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ま、山だしね。(御岳山)

 生まれて初めて登った山が御岳山だった。

 とは言っても、自分の足で登ったわけではない……と思う。まだ私が幼稚園に入ったかどうかといった頃、家族全員で旅行にきたのがこの山なのである。

 なにしろ幼い頃の記憶なので極めて曖昧だが、しかし、かつてここに来たことがあるのだけは間違いない。

 今になって考えれば、幼児の脚で山登りができるとも思えないので、きっと殆どは父親におんぶされていて、緩やかな道をほんの少しだけ歩いたのを、あたかもすべて自分で登ったように記憶してしまっているのだろう。

 ケーブルカーに乗ったこと、七代の滝という滝があったこと、その近くで巨大なヤマビルを見たこと、天狗の腰掛け杉という杉があって兄貴がその枝に座ったこと、あとタカアシグモ(と、私が勝手に名付けていた脚の長い蜘蛛)がお昼ごはんの缶詰に寄ってきたこと……などが記憶に残っている。

 ちなみにヤマビルの大きさだが、幼児だった私の言葉で語ったところで説得力の欠片もないが、父親がものすごく興奮していたのを覚えている。

 今でもその話をすると、「おそらく軽く百年以上は生きている個体で、動物学者に言ったところでまず信じないような、とんでもない大きさだった」と真顔で言う。

 物事を大げさに語ることを嫌う父親がここまで言うのだから、きっと本当にとんでもない大きさだったのだろう。

 ともかく、幼児の頃の記憶というものは何もかもが夢うつつのようなものだ。今となっては自分の脳裏に残っている光景が現実なのか、それとも父親に聞いた話で脳内脚色して造り上げているだけなのか、自分でも自信のないところだ。

 そんな曖昧な記憶ながらも、当時の私は子供なりに「山はすごく不思議な場所」という印象を心に焼き付けていた。

 そんな意味で、もしかしたら御岳山とは、私にとって特別な山なのかも知れない。


 前置きはこのくらいにして、今回の山行計画を述べていこう。

 6月も終わろうかという某日。

 今回は珍しく電車での登山だ。特に深い理由はない。単に、愛車サンバーを母親が使っていると言うだけの話だ。

 始発電車に乗ると、JR御嶽駅には5時40分ごろに到着する。

 まだバスもケーブルカーも動いていない時刻なので、歩いて山頂に。

 次は七代の滝とロックガーデンを散策というか観光して、そのまま大岳山の山頂まで行ってみるつもりである。

 ここで体力に余裕があれば、更に鋸山、愛宕山と進んで、奥多摩駅に下りてくる。距離だけで見るならば、高尾山~陣馬山の縦走ルートよりも若干短い。ただ、大岳山は高尾山~陣馬山のどの山よりも険しい山と聞く。

 登るのに体力を使いすぎてしまった場合は大岳山でピストンするということで、入山届を出しておいた。

 今日の山行は幼い頃の記憶の再確認を兼ねている。いつもよりもワクワク度は大きいというものである。

 さあ、冒険の始まりだ。


 電車を降りて歩き出すまでは順調。そりゃそうだ。

 多摩川沿いに道路を歩き、「御岳山登山道→」と書かれた看板に従い多摩川のほうへと下りると、橋があった。


挿絵(By みてみん)


 この辺りまで来ると、多摩川もかなり綺麗な景色である。渓流まで遡る一歩手前といった趣で、岩陰の深みに魚の影などを探したくなるが、さすがに距離が遠すぎるか。

 橋を渡ると、やたらに急勾配な登り坂になる。登山を始める前からこれか。しかも、道は細くなって行く。おいおい、本当にこの道で御岳山に登れるんだろうな……などと思い始めた頃に「ケーブルカー駅→」の看板を見つけてホッとした。

 多摩川から離れてアスファルトの坂道を登る。この辺はまだ御岳山には入っておらず、そこいらには普通に民家がある。しかし、御岳山に到着すらしていないというのに、この坂道はかなりきつい。距離がある上に勾配もそこそこ。「登山歩きは登山を始めてから」なんて思っていたが、多摩川を渡った辺りでもう登山は始まってると考えたほうが良いようだ。

 面白くもなんともない坂道に少々ウンザリし始めた頃、ようやくケーブルカー滝本駅が見えてきた。


挿絵(By みてみん)


