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ぱらりぱらりとページを捲る音が響く。
少し高めの窓枠から庭の花を見下ろしている。足元に感じる毛足の長い絨毯の感覚、つま先は草履を履いていてもその辺りは微かに透けているのだ。額を冷たいガラス窓に付けて、暫しの間捲る指が止まるのを待っていた。
「如何も地図には幾つかの印が付いて居る様だ、君」ベッドから息も絶え絶えの声が茅帆を呼ぶ。振り返ると枕に背を預け、寝間着姿の金田が天井を向きこめかみを押さえる所だった。
「熱があるんですし無理しなくても良いですよ」
「否、此れは僕の勝手なのだから君は気にしないで呉れ給え」
何度言っても金田は頑なに本を手離さない。
部屋の中は換気をしていない所為で空気が滞っている。窓を開けたくともまだ風を少し寒く感じるらしい。
金田は発熱していて、今日こそ少し落ち着いてはいるものの既に三日目。先日の日比谷公園で雨を浴びたまま長い時間掛けて屋敷に徒歩で戻ったのが原因だ。本人は否定しているが絶対にそうだ。気力体力共にあの日の金田は最低最悪だった。
「また御堀さんに怒られますよ、一昨日だってその本を取り上げられたじゃないですか。その所為で危なくあの人と添い寝する羽目になりそうだったんですからね」
御堀は実に勤勉かつ律儀な使用人だ。主人から預かった茅帆の本体を辺りに置きっ放し、等手抜かりは無く大事に持ち歩き、帰宅後は茅帆は不本意ながら彼と共に数時間を過ごした。
(まぁ、それでどれだけ金田さんがここで大切にされているか見せて貰った訳ですけどね。だからこそあんまり無理しないで欲しいんだよな)
元来体は強健だったのだろう。この屋敷では弱音も吐かず、弱っている所を見せることすら由としなかったのかもしれない。その所為か、主人が雨に濡れぼろ雑巾の様な状態で明石町の屋敷に戻った時、女性使用人は血相を変えると小さな叫び声を上げ、老いた男性使用人は濡れた体を厭わず抱える様にして倒れ掛かる体を受け止めた。
既に屋敷に入った時には発熱していたのだろう。その夜には直ぐに熱は高熱となった。朦朧とする頭でも本を開こうとするから結局彼に取り上げられたのだ。
「御堀は……僕が幼い頃から共に居るからね」
とは言いつつもページを捲る手は止まらない。これはどうも言っても聞かなそうだ。茅帆は呆れて嘆息した。
頬が赤い。本へと向けられた目は潤み充血している。数日ベッドでの生活を続けている所為で髪は乱れ、薄っすらと無精髭も生えている。
金田邸を訪れた医者は風邪は勿論の事、心労もまた原因なのだと言った。だからこそ下がらない熱も含めこれほどに甲斐甲斐しく世話を焼かれているのだ。溜まった仕事を気にしている金田が屋敷を出ることが出来るのはいつの事か。
「で、此処だ。見てみ給え。否、余り近付くな。其方に向けたら済む話だ」
開いた本をこちらに向けようとしたが、どうやら持ち上げるのが億劫になったらしい。布団の上に広げると此れだと指す。
なるほど、確かに地図には気を付けないと気付かない程度の印が付いている。
「……帝國ホテル、ですか」
先日歩いたばかりの日比谷公園の横、内山下町の帝國ホテル。ふと目を向けると横の日比谷公園にも又消えそうな印があった。
「ここにもありますね。あとはどこにあったんですか?」
ベッドに膝を乗り出し覗き込むと、金田は明からさまにベッドの端に体を寄せる。怠いだろうに身体を捩り枕向こうへと転がると、勢いで強く咳き込んだ。
「き、君。其れ程寄る必要が在るだろうか」
「見えないんですってば」
「じゃあ君が本を持てば良い」
「だから持てないんです。熱に魘されてたとはいえ、三日は夜を同じ部屋で過ごしてもうこれで四日目ですよ。もういい加減慣れて下さい」
両膝をベッドに乗り出したまま、茅帆は肩を怒らせる。
「だから君には部屋を用意しただろう」
「いりませんよ、本に部屋なんて」
金田は日比谷公園から戻ってから直ぐに客室を一つ用意する様使用人に言い渡したのだ。夜になればその部屋の寝台に本を置く様に伝える用意周到さだ。
しかし本に布団を掛けるのはやり過ぎだった。流石に女性使用人は訝しく思った様だが、全ては熱に魘されているという事で話は聞き流されたらしい。今は少し小さめだが金田の部屋のビロード張りのソファーが茅帆のベッド代わりだ。
金田が髪を乱しながら無造作に搔き上げる。
「じゃあ、これならどうですか?」茅帆は身の内に集中する。
金田が寝込んでいる間、時間を持て余した茅帆は自分の身の可能性について研究していた。つまりは_____着替え。
「じゃじゃーん。学生服です!」
