西の都に千の本
史実を元にしたフィクションです。
「もう三日になる」
午後の礼拝から仕事に戻る道すがら、召し使いの男はそばを歩く年上の同僚に目を向ける。
「ハカム様が、ご自身でつくりあげた図書館にて書も手にせず、ただ立ちつくしているのを見かけたのは」
男は花の都の主が、今もいそうな建物を見上げる。
「これで三日目だ」
年上の方は、その光景を頭に思い浮かべて眉を寄せる。
「“あの”ハカム様が図書館にいて書を読まずに過ごすなどと、一体どうされたのか」
時の君主ハカム2世の好学ぶりは、都中によく知られた事実だ。
「あの、歩く時さえ読書の時間だと思っていそうなハカム様が」
「読書に夢中になりすぎて女性に見向きもしないから男色の噂まで流れた、あのハカム様が」
男色というのは虚言だが、女より男より何よりも、ハカム2世は書に惚れこんでいる。書物がかたわらにないハカムの方が珍しいというのに、その見慣れぬ姿が三日も続くとは。召し使いの男たちは不思議な事もあるもんだと、首をひねる。
「それでも図書館には行くというのが、あのハカム様らしいな」
確かに、と相手が応じて彼らは笑い合った。
西日がさしてきた。
男が顔を上げる。また、一日のうち礼拝のとき以外ずっと、図書館で過ごしてしまうところだった。
ハカムはもう随分と長い間、都づくりに魂を注ぎこんできた。
新しい都を築こうと決めたのは、ハカムの父だった。ハカムは父により現場の指揮を任されており、建設当初から事業にたずさわってきた。そのため自分の使命のように思えていたし、実際、父の死後は自身だけの仕事となった。
花の都の広い敷地には、ありとあらゆるものを並べた。
国の主の住まいに謁見の間と庭園、礼拝所に種々の工房、兵舎や民の住まい、それから入浴施設。宮殿建築はことさら壮麗で贅を尽くしたものに仕上げた。諸外国にウマイヤ家の権威を見せつける必要があった。
とはいえ――宮殿図書館に関してはハカムの嗜好に過ぎぬと言われても、否定はできない。
宮殿図書館に最後の書物を運びこんで、もう三日だ。
ハカムは四十万もの蔵書を、世界中から集めた。カイロ、ダマスカス、バグダード、バスラ、マッカにマディーナ。異教徒の都ながら敬意を払うに充分な歴史と文化と知性を持つ――コンスタンティノープルにまで書物を求め、宮殿に持ち込んだ。
そんな宮殿図書館もついには完成した。もうやるべき事は残っていないというのに、ハカムはこうしてまた図書館にやって来てしまう。
「何故だか、終わったという実感が……わきません」
書棚に平積みにされた書物も、すべてハカムの指示で配置されたのだから何の不備もないはずだ。毎日、館内を召し使いが手入れしているのも見た。今はもう彼はおらず、ハカム一人だ。
万事が順調だというのにハカムは、不安に近いものを抱いてしまう。
考え過ぎだろうと思い直したハカムの耳が、小さな物音を拾う。
なんの気なしに音のした方を探すと、小柄な影が書棚に寄り添っている。
まだ十にもならないだろう子どもが、書物を手にしてページを繰る。宮中で見かけた事のない子だ。自分以外にも図書館に人がいたのだとハカムは知る。ハカムの視線に気づくと、少女は顔を上げた。
「ここをどこだと思っているんだい? 図書館に来たなら、本でも読んだらどうなんだ」
大人顔負けの物言いに、ハカムは驚く。加えて、彼の行動をとがめるような目つき。
黙ったままのハカムに、子どもは書を閉じ腰に手をあてる。
「でなきゃ、お偉いさんが図書館で幅を利かせるのはやめてくれないかな。他の者が入って来にくいじゃないか」
本当に大人のような口を利く。だが相手は小さな子どもで、ハカムは腹を立てるような気にはなれなかった。それよりも彼女の言葉の意味の方が気にかかる。
「そうなのですか?」
時の権力者であるハカムがこの場に長々と居座る事で、他の者の図書館利用を妨げているというのか。
「そうだよ。まったく、せっかくの図書館を活用しないやつしか来ないなんて」
図書館は本を読むところ――それをしないのであれば、訪れる意味などない。彼女はそう言いたいのだ。
読書に没頭しすぎて返事を忘れ、しかられた事のあるハカムが、書に無頓着になっても呆れられるとは。少し面白くなって、ハカムは口元をゆるませる。
