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村田さん、なにやってんだ(伊豆ヶ岳)

 2019年9月中旬、久々の登山だ。

 前回の富士山から一ヶ月以上が経ってしまったが、別に目標を果たして燃え尽きてしまったというわけでも、飽きてしまったわけでもない。単に家族が長期不在のため家を空けるのが難しかったというだけの話だ。

 その間、自己流かつ中途半端だった筋トレを本格的なジムトレーニングに変えたり、「山に入れないのなら水に入ればいいじゃない」とばかりに水泳を始めたりと色々あったのだが、まあ山とはおよそ関係ない話なので割愛しよう。

 それはそれとして、富士山登頂を果たし、次の目標を穂高と槍ヶ岳に定めたのは良いが、さてそれではどう攻めたものかと悩んでいたのも事実である。

 実のところ、好日山荘の登山学校で山岳ガイドさんによる富士山講習を受けた際に、ひとつ釘を差されていた。


「仮に富士山登頂に成功したとしても、同じように他の山に登れるとは考えないでください。富士山という山は、ものすごく特殊で、はっきり言って異常な山なんです」


 もちろん富士山はなんの知識もないまま簡単に登れるような山ではない。それは登頂成功率40~50パーセントという数字が表すとおりだ。

 しかし、それでも富士山は完全な独立峰。岩場も数多くあるとは言え、道はしっかり整備されているし、登りにおいて道迷いの心配は皆無である。下山で道に迷う人は多いと聞くが、少なくとも、別の下山口に下りたからと言って死ぬようなことにはなるまい。

 七合目・八合目の各所には救命小屋が用意されていて、九合目にも救命員が終日常駐している。

 更に、山小屋が多い。富士山にあるすべての山小屋を数えると、実に50軒近くにも及び、しかもその大半は24時間営業。値段は張るものの、食べ物も飲み物も確実に手に入る。

 それに加えて、山頂にあるお店ではラーメンまで食べられる。言っておくが、カップ麺ではない。お店に食堂があって、そこの厨房で普通にラーメンを作っているのだ。実に3700メートル超の低酸素圏でラーメンを注文できてしまう。

 夏の開山期に限定されるとはいえ、ここまで至れり尽くせりなのだ。


「こんな異常な山、世界のどこを探しても富士山だけですよ」


 そりゃそうだろう。

 世界遺産に登録されてからこっち、登山者の数は増加を続けているそうで、こういった「異常な山」という傾向はこれからも加速していくのだろう。

 まあ、それ自体はいい。そのおかげで私も無事に登って降りてこられたのだ。しかし問題は、富士山登頂を果たした後の話である。

 富士山は日本で一番高い山だ。その山を征したのだから、それ以下の標高の山なんて楽勝だろう。……こんな考えで穂高やら槍ヶ岳やら剣岳やら、ヤバいところにズンドコ乗り込んでいく「困ったちゃん」が後を絶たないらしく、山岳ガイドさんの頭を悩ませているという。

 私もかような困ったちゃんにならぬよう、心せねばならぬ。

 まあ、心構えのほうは結局のところ理屈でしかないが、問題は岩場だ。

 穂高や槍などの森林限界(樹木が育つ限界高度。本州では2500メートル前後)を越えた山では岩稜帯が圧倒的に多くなり、自然、岩登りの技術が要求される。

 心構えをいくらしっかりしたところで、岩登りは肉体の話だ。絶対的な体力と技術が必須になってくる。体力に関しては、もうひたすらに鍛錬を重ねて強靭になっていくしかないが、技術に関してが難しい。練習あるのみと言いたいところだが、いったいどこで練習すればいいのか。

 例によって好日山荘で相談したところ、岩登り初心者の練習用&力試しとして丁度良い岩場のある山を教えてもらえた。

 伊豆ヶ岳である。


 始発電車からいくつかの乗り換えののち西武秩父鉄道の車両に入ると、予想外にも向かい合わせのボックス席。東京を一歩離れたところでは、なんだかんだで昔ながらの空気が残っている、そんなことを思わせる車両だ。


挿絵(By みてみん)


 ちょうど太陽が出てきたところで、レトロな雰囲気に朝日の風景が重なり、なんとも言えない良い気分になる。というか眠い。始発に乗るために無理やり起きたせいだ。

 午前6時12分。眠り目をこすりながら電車を下りたのは、埼玉県は奥武蔵のど真ん中、正丸駅である。

 ここでいつも通りに登山準備。登山靴の紐をしっかり締め直す。実は、富士登山が終わった後、懸案事項だった登山靴を新調していた。

 前と同じ「Sirio」の「P.F.441」。登山靴メーカーは数多くあれど、現実的な値段で足幅の広い靴を作っているのはシリオのみ。私の足幅だと、もうほとんどこれしか選択肢がないのだ。靴に30000円も出したのなんて、生まれて初めてである。

