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いけないスイッチ(近所の坂道)

 その昔、開発の仕事をやっていた頃、会社の後輩やら友人やらに「富士山のてっぺんまで登ってみようぜ」と声をかけたことがあった。

 返事は軒並み「絶対にいやだ」であった。

 その後、交通事故を経てすべての腹筋機能と大半の右腕力を失い「この身体じゃ山どころじゃねえなあ」とか思って、富士山のことなど完全に忘れて去ってから、気がつけば10年以上が過ぎていた。

 今ではこの身体にもすっかり慣れ、のんきにカレーを作って楽しく過ごしている毎日である。多少の不便はあれど、これもまた愛すべき不便というものだ。

 特に、大きな不満は感じていない。

 ……などと、妙に達観していたつもりだったのだが、なんとなしに見た登山関係のブログだかコラムだかで「小学三年生くらいの体力でも富士山に登れる」とかナントカ書かれているのを見て、なんというかこう、ムラムラと来てしまった。

 いや、別に小学三年生に対抗意識を燃やしているわけではない。しかし、すでにポイント・オブ・ノー・リターンを過ぎているであろう私の年齢に加え、この中途半端に不自由な肉体が私の終点なのかと実感するにつけ、焦りと言うか、悪あがきと言うか、とにかくムラムラ来てしまったのだ。

 このゴリラ、小学三年生というキーワードにより、なにやら頭ん中のいけないスイッチが入ってしまったらしい。


 かつて後輩やら友人やらに声をかけたときも、別にそれほどの熱意があるわけでもなかった。バイク乗りだった当時、ちょくちょく富士山の五合目まで走って、飯を食いながら遥か上にそびえる山頂を見上げて「ふーむ」とか思っていた程度である。

 実際のところ、事故にも遭わず五体満足で健康に過ごしていたのなら、それこそ本当に富士山のことなど忘れたままだっただろう。

 それが今や「富士山に挑むまでは死んでも死にきれん」みたいになってるのだから厄介極まりない。それもこれも「この身体だからこそ」なのだ。

 まったく、愛すべきは不自由なる我が身と言ったところだ。

 ともあれ、スイッチが入ってしまったものは仕方がない。どうせスイッチを切る方法などないのだから、やれるところまでやってみようではないか。


 さて、登山関係のウェブサイトを散見していくと、どうやら最低限の装備なるものが見えてくる。

 すなわち「靴」「ザック(リュック)」「レインコート」である。登山における三種の神器。他の何をケチっても、この3つだけはケチってはいけないと。

 そんなわけで、目指せ富士山とばかりにまずは靴探しの旅に出たのであった。


 近場で登山ショップを探すとまず真っ先に出てくるのが「好日山荘」というチェーン店で、あと数年で開業100周年という老舗である。

 登山靴売り場を見つけてどれどれふむふむと物色するも、すぐに嫌な汗が流れ始めた。

「靴の選び方、まるっきりわかんねえ……」

 無理もない。このゴリラ、ほとんど今日まで登山なんて存在レベルで忘却しつつ安穏に浸っていたのだ。いきなり登山靴を選べるわけもなし。

 為す術もなく靴売り場周辺をのっそのっそと徘徊する不審ゴリラ。その怪しさに耐えかねたのか、店員さんの一人が声をかけてきた。

 この時点では、まだ本気で富士山に挑むかどうか心が決まっていたわけでもなかったのだが、まあ一応……てな感じで「富士山あたりを目標に登山を始めてみようかと思ってるんですけど……」みたいな感じで切り出した。

 思えば、この一言が沼への第一歩だったのだろう。


 実のところ、「どうせ靴だけでも数万円クラスの超お高いやつを勧められるんだろうなあ」などと予想していたのだが、その場合は「考えときますウホ」とか茶ぁ濁して帰っちまおうとか思っていた。

 だが、「富士山が目標ならこれくらいですねー」と勧められた靴が2万円以下とあって、一気に心がぐらつく。やばい。フツーに射程範囲内である。

 足のサイズに合うのを探って、10回くらい靴を履いたり脱いだりしつつ店内にあるちっちゃな坂道を上がったり下りたりするうちに、なんとなくわかってきた。

 登山靴、すげえ。

 登山靴はいわゆるスニーカーと違って底が硬い。ほとんど曲がらない。いや、登山靴の中でも更に硬いものもあって、私の選んだものは登山靴の中では中くらいの硬さらしいが、それでもガッチガチである。

 紐の正しい締め方なども教えてもらいながらしっかり締めると、硬さとは裏腹にものすごく軽く感じる。驚きである。

 余談だがこのゴリラ、ファッションに金を掛けるという習性がほとんどない種類の無粋極まりない野生ゴリラらしく、靴なんざ最低限の機能さえありゃ充分とばかりに数千円程度のをごく当たり前に履いている。

 そんなゴリラが文明に出会った。機能の塊と言わんばかりの登山靴に魅せられてしまったのだ。


 ――この靴を履いて山登りをしてみてえ――


 いや、今になって思えば、あるいは店員さんに上手いことやられちまったのかも知れない。が、いずれにせよ、この靴を買った瞬間に後戻りの出来ない沼に踏み込んだのであった。


