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BAR 夜明ヶ前 J  作者: 沼 正平
3/6

日本のジャズ・ヴォーカルに馴染む

 ジャズの入門にヴォーカルから入る、っていうのはかなり変則だけど、ヒゲと茶髪の二人には結構相性がイイかも知れない。そういうところを見抜くあたりがこのマスターの非凡なところなんだよな。

 今夜はいきなり名盤“チェット・ベイカー・シングス”が掛かったけど、他にどのへんを薦めてくるんだろうか。何しろ俺はヴォーカルを聴かないから、あまりピンとこない。もちろん、チェット・ベイカー・シングスくらいは知っているが。

「ヴォーカルのアルバムをどのへんから聴くか、っていうところがその後のポイントになってくると思うんだが、例えばとにかく有名どころから、なんてのもイイと思うぞ。例えばコレだ」

 そう言ってマスターが取り出したのはフランク・シナトラのベスト盤だ。

「あ、その人名前は聞いた事あるな」

 茶髪がすぐに反応したが、ヒゲの方はあまりピンときていないようだ。

「これは掛けないけど、“マイ・ウェイ”や“フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン”とか、ジャスを知らなくてもお馴染みな曲があるからね。更にコレ」

 次に出てきたのはメル・トーメ。これは二人ともきょとんだ。

「じゃあコレ」

 続いてナット・キング・コール。これも首を傾げるばかり。シナトラが限界だったのかな。

「難しいもんだな。じゃあ女性ヴォーカルいってみようか。コレならさすがに知ってるだろう」

 ナット・キング・コールを棚に引っ込めて代わりに出したのは、なんとマリリン・モンロー。

「あ、知ってる知ってる!」

「アレ、この人って映画俳優でしょ。歌ってるの?」

 それを言ったらシナトラだって俳優だけどね。

「まぁジャズの入門でいきなりマリリンからっていうのはちょっと違うか。これは私の趣味だからね」

 そう、マスターの女声ヴォーカルの基準は完全に“美女”であるかどうかだ。

「ジャズのヴォーカリストそのものにあまり縁が無いようであれば、思い切って日本人のヴォーカルを聴くって言う手もある。基本国内盤だから解説とかも分かり易いし対訳も付いてくるし。私がお勧めするとしたらこの人かな」

 マスターはCDの棚から一枚取り出す。出てきたのは小林桂という人。俺も昔、チラッと名前だけは聞いたことがある。ジャケ写を見る限りでは、目の前にいる二人と同じような年恰好だ。

「何枚もリリースしているけど、私のお勧めはこの“ソフトリー”かな。結構昔のアルバムではあるけど」

 二人は興味深そうにCDを受け取って見入った。

「曲名見た限りだと、“星に願いを”くらいしか知らないかも」

「それは残念だな。ついでにこっちの旦那にも見せてあげてくれ」

 おっと、俺にお鉢が回ってくるとは思わなかった。すっかり油断してたな。

 当然のことだが、知ってる曲は多い。だけど、メロディは知ってても、その歌を知っているかどうか、歌詞を知っているかどうか、っていう話になってくると愕然とするものがある。

「どうだい、旦那なら大体知ってる曲ばかりだろうな」

 そう言いながらマスターは俺の手からCDを取り上げ、トレーに乗せて再生する。一曲目は“朝日のように爽やかに”だ。ケースからブックレットを取り出すと、再び俺に手渡した。

「旦那あたりだとジョン・ルイスのピアノなんかを思い出すところかも知れないけど、こうやって歌版を聴いたり、歌詞や、その対訳とかを知ったうえで聴くと、ピアノだけの演奏でもまた味わいが違ってくるってもんじゃないかな」

 確かに。自分はメロディだけで知ってる曲と認識してたようだ。

「例えばビル・エヴァンスの“ワルツ・フォー・デビー”に入ってる“マイ・フーリッシュ・ハート”も」

 このアルバム収録の2曲目だ。

「ウォルター・ビショップjrの演奏で有名な“スピーク・ロウ”なんていう曲も、意外と歌も聴かないし歌詞も知らない、なんていうリスナーがいるんじゃないかと思うんだよ。以前、ある芸能タレントが『ヴォーカルっていうのはただ聴けばよいというものではなくて、しっかりと歌詞の意味も理解していないとダメだ』みたいなことを言ったらしい。確かにその通りだと思う。そのタレントは放送作家や評論家みたいなことをして、ちょっとだけ政治家やっていたらしい。言ってることは正しいが、私はその人のことが大嫌いなので名前は伏せておく」

 まぁ、何となく分かるけどね。

「全然知らない曲ですけど、このマイ・フーリッシュ・ハートってイイ曲ですね」

「そうかい。だとしたら今度はこの曲の入った他のアルバムを探す、っていうのもいいかも知れない。歌モノでもいいし、歌なしでもいい。ピアノ・トリオであればさっき話したビル・エヴァンスの演奏が有名だし、歌モノで個人的にお勧めなのはホリー・コールだな」

 ホリー・コールは一時期随分と人気があったから、俺でも知ってる。

「とりあえず君らくらいジャズに馴染みがないっていう人には、まず日本人の作品に触れてみるのはいいことだと思うぞ。日本人ヴォーカルの最高峰と言えば阿川泰子さんじゃないかと、個人的に思ったりしている。鈴木重子さんあたりはちょっとジャズから距離があるんだけど、逆に馴染みやすいかも知れない。渋いところを目指すなら稲葉京さんとか。ちょっと渋過ぎるか」

 いや、マスターのヴォーカル好きはとどまる所を知らない勢いだな。俺はと言うと、今まで全くヴォーカルを聴かずにきたことに少し反省をしている。ムリに聞く必要は無いのかも知れないけど、ちょっとだけ齧ってみても悪くないかも。


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