 時刻は6時半。

 ケーブルカー駅をスルーして左手を見ると、鳥居と橋が見えた。登山道入口である。

 やれやれ、今回は登山を始めるまでに随分と歩かされたものだ。

 さっそく登山道に入るが、なんということだ。ここもコンクリートで舗装されているではないか。まるで高尾山の一号路だ。なんだかえらく損した気分だ。


挿絵(By みてみん)


 黙々と歩くものの、やはり、コンクリートの坂道は退屈極まりない。この坂道には要所要所にこの地に由来する妖怪や、その周辺の道に付けられた名前などを紹介する看板が立てられている。一応、目を通してはいくが、しかし退屈を紛らわせるには程遠い。

 しばらくすると、なにやらエンジン音が鳴り響いてくる。上からだ。坂の上から原付バイクが下りてきたのだ。

 服装から判断するに、どうやら学生だ。

 なるほど、頂上の街の住民というわけか。頂上の街には、登録された車両しか乗り入れることが出来ないらしい。それも、軽自動車と原付きバイクに限定されているようだ。

 山頂の人々は、こうやって山道を原付きバイクや軽自動車で登り降りすることで、下界と行き来しているのか。山の上に住むというのも、なかなか大変だ。

 ……それにしても、正直、この道は駄目だ。楽しくもなんともない。ちっとも登山をしている気になれないし、そのくせ勾配はきつく距離も長い。辛いばかりで良いことがない。おまけに景観も悪い。

 とか思っていたら、少し離れた場所から、ゴゥンゴゥンゴゥンゴゥンと機械的な音が響いてくる。ケーブルカーだ。ケーブルカーの始発が動き始めたのだ。

 うーむ。ここまで楽しめない山登りというのも初めてだ。ひたすら苦行に思えてくる。まあ、一度くらいは自分の脚で登っておくべきかと奇妙なこだわりもあったが、この道は一度で充分だ。

 ようやく、建物が見えてきた。山頂の街だ。

 時刻は8時ちょっと前。

 ケーブルカー御岳山駅から続いているらしき道と合流すると、ケーブルカーで登ってきたのであろう登山客がわらわらと歩いてきた。

 なんだ、この敗北感……。バスが動き出すのが7時半。そのままケーブルカーに乗り継げば、JR御嶽駅から30分足らずでここまで来れる。

 始発電車に乗るために朝の4時に起きたのがアホみたいである。しかも、睡眠時間を削ってまで歩いたのが、あの面白くもなんともないコンクリ坂道。やってられん。

 しかしまあ、こう感じるのも、一度は自分の脚で登ったからこそだ。やらなけりゃやらないで「最初くらいは自分の脚で登っときゃ良かった」とかグダグダと後悔するだろう。これもまた一つの経験ということにしておこう。

 ……でも、もうあの道は歩かない。


 さて、気を取り直して山頂の街へと入っていく。

 旅館や観光案内センター(御岳山の管理事務所を兼ねているっぽい)、あとは茶屋とお土産屋さんだ。この時間はまだ開いてないらしい。

 道は多少アップダウンするが、あちこちに「御嶽神社→」の看板がかかっているので、迷うことはない。

 いかにも表参道と言った趣の商店街を進むと、階段が見えてきた。山頂の御嶽神社だ。


挿絵(By みてみん)


 うーむ。記憶にない。幼児の頃には神社仏閣などには欠片も興味がなかったのだろう。ともあれ、二礼二拍手一礼。きちんと参拝してから、横のベンチに座って行動食を齧る。

 今日は晴れてこそいるが雲も多く、御嶽神社からの眺めはいまひとつよろしくない。見えるのは、すぐ近くにある日の出山くらいのものだ。だが、それも仕方がない。そろそろ梅雨も近いのだ。これだけ晴れただけでも僥倖と言えよう。

 階段を少し下りると途中で道が別れている。表参道から外れた方に行くと、御岳山の観光スポットの入口だ。

 まずは、少し平坦な道を歩いた先で、長尾平展望台。やたらに開けた広場があると思ったら、石を埋め込んでなにか模様が象ってある。大きな円と、その中にアルファベットのH。遠くから見れば一目瞭然、ヘリポートだ。御岳山の街で急病人が出たときとかに使うのだろうか。

