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ポンポンピーピー警報を待て(高尾山~陣馬山縦走)

 令和元年6月某日。午前7時。

 正確には、前回の翌週。

 いや、わかっている。いくらゴリラでも理解できる。

 富士山を目指すために近場の山に登って練習すると言ってもだ、高尾山にしか登っちゃいけないなどという道理はない。

 馬鹿の一つ覚えじゃあるまいし、三回連続で同じ山に登ったところで何がどうなるものでもあるまい。わかっている。

 それでもなお、性懲りもなく高尾山祈祷所駐車場に降り立ったのには理由がある。


 先週の小仏城山まで登った感触で「なにかが間違っているのでは」という思いが頭を掠めたのである。なぜって、高尾山口から小仏城山まで、長いルートを使ったところでせいぜい5.5キロ程度。往復で11キロ。勾配だって、はっきり言って大したこっちゃない。

 だというのに、あの疲労困憊である。つーか、高尾山頂にいた他の人達、なんであんなにピンピンしてるの? 全員がケーブルカーに乗ったとでも言うの?

 なにをどうやっても、あの調子で富士山に挑んで登頂できるという図が見えない。明らかに富士山よりも勾配の低い山で、明らかに富士山よりも短い距離で、直立原人として山に入り、四足歩行に退化して下りてくるという有様である。

 なにかがおかしい。

 このゴリラ、この段になって初めて「山の歩き方」を勉強するに至ったのである。

 いや、普通に考えれば、先に勉強しとけというところではあるが、高尾山という相手が悪かった。

 だって、考えても見てほしい。高尾山を登るのに、登山の勉強するかフツー? フツーはしないと思う。だって高尾山だもの。

 だが、そのフツーは、高尾山の山頂までなのだ。フツーの遠足やピクニックで登る「高尾山」とは、「高尾山の山頂」のことなのだ。

 そこから先に進もうというのであれば、最低限の知識はなければならなかったのだ。

 なまじっか初の高尾山で順調に登って標準コースタイムを切ったりしたもんだから、すべて高尾山の延長線上としてものを考えてしまっていた。

 要するに、自分がとんでもない浮かれポンチ野郎だったことに、ようやく気づいたのである。


 えーとなになに。

 身体は常に垂直を保ち、足裏の面全体を接地させる感じで。脚は小幅に、深く呼吸をしながら、一定のペースでゆっくりと……。

 下り坂でも、やはり足裏の面を下り勾配に合わせて接地させるように。小股小股を心がけ、いっそ半歩ずつ歩くくらいのつもりで……。

 なんということだ。それ行けやれ行けとばかりにズンドコ歩いていたのとは真逆である。つまりあれだ。このゴリラ、「最もやってはいけない歩き方」で山登りをしていたわけだ。

 勉強していくと、山登りの歩き方とはすなわち持久走のようなものであることが見えてくる。つまり、「いかに体力を消耗せずに先に進むか」がすべてらしい。

 ドラクエで例えるのならば、「HPとMPを可能な限り温存しつつ先へ進む」とでも言うべきか。

 標準コースタイムを切ることを目標にガシガシ登るなんてもってのほかである。最初の戦闘からHPをガシガシ削られて、MP消費しまくって総力戦を繰り広げるようなものだ。

 登山に求められる技術は、「強い敵を倒すこと」ではない。「次の街にたどり着くこと」なのだ。

 これを踏まえて、ふと考えた。

 先週の小仏城山から陣馬山までの距離、7.8キロメートル。

 先週の小仏城山から高尾山口までの復路の距離が5.5キロ弱。

 正しい歩き方をすれば、陣馬山まで縦走踏破するのは不可能ではないのでは……?

 悪い癖である。思えば、富士山云々言い始めたのもこんな感じだった。

 だが、「これ、もしかしたら行けるんじゃね?」という考えが浮かんでしまった瞬間、自分でもわかってしまった。もはや試さずにはいられなくなっていることを。

 そう、己は試されねばならぬ。

 富士山という山が、果たして自分にとって夢物語なのか、現実の話なのか。高尾山に登れた程度では、参考にすらならないだろう。だが、高尾山から先へ進み、陣馬山まで縦走登山をできる体力があるのなら、あるいは富士山に一歩近づけるのではないか。

