ると、いつもその人は迷惑な思いをするんだ。だから、僕は…」
僕は彼女のブラウン管の中にいた。
彼女は僕の瞳の中にいた。
僕の涙は止まる事がなく、次から次ぎへと溢れ返り、床にポタポタと弾けていく。
「眠りなさい。私が一晩、ずっとそばにいてあげるから…」
僕は床に倒れ込んでゆっくり瞳を閉じた。 その夜、一晩中、青い光を放ちながら、TVは僕のそばにいてくれた。
『旅立ち』
翌日の昼過ぎ、TVは死んだ。
スイッチを入れても、プラグを差し替えても、TVは微笑んではくれなかった。
TVはただの箱になったのだ。黒いブラウン管はただ、僕の姿を写し返すだけだった。 TVの画面に写った僕の目から、涙が溢れた。僕の表情は変わらなかったが、涙が次から次へと流れ落ちていった。
TVの向こうの僕は、さんざん泣いた後、立ち上がり、TVのプラグを抜いた。
僕はTVを抱え上げ、そして、ゆっくりと微笑んだ。
*
僕は今、階段を昇っている。彼女は今、僕の腕の中にいる。これから僕たちは、新しい世界に旅立つのだ。階段に響くコツコツと言う靴音に、彼女はとても幸せそうに揺れている。僕と彼女は一緒に世界を越えるのだ。
僕一人なら仕方のない事かもしれない。でも、彼女はこんな場所にいるべきではないのだ。彼女はとても素敵だ。こんな所で下らない電波の支配を受けていてはいけないのだ。
僕には見える。肥満した下劣なTVのレポーターが、タレントの周りを囲み、死にそうな叫び声を上げながら殺気立つのが。コメディアンが合成された笑い声や、スタッフの絞り出すような笑い声で、TVの前の人間を笑わそうとしているのが。世間一般の意見しか言えないニュースキャスターが、自分の見解を自慢気に視聴者に押し付け、勉強不足の評論家が意味も分からず騒ぎ立てるのが。
おだて上げられた馬鹿なアイドル。毎週続く茶番ドラマ。面白くない男は性器を晒して笑いを取り、時代の過ぎた老優がもう映画にも出れないのに威張っている。政治家はあたりさわりなく喋り、評論家はいちいち間に受けて議論する。クイズの正解にタレントだけが狂喜し賞品を取り合う。
もういい。たくさんだ。
僕は宣言する。
君達は無価値だ。非常に下劣だ。その上、君達は優秀な人間の邪魔をする。君達は優秀な人間の尻の穴を覗き、喜ぶ猿だ。
マスメディアの盾の下でぬくぬくと太っていくバカ共は、そんな奴等の作る波の上で浮かれている奴等は、とっとと消えてしまえ。
君達だけではない。君達はほんの一握りに過ぎない。バカばかりだ、身の程知らずのバカばかりがこの世界で最も威張っている。
誰が優しくし過ぎたのか。誰が悪かったのか。誰が君達を舞い上がらせ、図に乗せてしまったのか…。
そんな分別もつかない程、君達は馬鹿だったのだ。
死ね。絶命しろ。消えてしまえ。
君達は邪魔だ。もはや君達は必要とされない。君達は用済みだ。君達は汚く、下劣で、その上、出過ぎる。
コツコツと階段を踏みしめる音がする。
君達は決められたカゴに入って、せいぜい自分のネズミ回しをクルクル回していればよかったのだ。歯車となり、発電機を回し、優秀な者に光を送り続けていればよかったのだ。そんな君達が誠実な人間達を追い詰める。
屋上の出口の扉が見えて来た。僕は彼女を抱えたまま扉に手を伸ばす。
君達に宣言する。
君達は無価値だ。下劣だ。足手まといだ。寄生虫だ。下劣なアホだ。死ね。弱い奴等は絶滅しろ。街に魂を売ったデブ共め。
