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短編集『桜歩道』

縁側

作者: 宮本颯太

 梅雨の時期が来ると亡くなった父のことが思い出されて、私はいつも娘を連れて東京から千葉県の実家に帰る。外務省に勤めている夫とは一緒に過ごす時間があまり取れないので、二人で傘を差して遊びに行くのが毎年の慣習となっており、父がいなくなってからは一人で住んでいる母が出迎えてくれる。


 私の実家は伝統的な日本家屋で、中庭に造られた大きな池でカラフルな錦鯉が泳ぐのを見渡せる縁側は、娘のお気に入りの場所だ。

 普段はお転婆な4歳の娘もこの縁側では嘘のように静かに座って、雨の中庭と、池の波紋を楽しむ鯉の様子を、じっと眺めている。


「あんたもあんな風にしてたわ。お父さんと二人で、飽きもせずにね……」

 縁側にちょこんと座る娘の小さな背中を、座敷で私と見守っていた母が懐かしそうに言った。


 笑みをこぼす母の横顔から娘の背中に目を移した時、私は一瞬だけその隣に父の後ろ姿を見た気がして、ハッとなった。

 本当に一瞬だけ、(ぬれ)()色の和服を来た父が娘の隣に寄り添っていたのが見えたのだ。


 その一瞬がきっかけとなって、私は自分が縁側の娘と同じくらいの年齢だった頃の、父との思い出に意識が遡って行った。


 ◆


 私も父も雨が大好きだった。小さい頃には縁側に父と並んで座って雨音を聴きながら、中庭にある池に波紋が広がって蓮の葉が流れたり、水の中を泳ぐ鯉の姿が滲んで見えたりするのを静かに楽しんでいた。

 そんなある日、私はふと池の(へり)の近くで死んでいる蝉に目が留まった。いつもだったらそんなの気にしない筈なのに、ピクリとも動かず雨に打たれている姿にその時は何故だか切ない気持ちになって、父の和服の袖を掴んだ。

「ねえお父さん。あそこでセミさんが死んじゃってるね」

「うん、そうだね。蝉の命は短いから」

「セミさんはどれくらい生きるの?」

「1週間……7にちくらい、とよく言われるけど本当は1ヶ月か2ヶ月くらい生きられる」

「えーそんなに?」

 私は蝉の寿命がそんなに長いと言うのが信じられなかった。

「でもやっぱりセミはすぐに死んじゃうよ。それはどうして?」

 私が父を見上げると、「ふふふ」と父は笑った。


「実は蝉は飛ぶのが苦手なんだ。体が大きいのに羽が薄いから、上手く飛ぶことも、長く飛び続けることもできない。おまけに暑さにも弱い。だから電柱や家にぶつかって落ちたり、暑さにやられたりして、大人になってもすぐに死んでしまうことが多いんだよ」

「へぇ、そうなんだ。じゃあ子供のセミさんはどうしてるの?」

「うーん、蝉の種類にもよるけど、長いものは7年くらい土の中にいる」

「えーッ!すごい」

「そう。7年経ったら土から出てきて、大人になるんだ」

「へー……」

 私はそんなに長い間土の中にいて、出て来たらすぐに息絶えてしまう蝉がますます気の毒になった。


「ねぇお父さん」

「うん?」

「それじゃあ、セミさんは何をしに出てくるの?」

「ああ、それはね。鳴いたり飛んだり、卵を産んだりする為だよ。そうやって自分が死んだ後にも命を繋いでいくんだ」

「ふーん」

 やっぱり納得しきれなかった私に、父は言った。

「何年もずっと土の中で我慢して、ほんの短い間でも自分のやらなきゃいけない事の為に精一杯生きる。大したもんだな」

「でも、あのセミさんは卵を産めたのかな。ちゃんと飛べたのかな」

「うーん、どうだろうね。卵を産んだかは分からないけど、少なくとも一生懸命飛び回ったと思うよ」

「そう……」

「悲しいかい?」

「ちょっとだけ」

 と私は言ったが、どうしても蝉が可哀想に思えてしまって、つまんでいた父の袖に顔をつけて泣いた。

 優しい雨の音の中、父の華奢な手が私の頭を撫でてくれた。

「そうか……そうだね。でもあの蝉は自分の為に悲しんでくれる人がいて幸せだと思うよ」

「本当?」と私は顔を押さえつけたまま、溢れてくる涙を止めようとしながら震える声を漏らした。

「そうさ。本当なら誰かに知られることも、見つけてもらうこともできなかったんだから」

 そう慰めてもらっても、私はあの蝉が結局は独りで最期を迎えた事がひたすら哀しくて、何の根拠もなく自分や家族に重ね合わせてしまった。

「ねぇ、お父さん」

「うん」

「お父さんもお母さんも私も、死んだらどうなるの?」

 ふとしたきっかけで意味の無い不安に駆られた私に、父は「分からない」と答えた。即答だった。

 しかしそれでも、こう続けてくれた。


「でもきっと、大切なものの(そば)にいるさ。いつかきっと()()も分かる時が来るよ」


 不意に名前を呼ばれながらそう諭されて、悲しさや寂しさに胸が押し潰されそうだったのが少しずつ和らいでいったのを、今でもよく憶えている。


 あの後、父は雨が弱まった僅かな合間に私と傘を差して池の縁まで行き、蝉の亡骸を拾い上げて中庭の木の根元に埋めてあげたのだった。


 きっと生涯忘れる事はない、小さな頃の思い出――。


 ◆


「――あっ、ねえお母さん!」

 雨音の中に娘の明るい声が響いて、私は夢から覚めた様な気持ちになった。

「何なに?どうしたの」

 正座していた足の痺れにすぐには立てず、畳の上に拳をついて、膝歩きになりながら娘の方に近寄っていく。

「ほら、ここ!見て見て」

 小さな手が指差す先には、一匹の蝉がいた。ちょうど私が父の幻影を見たのと同じ位置だ。私たちに見つかっても慌てて飛び去ろうする気配もなく、かといって弱っている様子もない。ただ静かに縁側に()まって、娘の隣で雨宿りをしていた。

 遅れてやって来た母もその蝉を見て、「あら」と言ってまた微笑んだ。


 私は父の言葉を思い出して、あの優しさの中に今、皆んなで一緒にいる気がした。


 やがて(あま)(あし)が弱まったのを見計らって、縁側の蝉はそっと飛び立った。まるで私たちを驚かせない為に気を遣ってくれたようだった。どうやら雨宿りの場所を中庭の木に移したらしい。


「あっ!セミさん行っちゃった……」

 バイバイ、と少しだけ寂しそうに手を振る娘に、高い木の幹から蝉の声が返ってきた。


 雨脚が再び強まってからも、途切れることなく聴こえていた。

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