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「ひいええああああ」
突然の悲鳴に茅帆だって驚いた。次いで聞こえて来た重厚な椅子が床に倒れる音はまだ絨毯があるからマシだったとして、腰掛けていた人間が転がり落ちた上壁沿いの書棚に頭を強打する音は流石に頂けない。思わず肩を竦めてしまう。
鈍い音の後書棚の本が数冊、転がった男の顔の上によりによって背表紙側から落ちた。聞いた事はなかったけれど多分蛙が潰れた様な声ってのはこういう声を指すのだろうな、と納得出来る呻きが聞こえて来ると流石に自分のせいかもしれないのだから放ってはおけなかった。
「あの……___っ、っと」
気遣いで身を乗り出せば体が揺らいで、驚いた。
慌てて仰け反って体を戻して見ると、茅帆が座っている場所は何故か机なのだ。
書類が所狭しと並ぶ上に丁寧に正座をしているせいで身を乗り出すと直ぐに机の端から膝が出てしまう。つい先程まで公園にグダを巻いていた茅帆は突然こちらの机上に現れたらしい。
茅帆は驚くを超越して呆然としているが、成る程この状況なら床に転がる迄に男が驚く訳だ。
事態を把握しようと周囲を見渡した。茅帆のリビングルーム並の広さの部屋だ。しかしここはリビングルームとも寝室とも言い難い。表現するならば部屋は書斎に近いだろう。大きな机と沢山の書棚。若しくは図書室だ。
飴色の家具は茅帆のよく知る大量量販店の家具屋で売っている様なものと違い、縁に飾り彫りがありアンティークショップなどで売られているものに近い。体を支えようと指を置いた机上にはインク瓶とペンが、膝に敷いた書類は乱雑な文字が並ぶが決して日本語ではなく、筆記体の英語に見えるが学の乏しい茅帆には読めなかった。
壁はクリーム色、書棚が壁に所狭しと並び落ち着いた色合いの背表紙が隙間無く棚を埋めている。
背中を振り返れば頬に柔らかな風が触れた。
格子の入った窓はうっすらと開いている。その隙間から優しく穏やかな春風が滑り込んでいる。重めの生地で出来たカーテンは縁に金色の飾りが付いていて、その微かな風で揺らぐ。腰壁の上にある窓向こうが決して見える訳では無いのに、茅帆には春風だと断定出来るのだ。
(だって、若い緑の匂いがする)
芽吹く新緑、微かに混じる花の匂い。風は花冷えを過ぎてそよ風、梅雨前なので湿気を帯びず空は夏程に強い青ではない。かつてここまで四季を濃密に感じた事があっただろうか。
茅帆は頬を風に撫でられる感触に瞼を閉じた。あれだけ四季が明確な国に住みながら、風を感じ草木の匂いを嗅いだ覚えがとんと無かった。空は四角い窓に切り取られ、最近の空の記憶は暗夜だけだ。しかも星を眺める程気持ちに余裕があった事がない。
(だって会えるのは夜だけだったから)
呼び出されれば直ぐに会いに行った。だからいつも自主的に出掛けるのは夜、しかも深夜だった。自堕落に夜を過ごす。だからこそ清々しい筈の朝日を見るのは苦痛だった。生気を抜き取られた人形みたいな気持ちで、いつも。
深呼吸をして思い切り肺に空気を送り込む。手足に絡み付いた糸が一本ずつ消える音がする。
その新鮮さに夢中になって、机下で転がる男のことを忘れていた。
「君は」
声を掛けられてやっと思い出す。
「……何なのだい」
きっと多分、恐らくそう言ったのだろう。自信がないのは物凄い震え声の所為で語尾が殆ど聞こえていなかったから。床に転がり腰の辺りには散乱した分厚い本を放置したまま、男は辛うじて身を守るかの様に両腕で自分の顔を覆い隠している。
(誰、じゃなくて何)
シャツの隙間から見える片目が恐らく突然現れた茅帆を伺っている。その視線は異常に怯えていた。
茅帆は正座をしたままの自分を見下ろす。不思議な程に冷静なのが逆に可笑しい。目の前に自分よりも狼狽している男がいるからだろうか。