 だが、お高いだけあって、この靴ならばおよそどんな登山にも耐えられる。以前に履いていたエントリーモデルの「P.F.302」が中くらいの硬さであったのに対し、この「P.F.441」はガッチガチに硬い。槍でも穂高でもどんと来やがれ……いや、登りやがれってな感じの本格的なやつだ。

 さて、靴紐をがっちり締めたら、次はハイドレーションをセット……。あら? ない。ザックの中を探しても、ハイドレーションチューブが入ってない。いかん、お家に忘れたらしい。

 でもまあ、チューブがなくともボトルそのものは忘れてない。水やスポーツドリンクはあるのだから、直飲みすれば問題あるまい。よし、出発しよう。

 地図を確認すると、進むべき方向は駅前ロータリーに出て右手。階段があるようだ。

 と、階段を降り始めたら、ニャーとか聞こえた。いきなり出鼻をくじかれた。猫だ。焦茶色のにゃーさんがいる。なんかこっちに興味を持ったのか、ニャーニャー言いながらトコトコ近づいてくる。ほほう、これはモフれるフレンドリーキャットかと思いきや、手の触れる一〇センチ手前あたりまで来たところでサッと横っ飛びで消えてしまった。なんだよ、期待させやがって。

 階段を降りて、トンネルをくぐったら、もう一度右へ。

 なんだか、ごく普通の道路に民家とかが普通に立ち並んでいて、御嶽駅からケーブルカー駅までの道路に雰囲気が似ている。うーん……ここも登山口まで結構歩かされる感じだ。早くも疲れを感じ始める。

 道路は次第に傾斜が出てくるが、まだ登山道の入り口は見えない……見えた……かと思いきや、こっちは大倉山コース。今日登るのは、もうちょい先の正丸峠コースだ。

 結局、道路が行き止まりになるまで歩かされ、そのどん詰まりから登山道が始まっていた。うむ、早くも結構疲れた。


挿絵(By みてみん)


 時刻は7時ちょうど。さあ、冒険の始まりだ。


 ……なんか、すっげえ暗いんだけど。

 なんだろう。山の東斜面を登っているのに、午前7時を過ぎているにも関わらず薄暗く、いかにも「鬱蒼とした森」といった趣だ。

 沢沿いの道で水音を聞きながら、ときには丸太2本を並べただけのスリリングな橋を渡ったりと冒険心くすぐられる道ではあるが……なんというか、陰気すぎる。森が深すぎるのだ。どうにも自然の中でわくわくと心躍るような感覚になれない。


挿絵(By みてみん)


 おまけに登山道も結構荒れている。埼玉県はあまり山とかに熱心ではないのかも知れない。

 誰ひとりとも会わないまま、黙々と登山道を歩く。周囲には伐採された木が無造作に置かれていたりして、登山道と言うよりも林業のための道に入り込んでしまったような場違い感さえ湧いてくる。

 うーん……この道はあまり楽しくないなあ……とか思いながら登ること数十分くらいか。結構喉が渇く。ハイドレチューブを忘れたため、飲み物を一口飲むたびにザックを下ろしてボトルを取り出し、飲んだあとはザックに戻さねばならない。なんとも面倒なことだ。

 こんな状況になって、ハイドレーションとは実に素晴らしい発明だと思い知らされる。……などと呑気なことを言っていられるのは、薄暗い登山道の終わりがようやく見えてきた頃までの話であった。

 ハイドレチューブを使用せずにボトルから直飲みすると、消費がメチャクチャ早いのだ。いつもなら、チューブからチュルッと一口だけ飲んで喉をほんのちょっと湿らせるところが、直飲みだと毎回グビッと行くもんだから、ものすごい勢いで消費していく。すでにスポーツドリンクの残量は残り僅かになっている。

 少しばかり焦りが湧いてくるが、しかし、結構なきつさの階段の先、何やら建物が見えてきた。地図で確認すると、正丸峠とある。

 バイクに乗っていた若かりし頃、正丸峠と言えば一度は走りに行きたい走り屋スポットでもあった。だが、結局一度も行く機会もないままバイクに乗れない身体になってしまい、ほとんど存在自体を忘れていた場所だ。

 この歳になってバイクではなく登山装備で向かうわけだから、巡り合せというものはわからないものである。

 ともあれ、この正丸峠にはお茶屋さんがある。ここで飲み物を補給できるだろう。一安心だ。


挿絵(By みてみん)