 それを試すためにも、もう一度高尾山に登らねばならぬのだ。


 そういうわけで、舞台は高尾山頂へと移動する。ここまではもちろん六号路だ。

 なるほど、こうか。登山歩きが少しわかった気がする。

 あたりまえだが、登り坂は辛い。辛いがゆえに、早く終わらせたい。早く終わらせたいがゆえに、早く歩く。これがいかんのだ。

 早く終わらせたい。されど、ゆっくり歩く。我慢だ。この我慢こそが、登山歩きなのだ。

 これは悟りである。登山とは忍耐と心得よ。

 意識してゆっくり歩くというのが、これまた難しい。我々が日常生活において息を吸うように行っている「歩行」とは、無意識のうちに最大効率で行ってしまっているからだ。

 これをわざと押さえて、脚をスローに動かすというのは、本当に難しい。

 が、しばらくの間、故障したロボットみたいなぎこちない歩き方で四苦八苦しているうちに、なんだか掴めてきた。

 要するに、だらだら歩けば良いのだ。人によっては「いや、それは違うだろう」というかも知れないが、色々と試行錯誤しているうちに、私の脳裏に「のったり、のったり」と言う擬音が繰り返されるようになってきた。

 とにかく、体力を、筋力を、スタミナを、徹底的に節約しつつ歩く。脚で地面を蹴らない。直立を保ったまま片足をだらりと持ち上げたら、重心だけ前にだらりと移動させる。のったりと前進する。これだ。これなら疲れない。

 のったり、のったり。のったり、のったり。

 頭の中で擬音を繰り返しながら、もうこの際標準コースタイムなんぞクソくらえとばかりにだらだら歩く。途中でベンチを見たら、それほど疲れていなくても軽く休憩していく。回復もまた重要なテクニックなのだ。

 結果、標準コースタイムを10分ほどオーバーして山頂に到着した。しかし、以前とは違う。体力の90パーセント以上を残している。まだまだ、いくらでも歩けるという実感がある。

 すげえ。これが登山というものか。

 だがこの男、放っておくとすぐ調子に乗って浮かれポンチ化する。そのことを二回の山行で思い知った私である。

「てめえの身体のポンコツっぷりを忘れんじゃねえぞ」自分にそう言い聞かせ、高尾山頂で20分ほど座ってロング休憩を入れておいた。ついでに行動食として一本満足バー(ホワイトチョコ)を齧る。

 準備は万端。さあ、冒険の始まりだ。


 まずは、前回かろうじて到達した小仏城山を目指す。

 経由地としては、もみじ台、一丁平、小仏城山の順である。

 もみじ台。前回は巻道を使用せずに休憩所に登ったが、今回は体力を温存するために巻道を使って勾配を回避する。

 左側の巻道からは展望も良いとのことだ。是非そっちに行ってみようじゃないか。

 前には黄緑色の服を着たオッサンが先行している。人もいるなら安心というものだ。ここまでに学んだペースで、のったり、のったり、と歩いていく。

 む、結構距離があるもんだな。のったり、のったり。お、休憩所がある。雨か何かの影響か、少し道が乱れているようだ。だが、オッサンが先を歩いてるから大丈夫。のったり、のったり。

 なんか、道が狭くなってきたな。巻道ってのはこんなもんか。のったり、のったり。

 下り坂に差し掛かる。道は更に狭くなって、獣道チックな様相をきたしてくる。おいおい、前回はこんなに下ったっけ? いや、でも巻道だと距離があるから感覚狂うかもしれんしね。何よりも、オッサンが先行してるじゃん。

 勾配はさらにきつくなってきて、道も腰のあたりまである藪をかき分ける感じになっていく。その先を見て、ぎょっとした。もろに杉林である。

 勾配は谷状の斜面に挟まれた格好となり、そのまま鬱蒼とした杉林に突入している。いや、これどう考えてもおかしいだろ。こんなとこに入ってくるのは林業のおじさんくらいのもんだ。もはや、「のったり、のったり」とか言ってる場合じゃない。

 思い切って、数十メートルほど先行しているオッサンに声をかけてみた。

「すいませーん。この道って、違いやしませんかね?」

「あ、やっぱりそう思う?」

 冗談じゃねえ。遭難一歩手前である。冒険の始まりとか浮かれてたけど、危うく全然違う意味での大冒険を始めるところだった。

 こうなったら、さすがにのったりもクソもない。慌てて引き返してさっきの休憩所に戻ってきた。

 地図を確認。どうやら歩いていた巻道は、この休憩所でスイングバイ軌道を描くように大きく曲がっているようだ。

 さっき道が乱れていたところ、よく見たら垣根らしき残骸が崩れて散らばっていた。なるほど、スイングバイせずに休憩所から直進して、道でないところに入り込んでしまったらしい。

