9.5 覚悟
前回の続きです。
書くかどうか迷って、結局書きました。
「私があんたのおもちゃになってあげる。だから、修哉に手を出さないで」
その一言は、何の躊躇いもなく未彩の口から放たれた。
そして、修哉が必死に止めようとする抵抗なんて毛ほども気にせず、吸血鬼は未彩を餌とした上で二人を解放した。逃げたら街の人間全員殺す、そんな脅しを残して。
「どう、して……」
呆然と呟く修哉の顔は蒼白だ。茫然自失の一歩手前といった状態の彼を、未彩は青白い顔ながら懸命に自宅まで引っ張っていった。
「……未彩」
「お母さん……」
いなくなった事に気づいていたのだろう、玄関先で待ち構えていた未彩の母親は、未彩と修哉の様子を見て言葉を飲み込んだ。
「……いらっしゃい。修哉君は、シャワーを浴びておいでなさいな。未彩、案内したらこっちを手伝って」
「うん、分かった。いこ、修哉」
返事はなかった。未彩は放心して佇む修哉の手を引いて、風呂場へ連れて行く。
「服は洗濯機に入れてね。シャワー浴びたら、服も適当に棚からとっていいから」
そう言って修哉を風呂場へ押し込んでから、未彩は母親の元へ戻った。
「……お母さん」
「説明を」
言葉を選びかねた未彩に、未彩の母は冷静に促した。いつも通りの声に肩の力が抜ける。
「うん。あのね──」
見たものを、全てありのままに話した。
おそらく要領を得なくわかりにくいだろうそれを、母親は黙って聞いてくれた。
こっそり抜け出して、修哉の様子を見にいったこと。修哉が尋常でない様子で逃げてきたこと。修哉を追う吸血鬼に見つかったこと。──修哉を守るために、その吸血鬼の餌となったこと。
「……」
無言で息を呑んだ母親に、未彩は覚悟の決めた目を向けた。
「お母さん。私は、修哉を守る」
それは、幼い少女のする決意の重さではなかった。真っ直ぐな黒い眼差しに、母親は瞠目する。
「ごめん。でも私は弱いから、最期まで修哉を支えてあげるので精一杯だし、きっと親不孝なことになると思う。でも、修哉をこのまま一人にはしたくない。だから」
「分かりました」
ひどくあっさりと、母親は頷いた。面食らって押し黙る未彩に、母親は静かに笑った。滅多に見ない母の笑顔に、未彩はそんな場合でもないのに少し驚いてしまう。
「私は未彩の意思を尊重します」
「……ありがとう」
「そして、私たち家族もその決意に殉じます」
「え、え?」
今度は未彩が息を呑む番だった。母親は笑顔を消してまっすぐ未彩を見下ろした。
「念のため言っておきますが、未彩の決断に便乗しているわけではありませんよ。修哉がただ一人生き残ったのであれば、私達が守らなくては。未彩がそう思ったように、私もそう思った。それだけです」
「……」
言葉に見え隠れする覚悟に、未彩は推し黙る。巻き込んでしまった、と思うのは容易い。けれど、未彩は知っている。母親にとっても、修哉たち一家はとても大切な存在だ。父親相手の愛とは違う、けれど、とてもとても大事な思いだ。
そんな相手を一夜で失ってしまったという事実に、母親の手はきつく結ばれて白くなっていた。その上で告げられた言葉だ。
そう理解して、未彩は笑う。
「うん。ちゃんと、修哉を守ろうね、お母さん」
「ええ」
そんな未彩に、よくできましたとばかりに、母は目を細めた。
***
「修哉ー? まだお風呂?」
その後、なかなか戻ってこない修哉の様子を覗きに行った未彩は、水音しかしない浴室と、その割に冷え切った空気に嫌な予感を覚えて、とっさに扉を引き開ける。飛び込んできた光景に、思わず悲鳴をあげた。
「何してんの!?」