 展望台の先まで歩くと、やはり天気がイマイチのため遠くまでは見えないが、さっきの日の出山方面がより見渡せる。これはこれで悪くない景色だ。


挿絵(By みてみん)


 なによりも、ヘリポート周りの広場といい、休憩するのには最高の場所である。ついでにトイレもある。

 展望台入口まで戻ると、奥へと進むルートと、細い階段を下っていくルートに分かれる。奥へ進むとロックガーデン、階段を下りると七代の滝だそうだ。

 滝。滝である。滝だいすき。階段をどんどん下りてゆく。地図によれば、少し階段を下った先に七代の滝があり、そこからロックガーデンに行けるらしい。実にお得なルートだ。


 などと考えていたのだが……なにこの階段。少しどころじゃない。ぜんぜんお得じゃない。完全になめてた。

 なにしろ、父親におんぶされていたであろうとは言え、幼児の私が行ったくらいなのだ。幼児でも可能な程度の階段と考えていた。冗談じゃない。いったいどこまで降りれば良いんだ。まさか、山ひとつぶん下りろとでもいうのか。

 そして、下りるということは、あとでロックガーデンに向かう際には、同じ高さまで登るということでもあるのだ。つらい。今下りてる階段もつらければ、後のことを考えてもつらい。

 実際、父親は幼児の私をおんぶしてここを下りたのだろうか? 2歳離れた兄、4歳離れた姉が一緒に居たはずだが、私の年齢を考えるとせいぜい小学一年生と三年生といったところだろう。単にきついというだけではない。危険である。階段を転げ落ちる程度なら骨折の一つや二つで済むかも知れぬが、階段でないところへふらりと落ちようものなら、命に関わりかねない。そういった道だ。

 疑問に思いつつも階段を下りていくと、地面が滑りやすい岩場混じりになってきた。なおさら危険である。


挿絵(By みてみん)


 さっきから聞こえていた沢の音がだんだん大きくなり、どうどうと激しく流れる音に変化していく。

 着いた。七代の滝である。ちなみにガイドブックや看板によれば「ななしろ」ではなく「ななよ」だそうだ。


挿絵(By みてみん)


挿絵(By みてみん)


 規模は大きくないが、勢いがあって水しぶきの気持ちいい滝だ。3メートルほどの崖から水が落ちて、そのまま岩を削るように足元を流れ、再び崖に吸い込まれ眼下へと落ちていく。

 この滝を子供の頃に見たのだろうか。難しいところだ。見たと言われれば見た気もするし、そうでないと言われればそうでない気もする。判断がつかぬ以上、保留にするしかない。

 残念ながら、ヤマビルはいない。まあ、いたらいたで対応に困るのだが。


 さて、次だ。

 さっきとは別方向の階段を登れば、ロックガーデンに復帰できるらしい。そう、登るのだ。

 ロックガーデン方面の階段は鉄製で、しっかりした手すりも着いている。手すりの分だけ登りやすいが、鉄が埋め込まれているコンクリ土台が削れまくっていて、宙に浮いてる部分も多い。やっぱり危険だ。子供がホイホイと歩いていい場所とは思えない。

 さっき下りた階段と同じ分だけ登らねばならないと覚悟していたのだが、思いのほかあっさりと平坦な道に復帰できた。どうやらロックガーデンからこの辺りにかけて、全体的にゆるやかな傾斜の散策路になっているようだ。助かった。

 散策路に出たところに、ドドーンとでかい岩が転がっている。天狗岩と書かれていて、岩には鎖が掛けられている。


挿絵(By みてみん)


 見た瞬間、なにやら脳内で記憶の火花が走った。この岩、見たことがある。鎖を伝って岩の上に登ると小さな天狗の像があり、それに触れるとご利益があるとか。そして、兄貴がそこに登ったのを下から見上げていたような気がする。

 だが、改めて見ると、やはり危険である。落ちたら良くて大怪我、悪ければ命を落とす高さだ。父親が兄貴に登ることを許したとは思えない。なんだろう。記憶が混乱する。

 今の私ならあるいは登れるかも知れないが、実のところ、超疲れた。七代の滝に下りるのと、そこから登ってくる行程が想像を遥かに超えるきつさだったため、体力残り20パーセントくらいにまで減少していた。とてもじゃないが、余興に岩登りできるコンディションではない。