 その先は林業おじさんの作業通路なのか、杉林に至る道が中途半端に整備されていたために、垣根がなかったら登山道と見分けがつかないのだ。

 やばかった。高尾山から一歩踏み出していきなりこれである。

 だが、勉強にはなった。たとえ登山道であっても、予めランドマークと大まかな道の流れくらいは頭に入れておいたほうが良いらしい。


 さて、予想外のハプニングで肝を冷やしたが、体力は……うん、大して消耗していない。続行だ。

 巻道に復帰して、再び「のったり、のったり」と脳内で反復しながら歩いていくと、ほどなく一丁平に到着。まだ体力にもそれほどの消耗は見られない。登山歩き、マジすげえ。つうか、先週の自分はいったいどんだけゴリラだったんだ。

 そして、小仏城山に到着である。さすがに、少しばかり疲れを感じるか……というか暑い。だが、前回のようなボロボロ状態ではない。まだまだ余裕である。

 行ける。これなら行けるぞ。陣馬山への縦走が、俄然現実的になってきたぞ。

 ここで再び休憩をしてから……などと考えていたそのとき、ありえない光景が目に飛び込んできた。

 なんということだ。あろうことか、他の登山客がかき氷を食べているではないか!

 かき氷! かき氷である。先週、ボロボロになりながらようやくここに辿り着いて、店が二軒とも閉まっていて呆然として「チョウチョ、きれい」となった、あのかき氷である。

 今日は片方の茶屋が営業しているのだ。

 ええい、落ち着けい! 陣馬山まで先は長いのだ。かき氷程度で心を乱されてなんとする!


 たいへん美味しゅうございました。

 300円の普通サイズと500円の大盛りの二つがあって、さすがにポンポンがピーピーになるのはいかがなものかと思い、普通サイズを頼んだのだが……。

 デカイ。町の喫茶店とかで出てくるかき氷の倍くらいある。ついでに、「テメエで好きなだけぶっかけやがれ」と言わんばかりに醤油さし(?)に入ったシロップがトレイにドンと置いてある。豪快なかき氷だ。にしてもデカイ。

 おいおいオッチャン、サイズ間違えてるよ。……と思ったら、店のカウンターには更にデカイ器がズドーンと置いてある。どうやら、目の前のトレイに乗っかってる巨大な氷の山が小仏城山における普通サイズらしい。

 もう一度いうが、300円である。……え? 安くね? 山の上って普通高くなるもんでしょ? なんで町の喫茶店よりも安いわけ?

 帰ってから調べてみたら、このかき氷は小仏城山の茶屋(小仏茶屋というそうだ)の名物らしく、安くてデカイのが評判だそうだ。実にお得である。

 ただし、食べるためには小仏城山まで登らねばならぬが故、「ちょっとかき氷でも食いに行こうぜ」という軽~いノリで他人を誘うのは難しいかも知れぬ。

 ともあれ、食ってしまったものは仕方ない。ここは、ポンポンがピーピー言い出すまでここで待つべきだが……。しかし、いつ発動するかわからぬポンポンピーピー警報を待つのはいかがなものか。

 私はここで何分待てば良い? 30分は確実にかかるであろう。だが、30分後に警報がくるとは限らない。もしかしたら1時間後かも知れぬ。

 ならば、ここは次のトイレポイントまで進んでからお腹の具合を見極めるべきではないのか?

 地図を見ると、次のランドマークは小仏峠、そしてトイレがあるのはその向こうの景信山である。標準コースタイムで言うと合計60分の距離だ。私の脚では70分かかると言ったところか。

 しばし悩むが、いずれにせよここでポンポンピーピー警報を待つと、時間的に陣馬山が不可能となる。

 行くしかない。

 いざとなれば、常備してあるポンポンピーピー薬、ストッパEXを飲むしかない。実のところ、過去にこれを使ったことがあったが気休め程度にしかならなかった。だが、気休めでもないよりはマシだろう。

 さあ、覚悟を決めて踏み出すのだ。


 時刻は11時ちょい前と言ったところか。

 先週とは反対方向の登山道を歩き始めると、すぐに勾配のきつい坂道を下ることになった。周囲は鬱蒼とした森といった感じで、これまでとそれほどの変化は感じられない。

 ……と思ったら、突然森の一角が開けて見晴らしが良くなった。

 麓の町が見える。その向こうには湖が。この辺りで湖と言ったらひとつしかない。相模湖だ。やや霞んでいて遠くの景色は見えないが、なかなか気持ちの良い展望である。

 勾配は緩やかになり、足取りも軽い。なにやら建物が見える。石碑もある。それによれば、明治天皇が休憩した場所だそうだ。つまり、ここが小仏峠か?