僕は扉を開けた。
*
僕は屋上に立った。
眼下には、相変わらずの喧騒がくり広げられている。激しい騒音の隙間から、単調なクリスマスソングが聞こえる。金網の向こうの街はクリスマスに浮かれているのだ。二千年も前の一人のユダヤ人の誕生日だそうだ。神の一人子だと言う、勝手にすればいい。
「やれやれ」
僕は呟いた。「馬鹿な奴等だ」
僕は腕に抱えたTVを地面に置いて、冷たいコンクリートの上に寝転がった。
「僕はこれから、世界を越えようとしていると言うのに」
空はどんよりと曇り、低い黒雲が街を呪っていた。
僕は目を閉じた。きつく目を閉じた僕は、自分の胴から生えた六本の足とヒクヒク動く長い触角を感じる事ができる。
誰もが消え去る事を望む、呪われた褐色の毒虫。弱り果て、惨めに体液を垂らす、悍ましき僕の姿。
僕は触角を伸ばして、周囲を探る。
寒い。とても寒いのだ。
硬い甲羅に包まれた僕の体が、雲からポタポタと落ちてきた雨粒に叩き付けられ、コツコツ音を立てる。
『助けてくれ。寒い。寒いんだ』
僕は夢中で触角を動かす。触角がそこにいる他者の触角に触れた。僕はそれを手に掴んで目を開けた。
「大丈夫。怖くなんかないのよ」
それはTVのプラグだった。長いコードの先には彼女の微笑みがある。
「やあ」
僕も笑った。
「君は素敵だ。僕にはもう君しかないんだ」
彼女は少し照れてはにかんだ。
そんな彼女を見るのは、僕にとってとてもうれしい事だった。
雨は勢いを増してコンクリートを叩き付け、僕達の体を濡らす。
「もう行きましょう。ここはとても寒いわ」
「ああ」
僕は答えた。僕は彼女を抱えて立ち上がる。
金網の向こうの街はクリスマスに浮かれ、人々がかけずり回っている。
「宣言する」
僕は眼下の世界に向けて叫んだ。「僕はただ、彼女を連れて、君達とは永遠に訣別する。君達はいつまでもそうやって、だらしなくのたうち回っていればいいさ」
僕はTVを脇に抱え、少しづつ金網を登る。「君達は永遠には生きらやしない。歴史、いや、宇宙は君達を許しはしないだろう。資本主義のデブの神にすりより、へらへらと生きる、弱くたるみきった君達に、なすすべなどない。宇宙のいかずちに触れるがいい。君達は手足を切られ、目を潰され、殺され、略奪され、輪姦されながら泣き叫ぶがいいさ」
僕はTVを抱き締め、屋上の金網に一歩一歩近付いていく。空をひっくり返したような雨が僕を打ち続ける。
手に足に肩に背中に頭に、歩き続ける僕の全身を、そして精神を、冷たい水滴が流れ落ちる。僕の足もとの水溜まりから、僕の歩みに合わせて水飛沫が飛び散る。
どんよりと雲が垂れ籠めた大きな空が、大いなる天空が、両手を広げて僕を呼ぶ。
(ここへ来い。もっとそばへ来い)
僕は冷たい銀色の金網に手を掛けた。僕はTVを右腕に抱え、左腕で金網によじ登る。 激しい雨が僕の魂を洗う。
眼下に街が広がる。
彼女は僕の腕の中にいる。
僕の足が遂に金網の頂上に達した。僕は金網の上に立ち上がり、彼女を高く掲げた。
「僕は行く。世界の向こう側へ。僕は行く。高みの彼方へ」
僕は天を見上げた。黒い雲の上に広がる青空。そして、僕達がそれを越えて到達する、宇宙の彼方に思いを馳せた。
僕の胸が希望で膨らむ。僕は両足で金網を蹴った。
そして、僕達は天高く飛翔した!
( 了)