第22話 男性恐怖症、再発
その晩どうやって帰ったか、記憶がない。
衝撃的すぎると、記憶が飛ぶと言うことを初めて体験した。
「奥様、いつまで寝ていらっしゃるんですか」
アンの声で、我に帰った。寝ていた。
「もう、旦那様はお仕事に出られました。朝食の時間も過ぎております」
この私を、恋する男が、この世の中に存在するだなんて。
身体中がモゾモゾする。
ベッドの中から出たくない。
「いい加減に旦那様のベッドから出てきてください。そして朝食を召し上がってください。ちっとも片付きませんので!」
うう……。旦那様のベッド……。それだけ聞くと、衝撃的だわ。
アンは軽蔑したような目つきだった。
「あんなにだんなさまに愛されているのに、お見送りくらいなさったら? もう少し大事にされた方がいいと思います」
愛されている?
この態度の悪い、使用人として最低のアンに注意された私は愕然とした。
旦那様の真実の恋人を探す仕事はなくなった。
私は旦那様の役に立てない。
旦那様が私に求めていることは、仕事じゃない。違うことだ。
私はどうしたらいいんでしょうか。
旦那様を愛せと?
だが、愛されてるから愛し返すのって義務なのでしょうか。
愛って何?
「目いっぱい幸せなくせに」
アンはブツブツ言って、朝食のお盆を置いて旦那様の部屋を出て行ってしまった。
て言うか、それより先に同じ部屋で寝ていたはずの旦那様が、今更ながら怖くて怖くて、胃がキリキリする。
旦那様は、それまでのお仕えする対象から、男性に逆戻りしてしまった。恐怖心は抑えようもない。
目で笑いかけてくるのはわかるのだけど、それがまた怖い。
そのうち、鬱陶しいとか言われて、お飾りの妻の座から追い払われるかも知れない。気持ちは重々わかります。
「離婚されても無理はないわね」
思わずぼやいたら、意外なところから合いの手が入った。
「このダメ女。どうにかしろ。勿体ない」
アンがお盆を下げるために、部屋のドアを開けて入って来たのだ。小さな声でののしって言るのだが丸聞こえだ。
もしかして、叱咤激励?
「ねえ、アン。あなた、旦那様をどう思う?」
アンはちょっと驚いたようだったが、プンプンしたようすで答えた。
「良い方ですしね! 見た目も悪くないし。貴族の女性にはモテると思いますよ! ましてや今は爵位の件も昇進の件も、皆さんご存知ですからね!」
評価は悪くないのか。
何回みても旦那様は旦那様。私にはいい男なのかも含めてよくわからない。
「それにね! 同じ家にいるとわかりますでしょ? 奥様に夢中な夫なんて、ホント、バカに見えますわ」
え? バカだったの? それだけは違うと思うわ。旦那様は頭のキレる方だと思う。
そう言うと、アンはますますイライラしたらしかった。
「奥様! 旦那様を大事になさらないなんて大間違いですよ!」
そして、音高くドアを閉めると出て行ってしまった。
アンをクビにするかとぼんやり考えていたのだが、やっぱりいてもらおう。
私は思った。
女主人の私に食ってかかるとはいい根性だ。
でも、アンの言っていることは、正しいのかもしれない。
なんだかんだで、何のことはない、結局、男性恐怖症が復活してしまった。
ちょっと、打ち解けてきて、旦那様も男ではあるものの、なかなかいい人間なんだ、と思い始めてきたのだけど。
ただ、いつも心の中の何処かで、あれは男だという警戒音が鳴り響いていた気はする。
大根の調査をしなくては、とか、昔のクラスメートの名簿を作らなくちゃとか、そう言う使命があることに取り紛れて、そのことを忘れていた。
夕食の時、一緒になったが、旦那様もなんだか表情が硬い気がする。
それはそうかも。なにしろ、私はギンギンに緊張していた。
「シャーロット」
「……はいいっ」
私は返事した。
旦那様はため息をついた。
「来週なんだけれど、実はご招待を受けている」
「はいいっ」
「もうちょっと普通に答えられないの? 夫婦同伴でと言われているんだが」
「ふ、夫婦同伴……」
ダメだ。普通に答えないと。例の町の飲み屋で拾ってきた女性と結婚した騎士様みたいに噂になってしまう。あれはあれで、気の毒だけど。私たちは不仲の夫婦だと言われるんじゃないかしら。