 時刻は午前7時40分。正丸峠は見晴らしもよく、今までの鬱蒼とした森が嘘のように明るい広場だ。眺めもよく、気持ちのいい場所だ。

 閉まっているシャッターの上には奥村茶屋と書いてある。なるほど、これが噂のお茶屋さんか。

 いや、シャッター閉まってるんだけど。自販機とかは……周囲を探してもそんなものはない。

 うむむ……開店時間は何時だろうか? この状況では知る由もない。こうなると、嫌な想像がむらむらと湧き上がってくる。

 今日は営業日なのだろうか。まさか、平日はお休みじゃあるまいな。いや……このお茶屋さんはそもそも営業しているのか? 正丸峠の話を聞いたのはバイク乗りだった頃、つまり十数年以上前の話だ。見れば、閉まったままのシャッターはなんとなく頼りない。建物の中に人の気配はまったくなく、廃屋をイメージさせる雰囲気だ。

 いやいや、営業時間になったら自動車か何かで上がってくるんでしょうよ。……いや、だから、その営業時間って何時なのでしょうか?

 とかなんとか自問自答している間にも、9月の太陽はじりじりと水分を身体から奪っていく。スポーツドリンクが尽きてしまい、調理用兼非常用の水に手がつく。


挿絵(By みてみん)


 あー……こりゃまずいかもな……。そう思い始めたのは20分も経った頃である。

 仮に開店時間が9時……いや、甘い考えはやめておこう。10時だとしたら、この炎天下で2時間待ちぼうけである。その間だって水を消費しないわけにはいかない。首尾よくお茶屋さんが開店して飲み物を補給できたとしても、大幅に予定が遅れてしまう。

 最悪、10時になってもお茶屋さんが開かなかったら、スポドリも水もなく、引き返すことさえままならなくなる。

 うん、こりゃいかんわ。さっさと進もう。伊豆ヶ岳を越えると天目指峠あまめざすとうげという県道と交差している峠道があり、そこには休憩場もあると本に書いてあった。そこに辿り着くまでは水は節約モードにしたほうがいいだろう。


 再び山道に入る。

 ここからはさっきまでの鬱蒼とした森とは打って変わって、木漏れ日と風の気持ちいい尾根道だ。これはいい。やはり登山はこういう道がいい。


挿絵(By みてみん)


 気分も上向きになり、意気揚々と歩くと一時間も歩かないうちに広場に辿り着いた。小高山とある。うん、順調順調。この調子でゴー。


挿絵(By みてみん)


 やはり気持ちの良い尾根沿いの道を更に小一時間歩くと、再び広場に当たった。なんだ? 地図にはこんな広場はないが……?

 見ると、五輪山と書いてある。五輪山……やはり地図にはない名前だ。まさか、道を間違えた? 


挿絵(By みてみん)


 再び嫌な予感が頭をよぎるが、しかし道標には「伊豆ヶ岳→」とある。うーん、大丈夫かなあ……などと思いながらそちらへと進むと、1分も歩かぬうちに立て札が見えてきた。

 それによれば、この先は男坂。好日山荘で教えてもらった岩場の名前だ。

 おお、ここがそうか。なるほど、奥の方を見ると、見上げるような岩場がそびえているのが見える。おおむね「五輪山=男坂=伊豆ヶ岳の手前」と考えて良いっぽい。ようやく目的地に到着である。

 しかし、問題が一つ。なんか、ロープ貼られて通せんぼなんだが……。

 立て札には、「落石が危ないので安全な女坂を通ってください」みたいなことが書いてある。……えー。

 とはいえ、ロープは中途半端にかけられていて「絶対通るな」って感じではない。むしろ、「通るならこの端っこを通れ」と言った具合だ。さて、どうしたものか。

 ロープの前でしばし悩む。と、後ろから登山者がやってくる。「こんちわー」とか言いながら、ロープの張られていない端っこを通って岩場へと向かっていく。

 慌てて声をかけた。

「あのう、ここって通っても平気なんすか?」

「ああ、ここはずっと昔からこうなんですよ」

 こともなげにそう言って、行ってしまわれた……。

 あー、つまり、自己責任とかそういうやつ? うーん、どうすっかなー。

 などと更に躊躇していたら、再び別の登山者が挨拶して通り抜けていく。

 なるほど、ここを目的に来た人は、全員が自己責任で登っていくものらしい。そんじゃ、私もひとつ、腹を決めるとしよう。

 岩場の真下にくる。上を見ると……すげえ……マジでここ登るの? 下を見ると、握りこぶし大の石がゴロゴロ落ちている。なるほど、これが直撃したら怪我じゃすまんわな。登山用ヘルメットなど自分には無縁とか思ってたけど、どうやらそうも言ってられんらしい。近いうちに買っておこう。