「普段の私は、もう少し読書家なのですが」
ハカムをよく知る宮中の者が聞いたら『少しどころではないでしょう』と口をはさみたくなった事だろう。
微笑んだまま、ハカムはまた館内に視線を向ける。書棚には角の取れた古びた書物もあるが、新たにアラビア語に訳した作りたての書物もある。クルアーン学、歴史学、天文学、哲学、数学、医学に農学、詩集や文学その他の書物まである。
都の施設と同じく、必要と思われるものはすべて収集した。ハカムがなにもかも、宮殿の中と外にそろえたのだ。
「新しい都がやっと完成したので……感動してしまって、眺めていたところです」
ハカムの心のうちを一言であらわすなど――とてもできないが、子ども相手のために彼は言葉を選んだ。少女は面白いとは思ってなさそうな笑みを浮かべる。
「三日間ずっと?」
そんなはずがないと、彼女には知られてしまっているようだ。
「それは……」
少女と目が合ったハカムは、心臓をぐっと掴まれたように錯覚する。彼女の瞳は奇妙に澄みきっていて吸いこまれそうだ。その瞳の奥は、何千年も前からこの地を見ているかのよう――。
ハカムにはこの娘がただの人ではないように見え、相手の視線がそらされた事でその思いから解放される。
妙な考えをしてしまったものだと、ハカムは息をつく。
ここのところ彼は物思いにふける事が多かったから、思考をめぐらせすぎて突飛な事まで思いついてしまうのだろうと、自分を納得させる。
花の都が完成して、もう三日もたつ。
手がけて久しい都が完成した事はこの上なく喜ばしく、嬉しい。だがあまりにも、ハカムは長い間この都に心を預け過ぎて――まだ戻ってこれない。
素晴らしいものになるはずだ、そう思い続けて事業に打ちこんだ。素晴らしいものにしたはずだ。そう思うにつれ――何か欠けているのではないか、自分は何か怠ってしまったのではないかと、ハカムはいつまでも振り返ってしまう。
あるいは、建設が終わらなければいいと思っているのかもしれない。
いっそもっと宮殿を増築して都市の領域も広げ――
ハカムは自分が何をしようとしていたのか、分からなくなったのだと気づく。何をしてきたのかも、自分がどこに立っているのかも分からなくなりそうだ。
「――ねえキミ、人はなぜ本を読むと思う?」
少女がくるりと振り返って、ハカムの思考を遮った。どうも、彼はまた考えすぎていたらしい。ひとつ息を吸う。
「そうですね……」
謎かけだろうか、ハカムは思案する。
一般論を問われているのなら様々な事が言えるが、ハカムは君主であるために上に立つ者の目線で見てしまう。
「本を読んで得られる知識は、力となります。相手が知らない事を自分だけが知っていれば、より強い立場に立てます」
内政や外交、戦時にだって他者より知る事が多ければ自分が優位に立てるし、可能性は広がる。
「それに、預言者ムハンマドも知識を求める事を良しとしています。イスラーム教徒にとって、学ぶ事はとても大切なものの一つです」
ハカム2世は信心深く、コルドバにある大モスクの増築も手がけた。当たり前かもしれないが、ムスリムとしての教えを守る事は何よりも重要だと考えている。
「生活にも必要な事です。たとえば建物を建てるための知識や、暦を決めるための星を読み解く知識がなければ、人々は生活していけません。本があれば口伝えよりもきちんとした記録を残せて、より多くの人の生活を支えられます」
ハカムの一連の建築事業だって書物を参考にしなければ成せなかった事だ。
まだたくさん答えられるが、こんなところだろうか。ハカムが少女の様子を見ると、彼女はもうさっきの場所にはいなかった。
音もなく移動して、少女はハカムに背を向けたまま館内の書棚を見上げる。
「ふーん」
とても気のない相槌だ。ハカムは苦笑する。
「……どうやら納得いただけないようですね」
「つまらないな、と思って」
ハカムの答えは彼女のお気に召さなかったようだ。見知らぬ少女のご機嫌をうかがう必要はないのだけれど、彼はどうしてかこの子どもに認められたかった。
何故、人は本を読むのか。
そんなものは十人に尋ねれば十の違うこたえが出てくるだろう。
やはり謎かけだろうか。ハカムが本を読むようになったきっかけは何だったか。
「……私は小さい時から、遠い国のお話を聞くのが好きでした」
