少年院
grok
パトカーの揺れがルカの胃を締め付け、肩の傷と腕の黒い模様の疼きが彼をさらに追い詰めた。車内の狭い空間は息苦しく、鉄の匂いとビルの苛立った息遣いだけが響いていた。ルカは窓の外を見たが、ロンドンの街は灰色の霧に覆われ、まるでこの世界が彼を拒絶しているかのようだった。「何で…鍵が反応しなかったんだ…?」ルカは呟き、握り潰したくなるような無力感に襲われた。
ビルは隣で舌打ちし、手錠をガチャガチャ鳴らした。「ったく、ルカ、お前がその変な鍵なんか振り回すからこんな目に遭ったんだぞ。『扉が繋がる』とか何だよ、ふざけんな!」
ルカは唇を噛み、目を伏せた。「ごめん…俺も分からないんだ。鍵は…本物だったはずなのに。」彼の声は震え、腕の黒い模様がまるで嘲笑うようにうごめいた。黒い糸は皮膚の下を這うように動き、心臓に向かって少しずつ広がっていくのが感じられた。「この模様…ヴォイドウィーバーの呪いって、老人は言ってた。俺、死ぬのかな…」
ビルは一瞬黙り、ルカの青ざめた顔を見た。「おい、死ぬとか言うなよ。まだ終わってねえだろ。鍵が奪われたなら、取り戻せばいい。俺だってサツから逃げたことくらいあるぜ。」彼の声には強がりが滲んでいたが、どこか仲間意識のようなものが感じられた。
パトカーが急に停まり、ドアが開いた。冷たい空気が流れ込み、ルカとビルは乱暴に外に引きずり出された。目の前には灰色のコンクリートでできた建物がそびえ、鉄の門には「少年院」と書かれた看板が無機質に輝いていた。警官の一人がルカの腕を掴み、模様に気づいて眉をひそめた。「おい、このガキの腕、なんだこのタトゥー?気味が悪いな。」
ルカは腕を隠そうとしたが、手錠がそれを許さなかった。警官は鼻で笑い、「まあ、院の中で大人しくしてりゃいい」と吐き捨て、二人を建物の中に押し込んだ。
少年院の中は薄暗く、湿った空気が肌にまとわりついた。ルカとビルは別々の独房に連れていかれる前に、狭い廊下で一時的に待たされた。そこには他の少年たちもいたが、誰もが無言で、ただ虚ろな目で床を見つめていた。ルカは壁に凭れ、肩の痛みを堪えながら考えた。「鍵…あれがないと、織女の塔にも行けない。母さんのことも分からない…。小鳥はどこに行ったんだ?」
その時、ルカの腕の黒い模様が突然熱を帯び、鋭い痛みが走った。「うっ…!」彼が呻くと、隣にいたビルが慌てて声をかけた。「おい、ルカ!またその模様か?何だよ、それ!」
ルカが答える前に、廊下の奥から奇妙な音が聞こえた。低く、唸るような…まるで星の織女の歌に似たメロディだった。だが、それはどこか歪んで、不協和音のように心をざわつかせた。ルカの視界が一瞬揺らぎ、壁の向こうに一瞬だけ、真紅の髪の女性の影が映った気がした。彼女の翡翠色の目が、ルカをじっと見つめていた。
「ルカ…鍵はまだお前の心の中にある…」その声は頭の中で直接響き、ルカの胸を締め付けた。だが、声が消えると同時に、黒い模様がさらに腕を締め上げ、ルカは膝をついた。
ビルが肩を掴んで支えた。「おい、しっかりしろ!何だよ、今の!何か見えたのか?」彼の声には焦りが滲んでいた。
ルカは息を整え、囁いた。「織女…彼女が呼んでる。でも、この模様が…俺を邪魔してる。ビル、鍵を取り戻さないと…俺、このままじゃ本当に闇に飲まれる!」
廊下の奥から、警官の足音が近づいてきた。だが、その足音に混じって、かすかに「ピヨ」という小鳥の鳴き声が聞こえた気がした。
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独房に入れられてからどれくらい経っただろうか…。ルカの腹はとうに限界を迎えていた。いつから食事をしてないんだろう……。徘徊する警官を呼び止めてみても、食事の時間まで待て、そればっかりだ。
それからしばらくして、集合がかかった。
少年院での初めての食事。
これはルカにとってチャンスだった。さっきの歌の主を探すのだ。
それはそうとして、ルカは初めて見る食事に目を丸くした。銀の皿に盛られたものたち。…これ、食べれるのか?