 仕方ない。ここは見るに留めてロックガーデンに向かおう。

 ここからは比較的なだらかに散策路が続き、何の問題もなくそれらしき場所に出た。左右を崖に挟まれた格好の沢沿いの道だ。

「こりゃ……すげえな……」思わずそんな声が漏れる。

 ロックガーデンという名前だけ聞いていて、何がどうロックなガーデンなのかと思っていたが、これは確かにロックなガーデンだ。


挿絵(By みてみん)


 さっきの七代の滝近辺もそうだったが、御岳山の特徴なのか岩がいちいちでかい。超でかい。沢の中にゴロンゴロン転がっている岩もゆうに数メートルはあるが、それにも増して目を引くのは左右の崖の上だ。

 なにあれ。直径数十メートルか、それ以上か。想像もつかぬほどの巨岩がそこかしこに顔を出している。顔を出している部分だけでも10メートルはある。地中に隠れている岩盤の大きさを想像すると、この辺りには数十メートル、ことによっては百メートル以上にもおよぶ一枚岩がゴロゴロしているようだ。

 そして、それらのすべての岩の露出部分が、エメラルドグリーンの苔でびっしりと覆われているのだ。三頭山でも同じような光景を見たが……うむ、軍配はこちらに上がるか。

 苔や沢の美しさは同等と言えるが、なにしろ岩の大きさが圧巻である。ロックガーデンとはよく言ったものだ。


 巨大な岩と見事な苔のコラボに、しばし疲れを忘れながら歩いていたら、休憩所が姿を表した。途端に、自分が疲れ切っていることを思い出して座り込む。ついでに行動食を齧る。

 反対方面からやってきた爺さんが二人、同じテーブルについた。

 例によってフレンドリー効果の影響を受けているため、またたく間に仲良く話し出す。

 御岳山を観光してから大岳山に向かおうと思っていたら、七代の滝で思いのほか疲れてしまった、などと身の上を話すと、「そりゃそうだ。御岳山で観光と登山を一緒にやるのは無茶だよ」と言われた。……そうだったのか……。

 ところでこの爺さん二人、かなりの高尾山マニアだそうだ。今日はたまたま御岳山に来たが、高尾山には数え切れないほど登っていると言う。なにを、高尾山ならば負けてはいない。3回だが。

「やっぱ六号路が最高ッスよねー」「いや、一号路も捨てたもんじゃない。途中から入れる四号路も楽しいから、ぜひそっちも登ってみなさい」なるほど、そういえば二、三、四号路は一号路のオマケみたいに考えていて、歩いてなかった。そのうち行ってみるか。

 こんなことを話してる間、爺さんのひとりがコッヘルとバーナーを持ち出した。

「一緒にどうだい?」どうやらカップ麺を食うらしい。余っているのか、私にも勧めてくれるが、ここは辞退である。なぜならば……。

「いや、俺も持ってますから」そう、結局買っちまったのである。

 私のザックの中には、コッヘル、バーナー、ガスカートリッジ、そしてアルファ化米のドライカレーが入っているのである。

 実のところ、これから大岳山に登るかどうか、まだ迷ってはいたのだが、この流れで心が決まった。もう、今日はここまででいいや。

 爺さんの言う通り、御岳山観光と大岳山への登山を一緒にやるのは、少なくとも今の私の体力では現実的ではない。ここで飯食って、適当に遊んで引き返そう。

 挫折と言えば挫折ではあるが、無理をして怪我をするよりは、よっぽど正しい判断だろう。


 さて、肝心のドライカレーだが……。あまり味がしない。うーん……? これあんまり美味しくない……? とか思って食べ進むと、今度はやたらに味が濃くなってきた。ああ……食べる前によくかき混ぜろっていうアレなのね……。うう……カップ麺にしときゃ良かった。

 お、タカアシグモ。やはり御岳山にはこの蜘蛛が多いようだ。蜘蛛といってもガサゴソと歩き回るたぐいのアレではない。脚が超長く、なんというか、宇宙戦争という映画に出てくる宇宙船、トライポッドを思わせる形状だ。動きはものすごく鈍く、風に揺られてゆらゆらしながら歩いている。実に宇宙人くさい。


挿絵(By みてみん)