 ちなみに買った靴は「Sirio」というメーカーの「P.F.302」というもので、「とりあえず初心者はこれ使っとけ」的なエントリーモデルらしい。

 普段はネットショッピングで出来るだけ安いものを探す貧乏性ゴリラではあるが、流石にこういった「失敗したらエライ事になる」ような場面では専門店で買うことに決めている。

 そりゃまあアマゾンあたりで探せば2、3千円は安く買えるのだろうが、2、3千円で専門家のアドバイスを買えるのなら安いものである。

 ……などと考えていたのだが、アマゾンで探したら私が買ったのとほぼ同額になっており、実は(授業料も含め)悪くない買い物をしていたことが判明したのであった。


 さて、靴を買ったら最初にしなければいけないことがある。靴ずれ対策の慣らし履きである。近所をうろつき回って足を慣らしていくのである。

 どうせなら、この靴の威力(?)を確かめるのも兼ねて、近所の坂道を登ったり降りたりしてプチ登山気分でも味わってやろうじゃないかと思い、意気揚々と出かけていって数分。

 ただでさえ汗だくなゴリラだというのに、またもや嫌な汗がダラダラ流れ始めた。

 近所の坂道は確かに勾配はきついほうだと思う。しかし、いくらなんでもこれはないんじゃないか。靴が良いのはわかる。足とガッチリ一体化してる安心感がある。

 問題は靴ではなく私の体力である。

 数えてみたら坂の一番上まで240歩前後。往復でも500歩にすら満たない。それを2,3往復しただけで疲労困憊、つーか太ももがなんかピクピクしている。

 ついでに「横っ腹がいてぇ」という感覚を30年ぶりくらいに味わった。腹筋がなくても、横っ腹だけはしっかり痛くなる仕様らしい。理不尽である。

 ともあれ、おかしい。

 こう見えてもこのゴリラ、ここ半年はほぼ毎日2時間エアロバイクを漕いで体力をつけていたはずなのだ。これはおかしい。話が違う。

 エアロバイクには意味などなかったのか? いや、そんなはずがない。エアロバイクでも汗がダクダク流れたではないか。サーカスに売り飛ばされたゴリラのような気分で、黙々とペダルを漕いで大量に流した汗が無駄だったなどとどうして認められようか。

 ほとんど意地のように結局坂道を10回くらい往復して、打ちひしがれた気分で家に帰って風呂入って寝た。

 布団の中でぼんやりと思う。


「これ、富士山どころじゃねえんじゃねえの?」


 二日目の夜。見えないなにかに引きずられるように坂道へと向かう。

 何に引きずられているのかって、そりゃ「2万円近い靴を買っちまった以上、もうあとには引けない」という貧乏性からくる強迫観念、いわゆるところの「沼の原理」である。

 半ば絶望的な気分で2万円に引っ張られて坂道を登るというのも酷いものだ。

 ちなみに、傍から見たらこのゴリラ、思いっきり不審者である。

 なにしろ見た目も無駄にうすらごっつい中年を通り越した雄のゴリラが、ぜぇぜぇはぁはぁ言いながらのっそのっそと同じ坂道を登ったり降りたりしているのだ。私だったら通報する。

 通報されても良いよう、とりあえず免許証だけはポケットに入れてある。が、幸いにも今のところ通報された様子はない。このゴリラ、どうやら地域住民に受け入れられたらしい。

 ともあれ、坂道である。重い気持ちで歩いていたのだが、どういったわけか辛さが昨日ほどは襲ってこない。昨日は2,3往復で汗ダラダラだったのだが、今日はずいぶんとバイタリティーの持ちが良い気がする。

 もしかしたら、二日目にして身体が慣れてきたのかも知れない。エアロバイク、地味に基礎体力を付けるのに役に立っていたのか。

 それでも、嫌でも自分でわかってしまう。まだ「富士山どころじゃねえ」という状態は何一つ変化していないということを。

 仮に今の体力で1時間近所の坂道を上がったり下ったりして疲労困憊になるとしよう。

 富士山を登るとなると、これ以上の勾配をおそらく6時間近くに渡って歩き続けねばならないのだ。

 このままでは不可能。というか下手したら死ぬ。山頂どころか、せいぜい6合目か7合目あたりで「やっぱ駄目でした」とスゴスゴ引き返してくる未来が目に見える。

 どう前向きに考えても、今の時点では「洒落になんねえ事に足突っ込んじまった」という実感しか沸いてこない。


 だが、この辺りでようやく「登れないのなら登れるようになればいいじゃない」という思考回路が回り始めた。

 思えば、欲しいものは小説からほうれん草カレーまで、それが可能とあらば片っ端から作ってきた私である。今更富士山に登るための身体を作れないという道理はなかろう。

 登山に向けた身体を作るためにはどうすればよいのか? 実に単純明快である。……そう、登山をすれば良いのだ。

 実際に山に行くのはもう少し装備を揃えて、身体を坂道に慣らして、ついでに心の準備を整えて……なーんて思っていたが、もはやガタガタ言っている場合ではない。

 山だ。今すぐマウンテンに登るのだ。


 ……え? カレー?

 そんなことより、今は山だ。マウンテンに登るのだ。

 悪あがきの始まりだ。


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