挿絵(By みてみん)


 さて、岩登りだ。

 今回は以前の大岳山とは違い、動画サイトや登山サイトで徹底的に勉強してきた。登攀の基本技術、三点支持である。

 両手両足4本のうち、手にせよ足にせよ動かすのは1本のみ。残りの手足3本は常に岩に張り付いた状態を維持しつつ登る登攀技法だ。

 私の場合、脇をしっかり締めなければ右腕の力は赤ん坊に等しい。右腕で体重を引っ張り上げるのは無理なので、右腕は支持に専念、左腕と両足を使って登るしかない。

 ちなみに、ぶっとい鎖が三本ほど垂れているが、これは基本的に使用しない。あくまでも三点支持を中心に登り、鎖は最後の手段だ。手足が滑ったときにすぐに掴めるように鎖の位置だけはしっかり認識しながら、岩場のとっかかりを探しつつ登っていく。

 岩場の前半はつるつるした岩肌だが、斜めにいくつもの亀裂が走っているので、亀裂をジグザグに辿ることで思いのほか安全に登っていける。

 と、半分くらい登っただろうか。岩の質が変わってきた。つるつるした斜面だったのが、ゴツゴツした岩肌に変化してきた。

 ふう、ちょっと休憩。鎖を掴んで安全を確保、周囲を見渡す。

 ……うおお……おっかねえ……。下を見ると、急角度すぎて登ってきた斜面……というか崖は見通せず、木々に吸い込まれている。こりゃ、落ちたら確実に死ぬわ。


挿絵(By みてみん)


 休憩終わり。鎖から手を離して三点支持を再開だ。後半のゴツゴツした岩場はとっかかりがいくらでもあるので、ここまで来てしまえば難易度はぐっと下がる。富士山の岩場と大差ない。違うのは、手を離したらアウトという点だけだ。


挿絵(By みてみん)


 どうやら最後らしき岩を登ると……うおお……すげえ風景……。奥武蔵・奥秩父の山々が一望できる。なるほど、岩登りのご褒美がこの風景というわけだ。


挿絵(By みてみん)


 ……しかし、疲れた。初めての本格的な登攀とあって、ガチガチに緊張していたらしい。今更ながら筋肉が悲鳴を上げていることに気づいた。上を向いてゴロンとなると、このまま動きたくなくなってくる。

 とはいえ、休憩所のある天目指峠まではまだ距離がある。水の残量も心配だし、休憩もそこそこ出発しなければ。


 男坂を越えてから10分も歩かぬうちに、再び岩がゴツゴツと露出した場所に出る。広場……というには狭いが、木製と石造り、2つの標識が立っていた。

 午前9時25分。伊豆ヶ岳、到着である。


挿絵(By みてみん)


 ここでコッヘルとバーナー出してリフィル麺(カップ麺の中身だけのやつ)でも……と言いたいところではあるが、ここは行動食の一本満足バーを齧るにとどめて、先を急いでおこう。

 このあたりも基本的には尾根沿いの道で、木漏れ日と風を満喫できるコースだ。歩いていて気持ちが良い。

 30分も歩いた頃に見えてきたのは、小御岳と書かれたボロボロの標識のある広場だ。


挿絵(By みてみん)


 広場ではさっきまさに私が想像していたようにコッヘルとバーナーでカップ麺食ってるお姉さんがいた。

 うう……いいなあ……。俺もここで食っちゃおうかなあ……。とか思って、ザックの中の水の残量を確認。

 うお、やばい……残り500ccもない……。ラーメン食うと300cc消費することになる。残り200ccってのは超ピンチだ。いや、それ以前に残り500ccでも既に結構なピンチだ。はっきり言ってラーメン食ってる場合じゃない。一本満足バーでも齧るかと思うが、それはそれで喉が渇く。

 もちろんわかってはいた事だが、「山で水を自由に使えない」というのは考えていた以上にリスキーだと言うことを思い知らされる。ちょいと焦りが出てきた。

 更に30分ほど歩くと、再び広場に出る。標識には高畑山と書かれている。どうやら道を間違えている様子もない。この調子で行こう。


挿絵(By みてみん)


 地図によれば、ここから20分も進んだところに「イモグナの頭」という奇妙な名前の山の頂があるようだ。そこから更に20分で天目指峠。なんとか先が見えてきたか。

 お、変な格好の鉄塔発見。……ネコミミ?