 先をチラリと見ると、もう少し開けてる様子が伺える。あっちか。

 小仏峠。開けた場所へと進み出ると、私を出迎えたものは……信楽焼の狸であった。しかも、大・中・小の3体。ご丁寧に、広場の真ん中に置かれている。

 なぜ山の中に狸が……? いや、山の中だから狸がいるのは当たり前か。しかし、信楽焼が3体……。やはり謎である。

 ところで、この辺はどうやら高尾山と陣馬山とのちょうど中央付近に位置するらしく、ここで折り返していく人の姿が目立つ。

 後ろの高尾山からきたと思しき人は信楽焼を回って再び高尾山方面へ、陣馬山からきたらしき人は陣馬山へと引き返していく。

 驚くべきことに、その人達は全員走っていた。いわゆるトレイルランニング、トレランというやつだ。この山道をタッタカタッタカと走って往復している。化け物である。

 いったいどういう筋肉とスタミナと心肺能力を備えているのか、彼らの生態系については謎が深まるが、しかし、いつまでもここに留まるわけにはゆかぬ。

 最悪の場合、あと10分ほどでポンポンピーピー警報が発令されるやも知れぬのだ。

 あまり、こういった心配事を抱えて歩くのは良くない。抑えてはいても、自然と脚が先へ先へと急いでしまうものなのだ。

 それでも、もはや恒例となった「のったり、のったり」を頭の中で意識して繰り返し、決して疲れないように気をつけつつ歩いていく。

 小仏峠を過ぎると再び急勾配となり、結構な山を登るコースとなる。こんな場所を軽快に走るのだから、改めてトレランの化け物ぶりを実感するというものだ。

 まあ、こちらは元より走ることの出来ぬ身体、のんびり行こう。幸いにも、まだ警報の気配は全く感じられない。

 勾配が終わるとなだらかな道が続く。

 なるほど。ここまで歩いて、縦走というものがなんとなく理解できてきた。


  登り → 山頂 → 下り → なだらか → 登り → 山頂 → 下り → なだらか


 多少の差こそあれど、縦走登山とは概ねこの連続なのだ。

 ということは、このなだらかな道が続いた後には……ほらきた。案の定、登り勾配である。そして、この勾配……階段を登りきると……。登りきると……。うう、さすがに疲れてきた。

 感覚では、体力残り50パーセントに減少してると言ったところか。しかし、もはや引き返すことは出来ない。なぜならば、階段を登りきった先には、無数のベンチと机、そしていくつかの茶屋が見えているからだ。

 ようやく登り切る。一応、確証を得ようとキョロキョロするが、どこにも標識とかが見えない。仕方なく、そこらで休憩してた人に聞いてみる。

「あのぅ、ここが景信山ってことで、いいんスよね?」

「そうですよー」

 ああ良かった。時刻を確認すると、11時55分。ほとんど標準コースタイムジャストである。私の「のったりペース」で考えると、若干急いでしまったことになる。疲れるわけだ。

 とにかく、ここは最大のロング休憩スポットとして考えていた地点だ。ポンポンがざわついてくるまでは、ここでのんびりするとしよう。

 休憩所にはお座敷のように思いっきり寝っ転がれる場所もある。しかも、ガラガラ。寝っ転がり放題である。

 靴も脱いで、脚を冷却スプレーで冷やす。そう、今日は前回の反省から冷却スプレーを持ってきているのだ。注意書きに従って靴下の上からブシュー。全然感じない。

 早くも注意書きを無視して、靴下を脱いで直接肌にブシュー。うん、少しだけ気持ちいい。だが、気持ちいいのは数秒の間で、すぐに灼熱感が戻ってくる。意味ねえ。

 ……もしかして、これって気休めにしかなってない?

