2:闇に堕ちた時
本編より遙か昔。
ノワールが、名もなき少年だった頃のこと。
どこにもなく、どこにもある空間——次元の狭間。
そこにぽつりと建つ屋敷の中、やけに広い部屋の中心。
1人の少年が、大の字になって大きく息を切らしていた。
「はっ……はあ……っ」
荒い息を零しながら、少年は悔しげに歯を食いしばっている。その頭上から、軽やかな声が降ってきた。
「なかなか保つようになってきたな」
「……っ、うる、さい」
言い返す声も息が続かない。そんな事実に、少年は歯噛みした。
模造刀を握る手に力を込める。震えるほどに握りしめる様子を見た声の主が、溜息をついて少年を覗き込んだ。
茶色の髪に水色の瞳。半年前、半ば強制的に少年を邸に招いた老人は、名をピエールと名乗り、少年に魔法と戦う術を教える師となった。
少年が乞うままに魔法の基礎と戦闘術の手ほどきをした後は、こうして毎日、武器を持って手合わせしている。が、これまで1度もまともに攻撃が入る事無く、床に転がるのは少年ばかり。
少年の体力が無くなるまで続く仕合だったが、その「体力が無くなって動けなくなる」、という事実そのものが少年のプライドを打ち砕いていた。
「何度も言うがな、弟子。——焦るな。急いては事をし損じるとは、お前さんの国の言葉だろうが」
「うる、さい……っ」
睨み付ける少年の瞳には、苛立ちと怒り、そして焦りが強く滲み出ている。それを見て取ったピエールが、また溜息をついた。
「……っ、そもそも……っ、なんで、あんたは、そんなにっ、涼しい顔、して、るんですかっ」
「あんたじゃなくてピエールだ。ちゃんと呼びなさい。……それこそ積み重ねた年月の差だ。お前さんだって、十分に強くなってきているよ」
「足りない!」
焦れたように叫んで、少年が頭をもたげる。けれど身体は起き上がらず、もがくことしか出来ない。その事にまた歯ぎしりして、少年は吐き捨てた。
「化け物を、倒す為には、まだ、全然、足りて、ないっ……。……っ、魔法だって、まともに、使えないのに!」
「……」
「強くなったって、倒せなきゃ、意味がねえ……っ」
「——これ、馬鹿弟子が」
「!?」
少年の目の前に星が散る。遅れて額に痛みが走り、デコピンをされたと気付く。
「敬語を使いなさいと言っただろうが。ペナルティー1回、食事でも作ってこい」
「……っ」
「返事は?」
「……はい」
「よし」
頷くと、ピエールはふいと顔を背けて歩き出した。
「とはいえまだ夕飯には早いからな。ちょいと休んでから作ればいいよ」
「……分かりました」
渋々返事をした少年に片手をあげ、ピエールが少年の視界から消えた。少年は身体の力を抜き、天井をぼんやりと眺める。
「……っつ」
じわじわと意識に上ってきた全身の痛みに、顔を顰める。何度も打ちのめされた痛みが、全身に残っていた。
「くそ……っ」
悔しい。何も出来ないままの自分が、悔しい。非力で、痛みに呻いて床に転がるばかりの自分が、何も変わっていなくて、情けない。
歯噛みして、それでも現実は変わらない。まずは現実から脱したくて、少年は目を閉じた。
意識して呼吸を繰り返す。ゆっくりと吸って、吐き出す。胸の中心に空気を送り込むような意識で深呼吸を続けると、全身の痛みがゆっくりと引いていくのが分かった。
最近気付いた、呼吸による体調の調整。痛みも疲れも、深呼吸1つでコントロール出来ると知ったのは、魔法の訓練の途中だった。魔力を練る感覚を理解しようと頑張るうちに、疲労感が消えるのが分かった。
……一番使えるようになりたい「魔法」は、全く使えないままだが。
「……っ」
ぎり、と奥歯が軋む。悔しさを押し込んで、軽くなった身体を確認してから慎重に起き上がった。痛みを堪えてキッチンへ向かう。
料理など、この邸に来るまで経験がなかった。残飯を漁り雨水を啜って生きてきたのだから当然だ。……それ以前の記憶は、ない。
だが、この邸についてある意味かなりの優先順位をもって、少年は割と必死に料理を覚えた。
なにせ。
「……何だこの茶色い物体……」
キッチンに付くなり鼻を付く刺激臭と飛び込んできた異様な物質に、少年はげんなりと溜息をつく。
そう、少年の師匠は、致命的に料理のセンスがなかった。そのくせ率先して作りたがるため、こうしてしょっちゅう劇物が生成される。
こちらの邸に半ば強制的に収容されて初めて口にした料理に意識を刈り取られた少年は、必要に駆られて最低限の調理技術を身に付けていた。
「それでもじじいのせいで不味いものしか出来ないってのがふざけてんだよな」