挿絵(By みてみん)


 ここらへんは、工事車両もずいぶん入ってくるようで、キャタピラやタイヤの跡も目立つ。登山道と工事用通路がごっちゃにならないようにロープで区切られてはいるが、正直、工事用通路のほうが歩きやすそうだ。もっとも、登山道とくっついたり離れたりを繰り返しているので、迂闊に踏み込むとどこに連れて行かれるかわかったものではない。ここはおとなしく登山道を歩いておこう。


 ……見えぬ。時間から考えて、そろそろイモグナの頭とやらが見えても良い頃合いだと思うのだが、それらしい広場が見えぬ。どうなってる。

 しかも、道を進んでいくと、若干の下り勾配の途中、背丈よりもデカイ岩がズドンと道を塞いでいる。……どうすんだこれ。

 一応、下の方に細い道らしきものが伸びていて、進めないでもないようだ。こっちか。

 ……と思ったが、道の先を見て「ん?」ときた。これだ。この感覚だ。私の違和感センサーがなんか訴えている。


 ・見える道はこれまでの登山道と異なり、明らかに細い。

 ・ものすごい下り勾配。しかも先が見えないほど続いている。

 ・地図によれば、そろそろ「イモグナの頭」。むしろ登るはずだ。


 どうしたものか……思案していると、後ろから追いついてきた二人組の登山者も同じく岩にぶち当たってストップした。

 そのうちのひとりが「下に道あんじゃん」とか言って下りていく。なんだ、やっぱり下が正解なのか? などと思いつつ見ていると、そっちの方から「やっぱおかしいって」とか話し合ってるのが聞こえてくる。

 うむ、やはり下は違うみたいだ。どれ、ものは試しに目の前の岩をよじ登ってみるか……。ついさっき男坂でやったばかりの三点支持を再び使い、岩に登る。ふむ……このスキル、かなり便利だ。はっきり言って、垂直でない岩の壁ならどこにでも登れそうな感覚だ。

 ちょいと話はそれるが、ソロ登山者の心得として、私は遭難の体験談の本を数多く読んでいる。

 その体験談の中でも際立って多いのは「道に迷い、下へ下へと降りてるうちに、崖に近い勾配を降りてしまった挙げ句、滝などの行き止まりにぶつかり、進むことも戻ることも出来なくなった」というシチュエーションだ。

 この三点支持を完璧にマスターしておけば、万が一同じミスを犯したときにも(もちろんそんなミスをしないことが重要なのはいうまでもないが)リカバリーできる場面もあるのではないだろうか。

 うん、三点支持は「進める方向の選択肢」を大幅に増やせる技法らしい。これはもう少し本格的に練習する価値があるかも知れない。

 などと考えながら岩の上に顔を出すと、岩の向こうにはきちんとした登山道が続いているのが見て取れた。どうやら、この岩は随分前に落石となって落ちてきて登山道を塞ぎ、そのまま放置されたものらしい。

 はるか下の方にいるさっきの二人組に「こっちに道ありましたよー」などと声をかけてから、なんとか岩をクリアである。

 更に進むと、どういうわけか斜め後ろから道が合流してきた。

 地図とコンパスで確認すると、どう見ても、イモグナの頭から伸びてきているようにしか見えない。どうやら、いつぞやの堂所山と同じで、イモグナの頭へ向かう道をどこかでスルーしてしまい、巻道に入ってしまったようだ。

 さっきの大岩はイモグナの頭のほうから転がり落ちてきて、巻道を塞いでしまったのだろう。

 ということは、天目指峠まではあと20分足らずの距離だ。

 よし、あと少しだ。ここまで来たんだから、残りの水も飲んじまうか。

 ……と思ったものの、さすがに「水空っぽ」という状況は最後の最後まで避けるべきと判断し、喉が乾いてるのを我慢して先へ進む。

 うう……水を飲めない登山というのはきついものだ。天目指峠にさえ着いてしまえば……。

 ちょいとフラフラ気味になりながら、ようやくアスファルトの道が見えてくる。県道だ。天目指峠だ。見ると「休憩所→」という看板もある。助かった……。


 ……休憩所だ。確かに休憩所だ。

 しかし「県道沿いの休憩所だから水を補給できる」なんて誰も約束してはいない。

 いやいや、いくらなんでも自販機のひとつくらいあってもいいんじゃない? などと半泣き状態で休憩所の周囲をぐるぐる回るも、自販機もなければ水道もない。

 ああ、こりゃ本格的にやばいかも。水、あと200ccも残ってないけど、飲まずに残しておいて本当によかった……。ラーメン食わないでよかった……。

 問題は、この先どこで水を補給できるかだ。

 次のランドマークは子の権現。天龍寺というお寺だ。地図にはトイレマークも書いてあるし、いくらなんでも水くらいはあるだろう。

 最悪、お寺で水を分けてもらうことも考えなけりゃならない。もっとも、天龍寺というのが山の上の祠のような小さなもので、住職が住んでいないという可能性も否定はできないが……。とにかく、残り少ない水をより一層節約しつつ、子ノ権現を目指すしかない。

