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(あ、煙草の匂い)
灰皿に溜まる捻じ込められた吸い終えた煙草殼。
ただ煙いだけで大嫌いだった煙草の嫌悪感が薄らいだのはつい最近の事だ。
彼が帰ってしまった後、部屋に濃密に残る気配はいつも煙草からだった。灰皿を見る度に先程まで会って睦み合っていたというのに切なさで胸が軋む。思えばその時から、茅帆はもう遠くはない別れを予感していたのかもしれない。
惜しみなく愛情を捧げるから何でもするからどうか、一人にしないで。
しがみ付くのは愛しさからだったのか、もう長い事乾き過ぎて考えるのを放棄していた。
誰にも求められない自分には価値がない。その恐怖からか理由を考えまいとして拠り所を求め縋り付く。それでも離れて行く彼を茅帆はどうすることも出来ずにただ、足掻いていた。
無条件で誰かが自分を愛してくれる、そんな_____夢を見た。
「目覚めたかね」目覚めると美丈夫。ティーカップとソーサーを持ち聞いて来る。
茅帆は重い体を床から起こし目を擦った。
深い飴色の書棚。クリーム色の模様の入った壁紙と臙脂の絨毯、視線の先によく磨かれた革靴。
見慣れない部屋だ。そう、一瞬思ったけれどそういえば先程霊体でこちらに降臨していた事を思い出した。不思議な現象は継続中らしい。
背中から寒気が忍び寄り小さくくしゃみをした。体が妙に冷えている。と、カップに視線を落としたままで金田は肩を竦める。
「春とは云え未だ冷えるから一応暖める物をとは思ったのだが…何せ君の体が霊体なもので全てが擦り抜けて意味を為さないのだよ」
ほれ。指差された茅帆の体の下には金田の上着が腰の辺りで丸まっていた。擦り抜けるのは理解したとして、この丸まり様は成る程近付かずに掛けようとして投網宜しく投げ込んだ残骸といった所か。
(仕方ないよね、こっちはこういう体なんだし…寒いけど)
一応努力は見られるということで突っ込むのは止めておく。
上質そうな生地の上着から微かに鼻を擽る煙草の匂いがした。先程夢現で思い出していたのはこの所為だったのだろう。
腰を避けて、上着を取り出そうとするものの上手くいかなかった。握った感触はしても茅帆の干渉はこちらには及ばないのかもしれない。一瞬の感触のみで指はそこに留まってしまう。まるで薄い壁がある様だ。
「構わない。其処に放置して置いて呉れ」
仕方ない、言葉に甘えることにしよう。丸まった上着の横に茅帆は身を正す。
「…私、どれくらい寝ていたんでしょうか?」
暗転する前から然程窓外に変化があるようには思えない。空に少し雲が増えた様に見える位で開いた隙間から滑り込む新緑混じる風も変わらず爽やかだ。
本で見た通りだとしたならば、今いるこの時代は明治四十年。
今はこの屋敷しか見ていないものの、一歩外に出ればどのような景色が広がっていると云うのか。高校時代の授業を思い返してみても、決して良い生徒とは言えなかった茅帆の知識では思い出せるものは限り無く少ない。
頭を抱えた茅帆に呆れた声が降って来た。
「丸一日だ」
「えっ?」
「君は僕の屋敷の書斎で丸一日転がって居たのだよ」それは、随分と盛大に眠りこけたものだ。
「家の者に試したのだが矢張り君は僕以外には見え無いらしい。為らばと安心して放置させて貰ったが、仕事に向かい戻って来ても眠りこけ……朝に成り流石に此処に来たら消えて居るのかと思いきや、変わらず床に転がって居ると云う。君を起こすの為らば銃弾でも打ち込まないと無理だろうよ。実に豪胆な女性だ、驚嘆に値する」
かちゃり、ソーサーにカップを置く音が響く。
「…重ね重ね申し訳ゴザイマセン」
(深読みしなくても分かる。厭味を言われてるな、これ)
確かに床に妙齢の女性、しかも霊体が一日中転がっているのを見るのは流石に気持ちのいいものではないだろう。いくら本人が不本意だったとはいえ。
窓外で小鳥が愛らしく囀った。
どこの時代でも鳥の鳴き声は同じだ。当たり前の事に茅帆は安堵する。安堵しながら足元の不安定さに心のずっと奥底で不安が付きまとう。目の前の男にも聞けない。恐らく誰も答えを知らないから。