昔の事なのに、思い返すと今でも心躍る――。
父のアブド・アッラフマーン3世が遠征から帰ると、彼の無事な姿と共にハカムを喜ばせるものが訪れた。それは、父が遠征先で見た光景――幼いハカムの見知らぬ世界についての、不思議な魅力に満ちたお話。子どもの自分にとって、異国のお土産話はかけがえのない宝物のように思えたのだ。
父を訪れる異国の王や各国の使節の姿を見るのも面白かった。特にコンスタンティノープルの大使は鮮やかな色の絹の衣が印象的で、憧れた。地理的に近いはずの北西アフリカも自分たちの文化と似ているようで異なるところが面白い。
新しく知ったものに、自分の世界との共通点があっても、なくても、ハカムはひどく惹かれた。
「そうですね……。人が本を読むのは、そこに知らない世界が広がっているから。新しい事を知られて、ワクワクして……まだ知らないけれど、知りたいと思っていた事を教えてもらえて、楽しいから」
新しく知った事が実際の役に立たなくとも、ハカムの心は満たされてゆく。
「ただ単純に、好きだから読んでしまうんです」
理屈ではないと、答えにもなっていないものが生まれた。
「これでは一般的な考え方というより、私のごく個人的な意見ですが」
きっと彼女は気に入らないだろう。子どもみたいな答えだからだ。
だがハカムが書を読む理由としては、それがみなもとだ。君主としての教養も、信仰心も、生活の知恵も後づけでしかない。
宮殿に図書館を作る時も、宝箱の中に宝物をつめこむような気持ちだった。ハカムの都が、図書館によって更に素晴らしい場所になる――。
「へえ」
少女はいたずらっぽく笑った。
「気に入ったよ、そのこたえ」
ハカムに一歩近づくと、彼女は手にしていた書を彼の胸に押し付ける。
「単純でもいいじゃない」
かえってハカムは混乱する。自分が正解を口にできたつもりはない。
「楽しんでよ」
少女は子どものような顔をして、大人びた眼差しをする。母親のように慈愛に満ちて、父親のように泰然として。賢者のように生徒を褒める。
ハカムが書物を受け取ると、少女は彼の後ろに駆けて行く。
一拍遅れて彼が振り返ると――誰もいない。ハカムの見間違いだろうか。さっきまで彼女がいた場所に目を戻しても、人影はない。
「あの子は……一体……」
一通り図書館内を歩き回ってみても、もうあの娘の姿は見当たらなかった。
オレンジ色の火が、薄暗くなった宮殿内に灯されはじめる。西の空が薄紅に変わり、ハカムはやっと図書館から出てきた。両手いっぱいに書物を抱えて。
最初に廊下ですれ違ったのは、ハカムがその腕を高く評価している宮廷医とその弟子だ。
「カースィム」
宮廷医の一国の主に対する丁寧な挨拶を聞くともなく、ハカムは相手をじっと見つめる。
「あなた、医学の本を書きませんか?」
「へっ」
間抜けな声を上げてしまったカースィムは、突然の話題に二の句も継げない。
「以前から思っていたのですよ。あなたの医学の腕と知識は素晴らしい、あますところなく後世に伝えるべきだと。そのためには書にした方がよいでしょう」
自身の言葉を名案と信じきった主君に「い、いや、自分はまだ若輩で……」宮廷医は今はその時期ではないと否定したが、ハカムはほとんど聞いてなかった。
「本はいいですよね」
手にした書の表紙を見つめ、ハカムは何かに浸るような表情になる。
「これから私はもっと多くの本を読みますよ。もちろん名医カースィムの医療書もね」
まだ生まれる前の書物の話までして、ハカムは足どり軽く歩いてゆく。両手いっぱいに書物を抱えて。
取り残されたカースィムは、自分の弟子と顔を見合わせる。あんなに活力に満ち満ちたハカム2世を見るのは、三日ぶりだ。
「つまり……ハカム様らしさが戻ってきた、ってことか……?」
「みたいっすね……」
この日、ハカムは宮殿内を移動するだけで、普段通りに戻ったと周りに理解された。両手に抱えた書物と、楽しげな表情で、“本好きハカム様”が帰ってきたと皆が察したのだ。
その上、廊下の途中でたえきれなくなって本を読みながら歩きはじめる始末。
「やっぱり、ハカム様はああやって読書しているお姿が、一番しっくりくるよな」
召し使いの男は主君の姿を見送ったあと、満足そうに笑みを浮かべて、仕事に戻った。