 しかし、地図を見るだけでも嫌な予感が湧いてくる。この天目指峠から子ノ権現に向かう登山道は、やけに短い距離に対して平均所要時間が50分と長い。この情報が意味するところは、つまり、超やべー勾配を上り下りせにゃならんということだ。

 ええい、ジタバタしても始まらん。さっさと行こう。


挿絵(By みてみん)


 ……予想はしていたものの、きっつい……。

 地図には愛宕山と書いてある天目指峠から子ノ権現に至る山だが、ただ単に勾配がきついのではない。登ったり下りたりを何回も繰り返すのだ。

 急勾配を登って下りて、また登って下りて、もう一度登ってきたころには、フラフラになっていた。汗がひどい。軽い脱水を起こしているのかも知れない。水を飲みたいが、あとどれくらいで到着するのかもわからないので、ギリギリまで温存する必要がある。

 それに、いつの間にか足がメチャクチャ痛い。この新しい登山靴、内側がかなり硬い材質で皮膚に当たる感触が結構痛いのだ。考えてみりゃ、この靴履いたのは買ったとき以来だ。てゆーか、慣らし履きしてねえじゃん。足が痛むのも当たり前だ。

 加えて、足の痛みと喉の乾きが疲労となって、眠気を強めている気がする。そういえば、電車ではろくに眠れなかったのだった。ちょいと頑張って早起きしたのがモロに響いている。ああ、これはちょっとやばいなあ……。

 それでも、進まねば進まない。

 再び急勾配を下りていくが、泥の下り斜面で踏ん張りが効かずに足が滑り、「やべっ」と思ったときには数メートルの泥斜面を転がっていた。


 のろのろと起きて、すぐ横にあったやたらでかい平らな岩に腰を下ろす。

 うう……いたい……。身体を細部までチェックするが、とりあえず骨などには異常なし。捻挫などもしていない模様。肘と膝を擦りむき、その周辺がたんこぶのように痛む程度だ。この程度で済んでよかった……。この岩に頭とかぶつけないでよかった……。

 考えてみたら、登山中に転倒するというのは初めてのことかも知れない。そりゃまあ、足が滑って膝を付く程度のずっこけは一度ならず経験しているが、完全にすっ転んで前後不覚状態で斜面を転がり落ちるというのは初めてだ。

 しかし……うーん……凹むなあ……。

 すっ転ぶと、肉体的ダメージだけでなく精神的なダメージも甚大だ。気分がバキバキに萎えて、今すぐ何もかも放り出して家に帰って眠りたくなってくる。というか眠い。喉もカラカラだ。

 水を一口だけ飲み、座っている岩にそのままゴロリと寝そべる。休憩だ。とにかく、身体を落ち付けよう。

 気温は相変わらず高いが、幸いにも木々と風が快適で、寝そべっている岩もひんやりと気持ちいい。

 帽子をアイマスク代わりにしばし寝る。

 誰かが近づいてくるのが聞こえた。女性の二人組のようだ。私が岩の上で寝てるのを見つけたのか、「あれ? 村田さんじゃない?」違います。とりあえず死体や遭難者と間違われぬよう上半身を起こして「生きてます」アピールを兼ねて挨拶。

「あんなとこで寝てるから、村田さんだと思った~」とか話しながら通り過ぎていく。村田さん、いつも山ん中でなにやってんだ。

 ああ、せっかくだから子の権現まであとどのくらいか聞けばよかったなー。なんて思いながら、もう一度寝る。

 眠ること30分ほどか。喉の乾きはあるが、とりあえず心臓とか呼吸とかは完全に落ち着いた。脚の疲れもずいぶんと楽になってきて、その代わりと言ってはなんだが擦り傷と打ち身がズキズキと痛む。