「夫婦同伴が、嫌なら断っていいんだ」
ごめんなさい。温かいご配慮をありがとうございます。
「どちらへうかがうのでしょうか?」
私は震え声で聞いた。
旦那様はしっかりとした目つきで言った。
「ラムゼイ伯爵の邸宅だ」
途端に、目が醒めたように恐怖心が消え去った。
これはデートのお誘いとか、男女の間の話ではない。旦那様の将来にかかわるお話……むしろビジネスのお話だわっ。
私は背筋がピンと伸びるのを感じた。
「それは、ラムゼイ伯爵様からのご招待ということですわね」
「もちろんだ。こちらから押しかけるなんてことできない。親戚だが、ラムゼイ伯爵は相当な変人だからね。押しかけようものなら、何を言われるかわからないよ」
「ご親戚の方は、大勢いらっしゃいますの?」
私は、突然普通に食事を始めながら、旦那様に尋ねた。
「親戚は多い。だけど、伯爵が後継に選べそうな人間は私ともう一人、従兄弟のモードント卿くらいだと思う」
「どんな方たちですの?」
「モードント卿かい? 伯爵かい?」
旦那様はめんどくさそうに聞いた。
「もしよければ両方」
「伯爵は知っての通り、変人中の変人だ。女性嫌いで有名。モードント卿は僕より少し上かな。官僚として優秀だと言われている。三ヵ国語話せるんだ」
「優秀なのですね」
「うん。僕みたいな脳筋とは違う」
「おかしなことおっしゃらないで。誰もあなたのこと、そんな風には思っていないわ」
旦那様は突如スラスラとしゃべり始めた私を見つめた。
「僕としてはどうでもいいんだ。ラムゼイ伯爵の領地は広くないし、大した上がりもない。名前だけだ。資産は相当にあるらしいが、彼が個人的に稼いだものなので、もしかすると軍人団体とか、武器の記念館とか、チェス協会とか、妙なものに山ほど寄附しているかもしれない。爵位好きには魅力だろう。例えば、モードント卿なんかにはね」
「モードント卿は爵位好きに分類されるのですか?」
旦那様はむしゃむしゃ食べ始めた。
「彼の場合は、必要なのだと思う。なぜなら彼は外交官だ。そう言う仕事の場合、爵位があるとないとでは、大きく違ってくる。本人の問題ではないよ、相手側の態度の問題だ。貴族は尊重される」
私は、ちょっと憂鬱そうな顔になったと思う。
本人の資質以外で判断されるのは、嫌だろうと思う。でも、人は何を考えているのか、外からはわからない。育ちや境遇から推し測ろうという発想が出てくるのも、仕方ないかもしれない。そして残念ながら、それは当たることが多い。
「それで、シャーロット、どうする? そのお茶会だけど」
私たちは、結局、断ることもできず、ラムゼイ伯爵の招待に応じることになった。
「それはそうでしょ? 伯爵様よ? 爵位はかっこいいじゃない」
姉はケロリとして言った。自分だって伯爵夫人でしょうに。
「気に入られないんじゃないかしら?」
「誰のこと? あなたのこと?」
私は渋々うなずいた。ラムゼイ伯爵は、ものすごい女嫌いで、その邸宅にはここ数十年、女と名のつくものは、犬の子一匹入ったことがないと言う。
「そんなはずないわよ。ハリソン夫人は行ったことがあるって」
姉は教えてくれたが、その件に関しては、私の方が詳しい。
ラムゼイ伯爵は、女性が仕事をするのは許せないと、ハリソン夫人に廃業を求める文書を送りつけて来たそうだ。
いくらなんでも、やり過ぎである。しかし、夫人は堂々と訪問して、罵倒して帰ってきたらしい。ラムゼイ伯爵に女の知り合いはいないので、どんなに反論しても商売に影響はないから言いたい放題だとのたまっていた。
一体、何をどうしゃべって来たのかしら。
「あなたと似たタイプなのね」
姉は笑ったが、ちょっと違う気がします。ハリソン夫人の方が私より大物だと思う。
そんなラムゼイ伯爵の問答無用の女嫌いを思うと、私が同伴しているだけで旦那様にとって不利になるのではないかと心配になって来た。
大体、女の私が旦那様に正々堂々と口論を吹っ掛けたのが馴れ初めだなんて、ラムゼイ伯爵は気に入らないに決まっている。
「どうしたら気に入られるかしら」
「できるだけ黙っておいたらいいんじゃない?」
姉は賢明な忠告をしてくれた。