ぶつくさぼやきながら、異様な物質を廃棄してから新たに作り直す。が、そもそもの調味料が先程の物質に汚染されているのか、どんなに頑張っても「不味い」と言えるものしか作れない。
泥水よりはマシとはいえ、せめて原材料並みの味が欲しい。調理器具まで汚染されているから無理なのだが。
溜息をついて、少年は出来上がった食べ物をトレイに乗せて運ぶ。洋館式の屋敷に、少年の足音が響いた。
配膳を終え、師匠を呼ぼうと首を巡らせた少年は、視界に飛び込んできた姿にびくりと肩を震わせる。
「……師匠。真後ろで気配を殺すのはやめてください」
力量差が明らかな相手に、死角を取られるのは心臓に悪い。そう訴えるも、少年の師匠は表情を変えない。
「馬鹿弟子」
「何ですか」
「何のつもりだ」
「は?」
怪訝そうに少年が眉を顰める。何故、師が険しい表情を浮かべているのか。心当たりは全くなかった。
「言われた通り、食事を作っただけですが」
「儂はその前に、少し休めと言ったはずだぞ」
「……ええ。休んでから動きましたよ」
訓練での不甲斐ない自分を思い出して少し返答が遅れたが、少年の言葉に偽りの響きがないことくらい、この師匠にはお見通しだ。しかし、師匠の表情はますます険しくなった。
「ふむ、では無自覚にやっているのか?」
「……」
相手の言いたい事が分からない少年は、応対が面倒になった。そもそも真っ当な受け答えをすることそのものを訓練の1つとされているが、少年の心はそれには向いていない。
現に今も、師匠が何を考えているのか、何を問いかけようとしているのか、興味は少しも湧かない。ただ会話は維持するよう言われていたから答えただけで、問いかけの意図も分からないやり取りを続ける気は出なかった。
「……先に食べますよ」
何より、体が空腹を訴えている。本能に忠実になる事を決めた少年がそう言って椅子に座ろうとするより先、師匠に腕を掴まれた。
「……いい加減——」
うんざりして顔を上げようとした少年は、次の瞬間、平衡を失い床に突っ伏していた。
「……な、ん……っ」
声を上げた少年は、全身を襲った激痛に言葉を奪われる。悲鳴を呑み込み、ぎりと奥歯を噛み締める少年に、感情を排した師匠の声が降り注いだ。
「魔力制御のセンスは大したものだが、無理をする為に使えとは言うてない」
「は……っ、な、に」
「お前さんのそれはな。時間をかけて回復すべきものを、魔力を操って体の奥に押しやり、負担を後回しにしているだけに過ぎん。一時的には楽になっても、反動が来ればこの通りだ」
「……!」
床に立てた爪が嫌な音を立てる。痛みは次第に増してきており、少年は既に息も絶え絶えで反論も出来ない。
のたうち回ることも出来ずに苦しむ少年は、次第に意識が遠のくのを感じながら、師匠の言葉を聞いた。
「手っ取り早く安直な方法は、必ずこうして自分に跳ね返る。良く覚えておきなさい」
その言葉を最後に、少年の意識は深く沈んだ。
目を覚ましたのは、随分と後だったらしい。
「おはよう。数日ぶりの飯は胃に堪える、ゆっくり食べろ」
ベッド脇に控えていた師匠に言われ、記憶をたぐっていた少年は跳ね起きた。
「おお、元気だな」
「っ、クソじじいっ!」
込み上げる感情にまかせて、枕を投げつける。難なくはたき落とす師匠に対し、手当たり次第ものを投げつけていった。
「落ち着かんかい、馬鹿弟子」
「うるせえ!」
「こら——」
言葉遣いでも咎めようとしたらしい師匠の言葉を遮るように、用意されていた食事を叩き付ける。けたたましい音と撒き散らされる食物を余所に、少年は怒鳴りつけた。
「頼んでもない真似をしやがって! ふざけんな!」
「馬鹿弟子——」
「何が安直な方法だ! 魔法もまともに教えないくせに!!」
「……っ」
目を少し見開いた顔に、ますます怒りが込み上げる。少年はぎらぎらとした瞳で睨み据え、吐き捨てた。
「てめえに何が分かる……っ分かって堪るか!」
怒りも、憎しみも、焦りも、——失望も。
何一つ分かろうとせず、少年の行為を無駄と断じた老人が、許せなくて。
「てめえなんかに……これ以上、何も学ぶ事なんかない!」
温かな生活を与えるばかりで、求めるものを理解せず。温度差をもどかしく感じても、それでも重ねてきた努力すら否定されて。
そんな人物に、ほんの少しでも期待した自分が愚かだったと、そう吐き捨てて、少年は窓から飛び出した。
「……っ。ちくしょう……」
しばらく走り続けていた少年は、延々と変わらない光景に舌打ちをして立ち止まる。肩で息をし、額の汗を拭いながら、少年は行く先を睨み付けた。
「クソじじい……」