 登山関係のサイトを巡っても、冷却スプレーについて言及してるサイトがほとんど無かったが、これが理由か。かさばる上に効果が気休めレベルとなりゃ、そりゃ誰も使わないわな。

 しょうがない。裸足で寝っ転がって、体力を回復させるとしよう。

 相変わらずの霞んだ天気で近隣の山しか見えないが、今登ってきた高尾山は見下ろせる。いい気分だ。日陰も程よい感じだし、風も気持ちいい。

 見れば、さっき声をかけた先客は、バーナーとコッヘルを使ってお湯を沸かし、カップ麺を食べている。

 うう……いいなあ……。あれ、やりたいなあ……。いいなあ……。

 羨望の眼差しを向けつつ、行動食の一本満足バー(ミルクチョコ)を侘びしく齧る。


 休憩すること30分。困ったことになった。

 いくら待てども、ポンポンピーピー警報が発令されないのだ。その前兆すらまったく感じない。いったいどういうことだ?

 いや、考えてみたら、食べたのはかき氷。お腹は冷えるが固形物とは言えない。言ってみれば、冷たいジュースと同じようなものだ。

 つまり、かき氷に関してはスポーツドリンクと一緒で汗として流れてしまい、ポンポンにはまったく影響を与えていないのではないか?

 とにかく、まったく発令される様子のない警報をいつまでも待っているわけには行かぬ。

 ここはひとつ、警報はこないものと前向きに考えて、先に進んだほうが良いでのはないだろうか。

 地図で確認すると、次のトイレポイントはかなり先だ。

 隣の堂所山どうどころやま、その向こうの底沢峠、更に進んで明王峠。この明王峠まで行かないとトイレはない。標準コースタイムでは80分。

 時刻は12時25分。さあ、決断のときだ。


 充分な休憩を取っての山歩き。実に良い。流れる汗も爽やかというものだ。

 景信山を過ぎたあたりから、道も変化に富んできた気がする。

 なんだか木の根っこがうぞうぞとそこらじゅうを這い回り、天然の階段のようになっている急勾配。ワイルド感があってよろしい。

 左右をぞっとするような下り斜面に挟まれた尾根道。スリリングでよろしい。なかなか退屈しない道のりである。

 さて、景信山を発ってから一時間。さすがに疲労が誤魔化せなくなってきた。そろそろ次のランドマーク、堂所山に近づいてきた頃合いなのだが……。

 とか思っていたところに立て札が。この辺りで右への分岐に入ると堂所山の山頂に至るらしいが、どうにも分かれ道は見えない。右側に見えるのは、木の根っこがびっしりと生えて登山者を拒んでいるとしか思えない登りの急斜面のみ。

 はは……まさかね……。こんなアホな斜面が登山道であるはずがない。そう思って真っ直ぐ進む。しかし、他に右への分岐は現れない。

 いや……まさかね……。そんな思いに後ろ髪を引っ張られながら進むこと10分強。左後ろから下りてくる道と合流した。合流してしまった……。

 あちゃー。どうやら、今歩いてきた道は堂所山をスルーして陣馬山へと先を急ぐ「堂所山の山頂なんざ興味ないぜ」という人向けのルートだったらしい。

 やっぱり、さっきのアホみたいな斜面が堂所山への分岐だったのか……。登らせない気満々である。

 さて、せっかくだから、少し引き返して堂所山の山頂でも拝んで行こうかな、などと考えていたその時である。

 突如としてお腹の奥から、地獄のようなゴロゴロ感が湧き上がってきた。

 緊急事態! 緊急事態! 第一次ポンポンピーピー警報発令! ポンポンがピーピー状態になるまで推定10分! 総員、トイレへ急行せよ!

 やばい。堂所山にはトイレがない。次のトイレは明王峠、標準コースタイム25分!

 もう、こうなっては「のったり、のったり」とか言ってる場合じゃない。急げ。急ぐのだ。この先、明王峠まで急勾配がないことを祈るのみである。

 山歩きにあるまじき速歩き形態へと可変したゴリラ、ほとんど青い顔となって明王峠へと急ぐ。

 分かれ道発見。底沢峠である。ここで道を誤ったら、色々な意味で人生も誤りかねない。焦ったときこそ慎重に、正しい道を選ぶ。明王峠まであとわずか。

 これでトイレが「使用中」とかだったら笑えるなー。とか思いながらも足早に明王峠へと急ぐ。明王峠、発見! トイレも発見!