先程まで着ていたコートと似合わないブランドニットは着物になっている。確か着物なんて成人式に着た以来だ。
ベンチで仰け反って飲んでいた缶チューハイは手には無く、正座をした茅帆の足上に並んだ手の下には小さな本があった。下ろしていた髪は耳上で結い上げられて、爪に塗っていた濃い目のマニキュアは影も形も無く、桜貝の様な小さな爪が磨かれて並ぶ。
小さな本を数枚捲ってみたが、どうやら地図の様だ。が、並ぶ文字と色合いから現代の地図では無いと断定出来る。
トリップ、そんな物語の様な言葉が脳裏を過ぎった。迎えに来るかもしれない車から逃げたいと一瞬でも思った。確かにそれは思ったけれど。
(まさかこんな展開になるなんて想像できる訳ないじゃん)
困惑した視線を男に向けると、別に取って食おうとしてる訳ではないのに彼は尻で後退り逃げて行った。両腕が羽ばたいている。お化けじゃ無いんだから、そう思った。
「そ、其の様な眼で見るのは止め給え。僕には何も出来ない」
部屋の入り口まで逃げてしまうと、もう茅帆の手が届かないと安心したのだろう。そこでやっと落ちた本の状態が気になったらしい。
犬の様に絨毯を這い肩甲骨をギリギリまで伸ばし指先で広がったままの本を拾い集めた。背表紙と中身を確認して折れも破れも無かったのか、安堵の表情を浮かべている。と、俯く男の額に前髪が流れ顎から上半分が茅帆にも見える様になった。
眉目秀麗、そんな辞書でしか見たことの無い言葉がしっくり来る。
彼氏がいる身で不本意だが綺麗な物を目にして思わず茅帆も動揺した。眼を見張ると上半身が起きてしまう。その微かな動きにも男は大袈裟に怯え、僅かな距離を求めて書斎の扉に背中を打ち付けるから激しい物音が鳴った。
余りの勢いに壁が揺れる。
「きききききき君、急に動くのは止め給えよ。如何云う積りで僕の家に出たのかは分から無いが、僕は君の成仏を手伝いする時間など無いのだ。助勢為らば他の暇な人間にでも頼めば良いだろう」
「成仏」茅帆がそう繰り返せば、男は答えるのも嫌そうにしかしそれでいて律儀に応えてくれる。
「何だ気付いて居ないのかね。君、下半身が透けて居るのだよ。ほれ、着物の藤の花が透けて居るだろう」
茅帆は視線を立膝をした足元に移す。と成る程、藤色の着物に描かれた白い藤の花を透かせて下に広がった書類が膝下にある。だから先程、紙に書かれた文字が見えたのだ。
(いや、お化けなんじゃん私。怯えられて当たり前だ)
窓を背中にしている茅帆の足元に男目線で見えるのは恐らく窓枠かカーテンというところだろう。
トリップというよりもあの寒空の中車が迎えに来ないで、飲みかけの缶チューハイを握ったまま公園で茅帆は凍死なんて最悪の事態になったのだろうか。それでこんな見知らぬ場所に紛れ込んだというのか。言わば、幽体離脱。幽霊の迷子。
しかしよりによってこの若い身で公園で缶チューハイ煽って凍死なんて今更悔やんでも悔やみきれない。
茅帆は途方に暮れた。
「……私、やっぱり幽霊になっちゃったんでしょうか?」
「聞くな。僕が知る訳無かろう」
先程までの弱気は何処へやら、あっさりと返事が戻って来た。
男は少し冷静さを取り戻したのか立ち上がると尻の埃を叩き落とし、数冊の本を書棚の隙間に戻した。乱れた前髪を後ろに撫で付けると、扉をノックする音に嘆息する。
「否、何でも無い。気にしなくて良い」
どうやら使用人があの激しい物音に気を遣い声を掛けたらしい。
「結構叫んでましたもんね」
「……君の所為だろう。黙り給え」
切り捨てられ、ぐうと茅帆は黙り込む。しかしこの間、一度も視線が合わないままだ。
茅帆は作業中の机上に正座をしているのも悪いと、膝を崩し片足を下ろした。が、途端に男は度を失い書斎扉に背中を叩き付ける。またも激しい物音。