次元の狭間。
彼の師匠だけが管理出来る空間は、非力な少年が出られるものではない。説明は受けていたが、こうして体感するとまざまざと理解出来る。ここは、どこにも繋がっていない場なのだと。
「邪魔ばかりしやがって」
吐き捨てて、殺意を瞳に浮かべる。殺せない事くらい分かっているが、それでも殺したいと思ってしまうほど、憎しみが募っていた。
師匠への——では、ない。
「……殺してやるんだ」
惛い声が、少年の口から漏れる。
「必ず、殺してやる。……復讐するんだ」
年端も満たない少年が、深い憎悪を浮かべて吐き出す。
「その為には、何だってする」
出てくる時に咄嗟にひっ掴んだナイフを握りしめて、少年は怨嗟の声を上げた。
「あの吸血鬼を殺す為なら——何だって……!」
彼に手を差し伸べた師匠を、裏切っても。
全てを失う前に得ていた温かいもの全てを、捨て去っても。
過去を捨て、未来を擲ち、それでも唯一つと定めた、復讐の意志。
——それを、果たす為ならば。
「力を得る為なら……何だって捨ててやる……!!」
冥い色を宿した瞳で、憎しみに染まった声で、そう吐き出した、その時。
『——チカラガ、ホシイカ』
「!?」
おぞましい声が、応えた。
「誰——」
咄嗟に身構えて誰何しかけた少年が、絶句する。
『ヨイ、ニクシミダ』
そこにあったのは、闇より暗く、黒く、汚泥よりも淀んだナニカ。
この世に存在するありとあらゆる見にくいもの、汚いものをごちゃ混ぜにしたような、混沌とした、汚れたモノ。
少年に覆い被さるように広がる「それ」は蠢き、少年ににじり寄っていく。
形すらない「それ」は、確かに少年を「見下ろした」。
少年は、動かない。凍り付いたように、「それ」を見つめていた。
『ニクイノダロウ』
「——っ!」
愉しげな声に指摘され、少年の肩が跳ねた。
『ニクキアイテヲ、コロシタイノダロウ』
「っ、ぁ」
声が漏れる。今や少年の顔からは血の気が引き、目は大きく見開かれ、揺らいでいた。
「……っ」
じり、と足元の石が音を立てる。足に力が入り、独りでに動こうとしていた。
『オマエニハ、チカラヲエル、シカクガアル』
「し、かく……?」
『アア』
ニイ、と闇が「嗤う」。吸い寄せられるように、魅せられるように、己に引き寄せられる少年を、嗤う。
『チカラガ、ホシイノダロウ』
「……あ、あ」
少年の声が震えて。手が、ゆっくりと持ち上がった。闇に向けて、求めるように、伸ばされていく。
『オマエハ、ウマソウダ』
「……はは、は」
小さく、笑う声。
少年は、肩を震わせて、笑った。
「はは……ああ、憎いな」
笑いながら、言う。
「アイツが、憎い。アイツを殺すための力が、欲しい。力が、魔法が、欲しい欲しい欲しい……!」
闇が、嗤う。少年が、笑う。
『タイカハ、ヒトノココロ。ヘイオンダ』
「そんなもの、欲しくもない」
『マトモナ、ココロデハ、ウケイレラレナイ』
「もうとっくに、まともなんかじゃない」
『ソレデモ、イインダナ』
「ああ。それでも、だ」
嗤い顔のまま、少年は、闇に手を伸ばして。
『オマエノ「シ」ハ、ナントイウカナ』
「ぜってえ反対する。けど、かまわねえよ」
引き留めようとするだろう存在を、切り捨てる。
「早くしないと、駆けつけてきそうだな。さっさと寄越せ」
遠くから聞こえてきた足音にも、見向きもせず。
「あんたを受け入れる対価くらい、もう分かってる。それでも、だよ」
目が合った瞬間から、分かっていた。この異形を受け入れれば、もう二度と引き返せない。得るものは何なのか、失うものは何か。
「資格」を揃えた少年には、それを「識る」力は既に備わっていた。その意味も、人間を逸脱してしまうことも、理解出来るだけの頭はあった。その選択が、愚かであると判断するだけの知識もあった。
おそらくこの『資格』を、己の師匠は知っていた。知っていて、堕ちないように、時間がかかっても健全な魔法を身に付けられるよう、少年を導こうとしていたというのも。少年は、もう、気付いている。
そうと分かっていて、それでも。
否、だからこそ。
「それでも、必要なんだ」
唯一つと決めた『復讐』を、果たす為に。
「だから寄越せよ。その力。——俺に、仇を殺す力を、寄越せ」
『イイダロウ』
その日。
「……やめろっ馬鹿弟子——堕ちるな!」
「やだね、馬鹿師匠」
1人の少年が、闇に、堕ち。
「ぁあああああああっ!」
——復讐を誓う冥き鬼が、苦鳴の産声を上げた。
それから、僅か半年。
魔法士『スブラン・ノワール』という怪物が、僅か15にして幹部の椅子に座った。