 ――しばらくお待ち下さい――


 ……は~。

 明王峠の茶屋も例によって閉まっているが、まあベンチやら机やらがあってくつろげるのは助かる。

 ここまできたら陣馬山まではあと少し。のんびりと休んでから、落ち着いていくのが良い。

 ポンポンピーピー警報が解除されてしまえばこっちのもの。呑気なものである。

 とは言え、さすがにさっきの急ぎ足はまずかった。おかげでトイレにも間に合い、事なきを得たが、代わりに足の疲れが一気に限界近くまで達してしまった。

 体力残り20パーセントと言った感じである。

 それでも、腹の中で地獄の底から沸き上がってくるような警報が鳴り響くよりは遥かにマシだ。

 時刻は2時ちょうど。さて、行くか。

 のったり、のったり。のったり、のったり。

 さっきまでにも増して、だらだらと歩く。そう、これでいいのだ。もう時間なんて知ったこっちゃない。ゆっくりでも進みさえすれば、それでいいのだ。

 気が抜けたあまり、この辺の景色はあまり覚えていない。ただ、やたらに勾配のきつい階段が現れたとき、「お、いよいよか」と思った。

 最後となると、階段のきつさもひとしおである。頑張って登る。登った先で、思わず声をあげた。

「ワーオ」

 いや、マジでそんな声が出た。

 時刻は3時ちょうど。高尾山口を出発してから8時間が経っていた。


 なるほど、陣馬山も人気があるわけだ。

 標高855メートル。東京の(正確には神奈川県との境界線だが)山の中でも飛び抜けて高いというわけではない。しかし、陣馬山の山頂は木が綺麗に伐採されていて、とんでもなく景観が良い。ほぼ360度のパノラマである。「山のてっぺん」という感覚では、ここまでに通った山の中ではダントツだ。

 こりゃあ良い。吹き抜けていく風がたまらん。茶屋も一軒開いている。「ゆずアイス」と書いてある看板が目に焼き付いた。

 めちゃくちゃ硬いゆずアイスに悪戦苦闘していると、トレランのお姉さんも休憩にやってくる。これから高尾山までとんぼ返りだそうだ。どのくらいの時間で行けるものかと聞いてみた。

「うーん……高尾までは下りですから、できれば3時間を切りたいところですねえ」

 化け物か。やはり、トレランをするような方々は色々な意味で次元が違う。まあ、あれだ。アスリートってやつだ。

 トレランの人が走り去ると、再び山の上で一人になる。

 しかし、うーん……良いところだ。

 山頂の周囲は牧場のように整えられていて、そこらへんに寝転がって眠りたくなる。もうここを動きたくない。そんな気分になってくる場所だ。


 ゆっくりしすぎた。

 気がついたときには30分以上が過ぎていて、お日様は完全に傾きモードに入っている。いかん。ぼやぼやしてると日が暮れる。

 脚はまだ痛みを訴えているが、なに、あとは下るだけだ。方向は……よし、あっちか。

 看板で確認。バス停まで4.1キロメートル。ヨシ!


 …………繰り返す。バス停まで4.1キロメートル。

 ヨシ! じゃねえよ。殺す気かバカヤロウ。

 山を登ったのだから、下りねばならぬ。ごく当たり前の話である。それはもう「オモチャで遊んだら、お片付けをしなければならない」これと同じくらい当たり前の話である。

 そう、楽しい楽しい山登りが終わったのだから、お片付けをせねばならぬのだ。

 悲鳴を上げる脚を引きずって、狂ったような階段を下りて、和田峠へ。ここで車道と合流し、クソ面白くもなんともねえアスファルトの坂道を延々と、本当に延々と下りていく。

 苦行である。お片付けなんか大嫌いだ。

 一時間に一本のバスを待って高尾駅まで移動し、電車で高尾山口駅まで戻り、懐かしき高尾山祈祷所駐車場に辿り着いたのは夕方6時であった。

 もちろん駐車場の管理事務所は閉まっている。

 仕方ないので「時間までに戻れなかったのでこのような形で失礼します」と自動車のナンバーを添えてメモに書き、500円玉を包んでドアの間にねじ込んでおいた。


 相変わらずのボロボロではあるが、とにかく高尾山~陣馬山への縦走登山、文句なしに達成である。腹筋の機能していない私の身体でも、このくらいの長距離登山が可能であることはわかった。

 あとで確認したところによれば、今回の総歩行距離は18.36キロメートル。

 富士山に挑むに当たり、単純な体力面だけで評価するならば、まずまず及第点と言ったところだろう。

 だが、まだだ。まだ足りぬ。次は距離ではなく勾配に重点を置いて、新たな山へと挑むのだ。

 高尾山を脱するときが来たのだ。

 それにしても、ポンポンピーピー警報のコントロールは、今後も課題になりそうである。


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