街中で見た男性で目立つのは着物だった。しかし見慣れない着物を実際に復元する自信はない。かといってこの体で似合う男装にも限度がある。実際の茅帆も男性的には程遠く、どちらかと言えば当初の着物姿だと良い所の令嬢然としているのだ。
金田の様なスーツは似合わない。桐野の様な書生風の着物姿も自信がない。それで選んだのは本郷区の帝國大学辺りで見た学生服姿だ。長い髪は丸めて学生帽に仕舞うと丁度いい具合に女らしさを隠せたと自負している。
但し鏡に映らないので目視でしか確認は出来ないが。
「金田さん?」
何か反応を示して貰えると思っていた金田は潤んだ瞳を呆気に取られた様に見開き、口を開けたままだ。
(嫌だ、また熱が上がって来たのかな)
恐らく又逃げられるだろうが身を乗り出し、恐る恐る手の平を金田の額に当てる。一瞬の熱さが肌を掠め直ぐに感覚は消えていった。燃えそうな程熱いという訳ではない事に安堵して、曖昧な指が額に吸い込まれる前に手を引く。
手が離れると同時に窮屈な学生服は消え失せ、見下ろすのに慣れた着物に戻っていた。ひらりと焦点の合った様な合わない様な状態の金田の前に手を泳がせると、金田はやっと呼吸をし大きく噎せる。
「君は……っ」
「流石にここで現代の格好するのもちょっと抵抗があったので学生服にしたんですけど、やっぱりおかしかったですかね」聞いても返事はない。
咳き込んでいる、と言うよりか笑っている様にも見える。随分と苦しそうだが。
茅帆は気持ちを決めて深呼吸した。そういえば気持ちを決める時はいつも深呼吸をしている。悩んで淀んだ空気を入れ替える、無意識にそう考えたのだろうか。
「……金田さん、私。少しの間ですけど同士だと思ってくれたらって思うんです」
噎せてるのか結局分らないまま苦しそうに小刻みな呼吸を繰り返した金田は枕から顔を上げる。
「同士……」問いかける訳でもなし、ただ呼応するだけだ。
「金田さんだって一人で抱え込むの苦しいでしょ? 教えて貰った事はもしかして全てじゃないのかも知れない。でも……私、いる間は出来るだけ出来る事をする。だから金田さんも私を女性としてじゃなく、秘密を分け合った同士……っていうか仲間だと思ってくれたらなって思うんです。その決意では無いんですが、学生服パターンを用意して見ました」
「パターン……」
金田は再度茅帆の言葉を機械の様に繰り返すだけだ。
「あ、パターンとか明治時代じゃ通じないかな? バージョンって言うのもダメだし……」
ぶつくさと考えているとベッドがぎしりと軋んだ。茅帆はベッド上で正座していた為に揃った膝から顔を上げる。
視線が合った。
「君は、僕が勝手だと言って居た」
「それは今でも思ってる。でも聞いた以上放っては置けない」
「君は、帰るのだろう」
「帰ります、でも直ぐじゃない。私には本の意味を解くのに金田さんの力が必要なんです。お願いします、手伝って下さい。その代わりと言ってはなんですが、私がここにいる間は一人で苦しむんじゃなくて一緒に千紗さんの事を考えて行きましょうよ。出来る事はします。私だって乗りかかった船ですから」
胸を張って拳で強く叩くと、金田は堪え切れない様に噴き出してそのまま咳き込んだ。枕に又顔を埋め「君が言うと緊張感が皆無だな」と毒舌を吐く。
「狡い手口で人を引き留めようとする人よりマシですよ」茅帆は毒舌で言い返してみせた。
「だから、ね。今は本を読まずゆっくり休んで熱を下げちゃって下さい。スッキリしたらまた一緒に運命と戦いましょう?」
幼子に言い聞かせているみたいだ。そう思いながら茅帆は枕に顔を埋めたままの金田に言い聞かす。
頑なに本を読み解くのを止めようとしなかった金田は重い瞼を落とし、寝息を立てるのに五分もかからなかった。
眠る寸前に朦朧とする意識の中枕に顔を埋めて金田が囁く。それは謝罪の言葉の様に聞こえた。
その後、一週間に一度のタイミングで本郷区千駄木町の桐野宅に行くことで話がついた。
何しろ忙しい金田だ。突然頻繁に訪れる様になれば向こうも警戒するだろう。そもそも今まではきかない薬で誤魔化して来たのだから有効な記憶媒体を持つ茅帆がいるならばそれで十分だろう。そう言い出したのは金田の方だ。
地図の印は直ぐにまた銀座の街中で見つかった。まだ他にもありそうだが古めかしい地図に書かれた印は薄く磨耗していて慎重に読み解かねば見逃しそうだ。
「暫くは東京散歩だな」そう金田が言うので茅帆は着物の袖を肘まで捲り上げて「呑気ですね」と返す。はしたないとばかりに振り返る金田の視線が痛いが、こちらは何せキャミソールでも闊歩できる現代から来たのだ。それ位は気にしない。
だからわざと裾を蹴飛ばして見せた。大きな溜息が背中向こうから聞こえた。