 ちなみに、家に帰ってから調べたら、これは「タカアシグモ」という名前ではなく、「ザトウムシ」というらしい。

 脚が八本でどう見ても蜘蛛だが、実はこれは蜘蛛ではなく、生物学的分類ではダニとかに近いらしい。確かに、よく見ると頭と胴が分かれていない。まんまるだ。それに、蜘蛛は頭(頭胸部というそうだ)と腹部に別れ、頭胸部からすべての足が伸びているのに対し、ザトウムシは胴体の外周から足が伸びている。なんとも不思議な生き物である。

 ザトウムシが入ってこないように気をつけつつご飯を食べていたところ、「それなに?」爺さんが私のザックから伸びるハイドレーションチューブに興味を示した。

 ハイドレーションシステムについて説明すると、なんかすげえ興奮して「帰ったら絶対に買う! ネット通販はよくわからんから息子に買わせる!」と息巻いており、なんだかほっこり。

 ザックもハイドレ対応のものに新調しようと言っていたが、その爺さんのザックも中々新しそうだ。もったいないんじゃねえの? などと思ってよく見せてもらうと、見覚えのあるチューブ穴が。

「そのザックもハイドレ対応してないッスか?」「なにおう!?」

 こんな感じで、しばし登山グッズ談義が続いたのであった。


 時刻は正午のちょっと前。

 すっかり尻に根っこが生えてしまったが、爺さんたちが七代の滝方面へ去っていった今、私だけボンヤリ座っているわけも行かぬ。

 のろのろと立ち上がり、ロックガーデンの緩やかな勾配をのんびりと上っていく。

 相変わらずの巨大な岩とエメラルドグリーン。やはり、幼児の私もここを歩いたのだろうか。まあ、幼児に苔むした岩の良さなどわかるはずもなかろう。記憶にまったくないのも仕方ないというものか。

 沢沿いゆえに水音は絶えないが、しかし再びどうどうと激しい音が聞こえてきた。

 そういえば、御岳山にはもう一つ滝があるのだった。

 綾広の滝である。


挿絵(By みてみん)


 さっきの七代の滝の上流に位置し、水量も同じ程度、しかしこちらのほうがずっと高いところから落ちていて、しかも滝壺のすぐ近くにまで行けるので迫力がある。

 うん……? この景色は見覚えがある気がする……? ここでお弁当を食べたような……? 焼き鳥か何かの缶詰にタカアシグモ……もといザトウムシが2、3匹集まってきたことも覚えている。

 うん。子供の頃に見たのは七代の滝じゃなくてこっちの綾広の滝じゃないのか? 帰ったら父親に聞いてみよう。


 さて、綾広の滝のすぐ上にある分岐で、御嶽神社方面に戻る道と大岳山に登る道とに分かれている。

 体力は多少回復したものの、やはり大岳山といった感じではない。心が折れる、とでもいうのだろうか、「今日はもう帰ろう」と決めた瞬間、先へ進む意欲は不思議なほど引っ込んでしまうのだ。

 だが、このまま帰るのもなんだか悔しい。悪い病気が始まった。

 地図によれば、この近くから少しきつい勾配を登れば、御嶽神社の「奥の院」があるという。

 この上には尾根道があり、そこから奥の院の社に行けるようだ。

 どうせ観光になってしまったのだ。この際、見どころは全部観光していこうと思い、奥の院に向かう細い階段を登る。

 数分で後悔することとなった。少しきつい勾配ではない。ものすごーくきつい勾配なのだ。私というゴリラは、いつもこれである。

 こないだの三頭山で迷い込んだ連絡路と同じか、それ以上にきつい。道も半分以上は崩れて獣道と化しており、さらに腐った木が思いっきり倒壊して道を塞いでいたりする。洒落にならん。

 お、超でかいキノコ発見。傘が30センチくらいある。


挿絵(By みてみん)


 いや、キノコはどうでもいい。とにかくこの勾配はいつになったら終わるのか。

 疲労困憊の中、上を見ると真っ白な標識に「奥の院→」と書かれているのが見えた。よし、後少しだ。あの標識のある場所まで行けば、道も歩きやすくなるに違いない。

 根性を振り絞って登る。登って、呆然とした。さっきの標識がない。いや、標識とおぼしき木はある。それを目指して登っていたのだから、間違えようがない。だがそれは標識ではなく、真っ白な枯れ木だった。少しだけ開けたところに、一本だけすらりと立っていた。もちろん、「奥の院→」などという文字は書かれてはいない。