 しかしまあ、この程度の痛みならなんてことはない。最初に高尾山で膝ぶっ壊したのにくらべれば可愛いものだ。

 うん、これなら大丈夫。子の権現を目指そう。

 結局、天目指峠から子ノ権現に抜けるためには、上り下りをもう一回繰り返すことになった。

 砂利で敷き詰められた自動車も通れるような広い道に出て、向こうに建物が見えたときの安心感ときたら、それはもう大変なものだ。


 13時50分。子の権現。ちょうど裏口から入ってきた形で、お土産屋さんの横手に出てきた。

 よかった……大きなお寺だ……。お土産屋さんがあるくらいなら、水もなんとかなるだろう。

 早速、お土産屋さんに聞いてみる。お寺の表門の近くにお茶屋さんがあって、自販機も置いてあるそうだ。助かった……。

 そうと決まれば、残りの水を一気飲みである。生き返った。マジで。水最高。

 生き返ったのでお参り。子の権現天龍寺だ。ここは巨大わらじが名物の、健脚祈願で有名なお寺である。

 その巨大な金色のわらじが、本殿の横あいにドドーンと置いてある。その隣には男物と女物のやはり巨大な下駄が一足ずつ。なるほど、話に聞いたとおりだ。


挿絵(By みてみん)


 お賽銭を投げて、お祈り。もうちょい脚が頑丈になりますように……。

 さて、お参りが済んだら表門に向かう。表門は鳥居だ。特に山のお寺には多く見られるが、ここも神仏習合のお寺らしい。あと、やたらにカラフルで巨大な阿吽像がお出迎え……ではなくお見送りだ。

 案内板に、このお寺の由来について書かれていた。


挿絵(By みてみん)


 西暦でいうと911年。子の聖(ねのひじり)というお坊さんが天啓に従い、山を拓いて建てたのがこのお寺だそうだ。

 山を開く際に悪鬼に襲われ火を着けられたところ、十一面観音が天龍となって現れ雨を呼んで鎮火させたという。なるほど、それで天龍寺というわけだ。

 そして、悪鬼の火によって腰から下に大火傷を負った子の聖は、この世を去る際に「自分と同じく腰から下に苦しみを抱える者にご利益を与える」と遺したという。

 うん、確かに健脚祈願のお寺だ。登山を嗜むものとしては、スルーしてはいけないお寺のような気がする。


 さて、お茶屋さん……。っと、自販機発見。とりあえずポカリスエットを……。500ccのペットボトルをほとんど一息で飲み干す。足りぬ。全然足りぬ。んじゃ次はCCレモンだ。半分ほど飲んで、ようやく落ち着いてきた。やはりというべきか、結構な脱水状態だったようだ。更にポカリを2本買って、ハイドレを補充しておく。

 お茶屋さんでガリガリ君ソーダ味を購入。お店の横に設えられたテーブルに突っ伏して、ガリガリ君をガリガリしながらしばしの休憩だ。

 ちょっと今回は迂闊だったなー……などと反省。実際、失敗だらけである。

 まさか、ハイドレーションチューブがここまで重要なアイテムだったとは夢にも思わなかった。チューブなしの直飲みでも調節出来るだろうと思ってズンドコ進んだのが最大の失敗だろう。

 もちろん普通に直飲み派の人もいるし、直飲みそのものがまずいのではないだろう。ハイドレチューブを使って飲む場合、一口がごく微量、10ccとかで調節できるのに対し、直飲みだと同じ一口でも50ccとかになってしまう。つまり5倍の速度で飲んでしまうのだ。きっと直飲みは直飲みで、一度にたくさん口に入れないようなテクニックがあるのだろう。

 まあ、脱水はもう懲り懲りなので、これからはハイドレチューブは死んでも忘れないようにしよう……。

 あと、寝不足。始発電車に乗るために朝早く起きるのはいいが、しかし昨日の夜は寝付きが悪かったようだ。登山に合わせた睡眠コントロールも今後の課題になりそうだ。

 そんで、最後に登山靴。脱水と寝不足もあったが、すっ転んだ原因は登山靴だと思う。

 いや、この靴が悪いのではない。今回は迂闊にも、一度も慣らし履きをせずに登山に挑んでしまった。まったく足に馴染んでない靴で、一度も登ったことのない山を登ったのだ。しかも、岩登りまでしている。今になって考えたら危険なことこの上ない。よくもまあ、この程度で済んだものである。

 ともあれ、ソロ登山を続ける以上、本やネットで勉強するのにも限界がある。最終的には自分の身をもって、痛い目を見ながら学んで行くしかない。ソロ登山とは「やってみなけりゃわからない」の連続である。

 今回の登山は、成功か失敗かを問うのなら、間違いなく失敗だろう。しかし、ハイドレチューブの重要性、靴の慣らし履きの重要性、睡眠コントロールの必要性など、おおいに得るものがあったということにしておこう。