「どうしたルカ?食べはいほか?食べはは…食べなきゃ、力つかないぜ。」
ビルに言われ、ルカは困惑しながら深皿に手を突っ込んだ。
「何やってんだ!」
ビルはそれを見て素っ頓狂な声を上げた。一斉に注目が集まる。
「シチューを素手で食べるやつがあるかよ。やっぱりお前何かおかしいな。スプーンって知ってるか?」
ビルはからかうつもりで言ったが、ルカがうなずいたのを見てため息をついた。
スプーンの使い方を教えてもらい、ルカはやっと落ち着いて食べることができた。
歌声の主を探して、周りを見回す。そのとき、食堂に誰かの鼻歌が響いた。あの歌だ…。
ルカは声の主を見つけた。けれど、声の主は真紅の髪も翡翠の瞳も持っていなかった。代わりに髪は真っ黒な癖っ毛で、瞳は灰色。ルカと目があい、二人は数秒見つめ合った。
どこからともなく大人が現れ、歌う少女に注意した。しかし、少女は歌うのをやめない。段々大人が苛ついていくのがルカにも分かる。それでも少女は、挑発するように歌い続けた。
ガンッ
大人の右手が、少女の額をぶった。少女は椅子から転げ落ち、その場に倒れた。大人がもう一度手を振り上げるのを見て、ルカは居ても立っても居られなくなり、少女と大人の間に立った。大人は目を細め、どこかへ行ってしまった。
食堂は静まり返った。
「大丈夫…?」
ルカが手を差し伸べると、少女はその手を取った。…冷たい、骨ばった手だ。
「ありがとう」
ルカは少女の目を間近で見、すぐに目をそらした。彼女は、盲目だった。灰色だと思ったのは、濁っていたせいだ。
「なあルカ…関わるのはよさないか?」
そういうビルは銀の皿をルカと自分の分どっちも持ってきて、少女の机に置いた。関わる気まんまんだ。
ルカは少女を椅子に座らせ、尋ねた。
「僕はルカ。君は?」
「私は…ルシアン。」
ルシアン…。ルカはその名を心の中で噛み締めた。
「ルシアン、さっきの歌は何?どうして歌ったの?」
ルカがなるべく優しく尋ねる。
「…私も貴方と同じ星を紡ぐ者だから。」
ルカは心臓が飛び出てないか胸を見下ろした。星を紡ぐ者……!?何でこの世界に…?そもそも…僕以外にもいたのか!
ルカは嘗てない感情に襲われた。僕は…一人じゃない!
「…なあ、お前らが言ってるその星を紡ぐ者って何なんだ?不治の病か何かか?」
「ちょっとビルは黙ってて」
ルカに適当にあしらわれ、ビルは口を尖らせ黙った。
「君…どうやってこの世界にきたの?どうして僕が星を紡ぐ者だって分かったの…?」
ルシアンはルカの瞳をまっすぐ見た。見えないはずの目で。
「星を紡ぐ者は、本来、自分が望んだ場所へ自由に行けたのよ。私やあなたの…遥か前の時代までね。けれど、星の狭間の番人がその自由を奪った。私はその方法を知っていたからこの世界に逃げてこれたけど。それと、あなたも私が星を紡ぐ者って、分かってたでしょ?星を紡ぐ者はお互いに繋がっている。番人でさえ断ち切れない糸でね。」
独房に戻り、ルカは考えにふけった。何もかもが突然で、頭を整理する時間が必要だった。しかしその時間も長くは続かなかった。
「待たせたね。」
どこか聞き覚えのある声が、独房の外で聞こえた。見ると、薄暗い廊下を背に、真紅の髪と翡翠の瞳を持った女性がこっちを見ていた。けれど…何か変だ。警察の服に身を包み、彼らと同じような帽子を被っている。
あの織女のような柔らかい表情とは似ても似つかない。どちらかというと、魔女と言った方が似合うような笑みを浮かべている。
「魔女……。」
ルカは思わず口に出し、慌てて口を抑えた。それを聞いた女は案の定顔をしかめて怒ったように言った。
「助けに来たってのに失礼な。私のこと、忘れたとは言わせないよ?」
ルカは格子から身を乗り出し、やっと女性の正体に気づいた。まだ半信半疑だったが。
「もしかして……あの小鳥…?」
女性はニヤリと笑ってうなずいた。右手で鍵をクルクルと回している。ルカが無くしたと思ったあの鍵だ!
「さあ、こんな世界さっさと抜け出そう!」