「君突然動くのは止めて貰おう、止まり給え。____……否、本当に何でも無い。呼ぶ迄此方は気にしないで構わないから」先程までの主人の暴れっぷりに心配して、まだ使用人が扉の外で控えていた様だ。
足音が廊下を行き過ぎ、聞こえなくなった辺りで茅帆は声を掛ける。一応声のトーンを落とすのを心掛けた。
「でも何かされてた様ですし、私が机の上にいちゃ邪魔ですよね?」
「邪魔と云えば、君が此処に居るだけで充分過ぎる程に邪魔なのだ。状況が把握出来れば速やかに出て行って貰うのだから今は黙って其処に居たまえ」
「…はい」
とはいえ、片足だけを机から下ろしたままも何なので両足を降ろさせて貰う。一度、男はびくりと強張ったもののそれ以上茅帆に動く意思がないとやっと理解出来たらしく、着物の裾が乱れるのを直すまで静止したり大声を出すのは控えてはくれた。
(まあ、ずっと視線は合わないままですけどね)
「で、君は何方様かね。嗚呼、簡単で良い。此方も然程君の過去に突っ込む積もりも無いのでね」
「上條 茅帆です。気付いたらここにいたので____」
「では上條君、即刻此の家から出て行き給え。僕は君の小間使いには成れ無い。如何云う繋がりで僕を選んだのかは知らないが、まあ其れはもう関係無い。出て行くのは扉からでも其処の窓からでも結構だ」
取り付く島もない。
流石に茅帆も噛み付いた。
「状況を把握ってさっき言ったばっかりじゃないですか。私だって何も分からないのに!」
「だから動くなと言って居るだろう」
絨毯に足を下ろし踏み込むと、男は飛びずさり扉前から書棚の前へと走り込んだ。端麗な顔に汗が滲み唇が震えている。一瞬同情をしたものの茅帆だって追い詰められているのだから手段など選んではいられない。何せ自分がどこにいるのかすら把握出来ていないのだ。
「ここはどこなんですか。住所は?」
漫画では見た事があるけれど壁ドンなんて初めてした。しかも女性の身で男性に。後ろが透けるほどに曖昧な身である筈なのに、壁に付いた茅帆の手は激しい音を立てる。
「分かった、分かったから」男は密着した茅帆の体を押し退けようと手の平を突き出し、顔を大きく歪めた。
「ひいいいいいいいい」
突き出した男の手は茅帆の肩を突き抜けてしまった。着物向こうから出る男の腕に茅帆ですらぎょっとする。触られた感覚はない、その部分が揺れた様な曖昧な感覚だ。
「あれ、私は壁に触れられますが」
そう言って茅帆が男の突き出された腕に触れるとシャツの袖が指先に触れた。摘む事は出来ないものの感触はこちらにはあるようだ。
「触らないで呉れ」
「感覚がありますか?」
「無いけれど気持ちの好い物では無い。先ずは君、離れて呉れ」
摺り抜けようと思えば出来るのに、と思ったが流石にこんな扱いを受けて親切心も何も無い。敢えて茅帆も言わずにおいた。壁ドンの体勢は崩さぬままで「ダメです」とだけ応える。
下から覗き込んでも執拗に目を逸らされる。それでも片手を書棚に付いたままで黙り込んでいると、茅帆の頭上に嘆息が触れた。
「京橋区の明石町だ」
「え」
「此処の住所を知りたいのだろう。君が言ったのでは無いか。此処は京橋区明石町に在る僕の屋敷だ。名は金田 春樹と云う、此れで満足か。満足したなら出て行き給え」
あとから付け足された名前は半分も耳に入っていなかった。話を最後まで聞かずに茅帆は身を翻し、机上に置きっ放しにした本に飛び付く。その地図は茅帆のよく知る東京とは違い見慣れない地名が並んでいる。旧漢字の飛び交う中で京橋区を探した。
何ページか捲り、指先でその住所を辿ると索引を見て眼を見張る。
「明治四十年………今の中央区」
「__と、聞いて居るのかね。今直ぐに」
それから先の事は覚えていない。視界は意思に反して暗転してしまったのだから。