 ………………ま、山だしね。

 実際、山の話を聞くと、こういうことはしばしばあると言う。特に、遭難中に幻覚を見たという話は枚挙にいとまがない。

 狸や狐の仕業なのか、それとも「早くここを抜け出したい」と思う心が願望を投影して見せるのか、ともかく、山ではこういったことは珍しくはないそうだ。

 とはいえ、自分の身で体験するとなかなか強烈なものである。こんな観光地化した御岳山であっても、やはり「山」なのだ。

 結局、奥の院に至る尾根道に辿り着いたのは、更に15分ほど登った先で、さっき見たものがなんだったのかは謎のままである。

 しかし、「奥の院→」と書かれた、真っ白に整えられた標識。間違いなく、文字のひとつひとつまではっきりとこの目で見たのだが……。まあ、何を言ったところで説明できるはずもなし。考えても仕方ない。「山だから」で済ませておこう。


 奥の院。ようやく辿り着いた。

 ここが御嶽神社におけるどういった場所なのか知る由もないが、とにかく到着だ。


挿絵(By みてみん)


 ちなみに、帰ってから調べたところによれば、奥の院とはこの社がある山全体のことなのだそうだ。なんでも大和武尊に由来するとんでもなく古い謂れのある山で、私が「奥の院」だと思っていたのは、実は奥の院のうちの「男具那社おぐなしゃ」という、やはり大和武尊を祀った社らしい。

 そんなことは知る由もない私は、目的達成とばかりに参拝して、ようやく御嶽神社の方へと帰路を歩み始めたのである。

 この尾根道がなかなかいい。今日はじめて「ちゃんとした登山道」を歩いたような気がする。なんだか遠くの方から太鼓の音が聞こえるのは、御嶽神社あたりで祈祷でもしているのだろうか。

 しばし下り勾配を歩くと、またもや見覚えのあるものが見えてきた。

 巨大な杉の木だ。てっぺんは見上げるほど高く、地上数メートルくらいの位置にぐぐっと曲がった枝が張り出している。


挿絵(By みてみん)


 天狗の腰掛け杉だ。うん、確かにこれは記憶通り。「天狗の腰掛け杉」この名前を聞いただけで形状は想像できるのではないだろうか。おそらく、そのイメージであってると思う。

 だが……ひとつだけ記憶と違う点がある。

 私の記憶の中では、曲がった枝、つまり天狗が腰掛けるべき枝に兄貴が座っていたと思うのだが……。目の前にある枝は、ゆうに数メートルは上にある。取っ掛かりになるようなものは皆無。登ることなど出来ようはずがない。

 うーん……。私の記憶にある兄貴が座っていた光景は、いったいなんなのだろうか。幼児だった私に、天狗がいたずらで幻でも見せたのだろうか。

 幻か……。そう考えると、さっきの奥の院への斜面で見たものも、しっくり来る気がする。

 御岳山には、本当に天狗が住んでいるのかも知れぬ。

 まあ、山だから何でもありなのだろう。


 ここからは簡単だ。登山道は終わり、また観光用の平坦な道になる。

 少し距離はあるが、何の障害もなく御嶽神社の階段分岐へと戻ってきた。

 見れば、茶屋やお土産屋さんが開いている。「わらび餅」と書かれた看板が目を引いた。

 わらび餅、うまい。

 だがそれ以上に、付け合わせに出されたゴボウを梅に漬けたらしき漬物が抜群にうまい。お土産はこれに決定だ。

 お店のおばちゃんに言わせると、やはり観光と大岳山への登山を同時にするのは無理だという話だ。

「何のために、ここに旅館が沢山あると思う?」

 うむ、納得の理由である。本来であれば御岳山観光ひとつとっても、丸一日をかけて良いくらいの行程となるのだ。

 まあ、観光は今回であらかた済ませたし、幼児の頃の記憶とのすり合わせも楽しかった。今度来るときは、観光は完全に切り捨てて、大岳山だけを目標に挑むとしよう。


 さて、帰りはケーブルカーだ。

 あの坂道を歩くことは、二度とあるまい。

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