 さて、目的地はすべてクリアしたことだし、下山しよう。

 実は、子の権現から最寄りの吾野あがの駅までも結構な距離がある。おおむね、陣馬山から麓の高原下バス停まで歩くのと変わらないか、あるいはそれ以上だろう。

 子の権現そのものは自動車で参拝できるように道路が続いている。が、そっちの道は超遠回りで、駅に向かう道は再び登山道に入らねばならない。まあ、下りオンリーなので、膝にさえ気をつければなんてことはない。

 そして、登山道が終わったところに、このあたりでは少し有名な浅見茶屋というお茶屋さんがある。

 ここのうどんはかなり美味しいと聞いている。疲労回復も兼ねて食べていこう。

「ごめんなさいねぇ。今日のおうどん終わっちゃったんですよー」がっくり。

 仕方ないので抹茶オーレなどを頼むが、これはこれで美味い。久々に身体に入ってくる動物性タンパク質だ。

「生き返る」ってのはこんな感じだろう。RPGやアクションゲームに例えるならば、体力バーがみょい~んと回復していく、そんな感覚を覚える。

 よし、元気も出たし、あとは吾野駅まで歩くだけだ。


 例によって面白くもなんともないアスファルト道をてくてくと歩く。そこらには農家やら畑やらが結構あって、わりと山深くまで人が住んでる様子だ。

 畑の横を歩いてると、事件が起きた。

 すぐ近くで「ニャー」とか聞こえたのだ。驚いて横を見ると、私の胸ほどの石垣から黄色っぽい猫が顔を出していた。にゃーさんだ。

 この農家で飼われてるのかな……などと思いながら舌でチチチと呼んでみる。なんと、ニャーとか言いながら石垣からピョイと飛び降りて、私の足にスリスリしてくるではないか。

 休憩ついでにその場に座り込むと、膝の上にちょこんと乗って顔グリグリしてくる。

 うほお……たまらん……なんというフレンドリーにゃーさん。お腹のあたりをコチョコチョすると、ニャーとか言いながら膝の上でゴロンとひっくり返って「もっと撫でれ」してくる。

 ああああっ! かわいいいっ! 絶対わかってやってるよね? このにゃーさん。ぜったい「自分は超かわいい」ってわかってやってるよね?

 こんな山の中でほとんど人も通らず、おばあさんも畑仕事で相手をしてくれず(想像)、退屈で退屈で仕方なかったのでありましょう。何分でも何十分でも、こちらが望むだけモフらせてくれる模様。

 しかし……そろそろ夕方になってきたし、帰らなきゃ……吾野駅まではまだ結構あるし……。

 膝の上のにゃーさんを地面に降ろして……降ろすためにそのお餅みたいな柔らかボディーをでろーんと持ち上げるんだけど、こっちの顔見て「ニャー」とか言いやがる。凶悪すぎる。

「バイバイでちゅよー」いい年こいたオッサンにあるまじきキモさ全開の言葉遣いでにゃーさんに別れを告げて先へ進むも、なんとにゃーさん、ダダダッと追いかけてきて追い越して、私の前でゴロリンと転がって通せんぼ、あまつさえ「ニャー」とかやってやがる!

 ああああああああああっ! もおおおおかわいいいいなあああああっ! こんちくしょう、なんて凶悪な攻撃をしてきやがる! もう「ここに住め」と言わんばかりの猛攻だ。

 それでも、帰らないわけには行かない。私には帰るべき家があるのだ。もう一回「バイバイでちゅよー」とか我ながらキモさ全開挨拶をして歩くもまた阻止されて、それを数回も繰り返して畑エリアを抜けたあたりでようやくにゃーさんも諦めた……というより、このへんがテリトリーの境界なのであろう、お見送りモードと相成ったわけである。

「ばいばーい」手をふると「ニャー」と返事をする。何度でも、何度でも、すっげえ遠くなっても、振り返って「ばいばーい」と手をふると「ニャー」と返事が帰ってくる。

 いつまでも、いつまでも見送ってる。100メートル以上離れてカーブの向こう側に消えるまでずっと見送ってた。

 はふう……あんなに猫触ったのって初めてかも知れん……。また会いたいなあ……。また来よう……。


 夕暮れの中、吾野駅に着いたら電車が今にも出発しようかってところで、こりゃ1時間待ちかと思いきや、車掌さんが手を振って「早く! 乗って乗って!」と出発を待ってくれた。サンキュー、西武秩父鉄道。ナイス人情、いいところだ。

 電車の中で失礼して汗だくの服を着替え、ようやくスッキリだ。

 落ち着いてくると、転んだときの擦り傷のあたりがやたらに痛みだす。本当にこの程度で済んで良かった。

 次に来るときには、ハイドレチューブなり慣らし履きなり、もうちょいと慎重に行動するようにしよう……。

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