帰る事は、出来るのだろうか。
目の前にいる唯一この時代で出会った金田は友好的ではない。何せ起きてからと云うものここまでスムーズに会話出来ているように見えるが実は一度も視線は合っていないのだ。
余りにも自然すぎる仕草で距離を取られ、目を背けられている。恐らく手にしたカップとソーサーはその小道具に違いない。
しかしそれでも、今の茅帆には目の前の金田しかいない。まずは最大の条件としてこの半透明な体を見ることが出来る人間がこの時代にいなくては、帰る以前に一歩も進めない。
なんとか協力を、勝ち取らなくては。
「あの__」
「何故選りに選って僕なのだ」
言いかけた台詞は重ねた言葉で以って途切れた。
(……ごもっともなご意見です)
降臨、やたらと神々しい表現だがその場所に何か理由があるとは思えない。面倒事を押し付けられた金田の気持ちは分からないでも無かった。逆に茅帆がそう言う立場になったとしても多分諸手を挙げて協力体制、とはならないだろうから。
聞こえよがしの嘆息がもし目に見えるものだったならば随分と細く長いに違いない。
ちらりと申し訳程度に視線がこちらへと向く。しかし合ったと思ったのも一瞬で、すぐにそれは逸らされてしまった。
「見た所、君も何故此処に来て仕舞ったのか理解出来かねると云った様子だな。然し正直な処、僕は君の助手に相応しいとは思えない。薄々察して居るとは思うが僕は女性が苦手なのだよ」
「……はい、薄々察してはいました」薄々どころか寧ろあからさま過ぎだ、とは言えない。
「思うに君は僕に取り憑いている訳では無いようだ。僕が君を置いて屋敷を出ても君は此処にずっと居た、沿うだね」
「多分、そうなんだと…」しかしすっかり寝こけていたのだから確信はないのだけれど。茅帆は語尾を濁した。
ソーサーを置く音が聞こえ、茅帆は俯いた顔を上げる。
机の上に置かれたソーサーに代わり金田の手にはあの古地図が載っている小さな本があった。長い指先で彼は数枚捲り、直ぐに表紙を閉じてしまう。手のひらに軽く音を立てて乗せると「君が取り憑いて居るのは此れだろう。試しに____」
背中を向けた。
金田が開いた窓枠から本を持ったその手を外へと突き出したその瞬間、茅帆の体は勢い良く正座していた床から窓際まで引き摺り込まれる。茅帆の喉奥から短い悲鳴が漏れた。
「_____っ。えっ? 嘘っ!」
悲鳴もそこそこに金田が本を持った腕を部屋の中へと引き戻す。
次は仰け反るように机に顔を強打し、茅帆は潰れた蛙宜しく鈍い呻き声をあげた。痛みに悶絶しながら茅帆は霊体で在る筈なのに擦り抜けなかった事に顔を顰める。
額を押さえ呻きながら、机にしがみ付き金田を睨んだ。
「ワザとですね」
視線を背けたままではあるが金田は「昨日の仕返しだよ君」とくつくつ笑う。「まあ此処までだとは僕も予想して居なかったがね。部屋中の移動は問題無いが一歩でも本が外に出ると引き摺られる、と」本をこちらに放り投げて来た。
茅帆はわたわたと手を出し、本を受け止める。
どうやら幾つか条件を持って茅帆の物への干渉は長く可能らしい。例えば部屋の内部、机や壁。あとは共に現れた本なども干渉可能な様だ。
(机の角にも頭をぶつけられる位だし……)
実に中途半端な霊体だ。
「今のを見る限り君の因縁は其の本の中、と云う事だろう。寧ろ其れが本体とも云えるのやも知れないな。為らば此の部屋を使っても構わないからさっさと其れを読み砕き成仏し給え」
「あのお手伝いとかは…ちょっとで……良いんですけど」引け目からつい語尾が小さくなる。
「………」
(ああ、沈黙が重い)
黙りこくる事、数分。実際はそれ以上に感じた重い時間だ。
何度か言い澱み、宛ら説明する言葉を選んでいるのかの様だった。金田が尻を書斎机に預けたまま重い口を開く。
「少し…気に成って居る事が在るのだ。確証は無いのだが君の生きて来た世界は明治時代よりもずっと先の世なのだろう。違うかね」
初めて視線が合った。薄い色合いの瞳は春風そよぐ書斎の中で複雑な感情に揺れ、茅帆の心の奥底を見透す。だからだろうか、茅帆は反発する事なく素直にそれに頷いた。