修哉は服を着たまましゃがみ込み、冷水のシャワーを浴び続けていた。とっさに浴室に踏み込み、自分も濡れるのを厭わずに未彩はシャワーを横にむける。栓を捻ってお湯を出しながら、修哉を揺さぶった。
「こんな時期に! 風邪ひくよ」
「……さい」
「服も脱いで、あったかいシャワー浴びて。お母さんが飲み物──」
「うるさい!!」
乱暴に手を振り払われて、未彩は立ち竦む。修哉が未彩に乱暴な真似をするのは、初めてだった。
冷水に張り付いた髪を振り払うように首を激しく振って、修哉は声を張り上げた。
「なんなんだよ……! 巻き込まれて、なのに、そんな、普通の顔で、俺を心配するみたいな!」
「修哉、私は」
「頼んでない!!」
それは、もはや悲鳴だった。
「庇ってなんて、守ってくれなんて、頼んでない! なんで逃げなかった、なんでっ、未彩まで……! 俺一人、俺だけが死ねば」
「ばか!!」
聞いていられないと、未彩は修哉の口を両手で塞いだ。そのまま額と額を合わせて、至近距離で見つめ合う。
「なんで、そんな自分ばっかり傷つけるの!? 修哉は何も悪くない!」
「っ、じゃあなんで」
「私のわがまま!」
修哉の今にも崩れそうだった瞳が丸くなる。きっと睨みつけて、未彩はキッパリ言った。
「あのまま二人揃って殺されるなんて嫌だったから、私が勝手にやったの! 文句ある!?」
「っあるに決まって」
「少なくとも、今から大人に相談して、どうにかする方法を探す時間はできたでしょ! あのまま殺されるよりマシよ!」
「俺が殺されてる間に逃げればよかっただろ!!」
「フザけんなバカ!」
「バカ!?」
「わたしが傷つくのが嫌だから自分は死んでいいとかほんとばか! 自分勝手! 修哉のあほ!」
「はあ!? だったらお前が勝手にやったことのほうがよっぽど──」
「二人とも」
ひんやりと冷気を漂わせる母の声に、未彩も修哉も同時に飛び上がった。
恐る恐る顔を向けた先、うっすらと笑うその目が全く笑っていないことに竦み上がる。
「風邪をひきに来たというのなら、今すぐ外に叩き出しますよ」
「ご、ごめんなさい……」
「……未彩のおか、……鈴、さん。あの、俺は、外に」
「それとも、そのまま二人で風呂に入りますか? その方が早いでしょう」
「え、それは別にいいけど」
「いいわけないだろ!!??」
修哉が先程とは異なる声を張り上げた。真っ白だった頬に、わずかに血の気が戻る。それを見た未彩の母親は、柔らかく笑う。
「ふふ。では、未彩が冷えてしまう前に、修哉さんはしっかり温まっていらっしゃい。未彩はこっちのタオルで拭きなさい」
「は、はい……」
「なんか私だけ雑ー……」
完全にペースを呑まれ、なんとも納得のいかない顔で二人は指示に従った。
***
そうして、修哉が未彩の家に身を寄せて、ひと月の時が流れた。
夜になると庭に姿を現す吸血鬼に、未彩は抵抗せず己の身に流れる血を差し出す。修哉は泣きそうな顔で、時にしがみついて止めようとしたけれど、未彩は譲らなかった。
「私にできることは全部する。修哉にだって止めさせないからね」
「……勝手なこと言うな。しんどいんだろ」
「母さんに増血メニューバリバリ作ってもらってるじゃん。甘党の修哉はケーキ食べてたら?」
「バカ言うな」
顔を顰めてそっぽを向く修哉の目元には、深い隈が刻まれていた。それを見た未彩も顔を顰める。
「修哉こそ、ちゃんと寝なってば。殺される前に体調崩しちゃうよ」
「お互い様」
意地の張り合いのような、時に喧嘩混じりのやり取りをしながら、二人は懸命に生きていた。
けれど、それが、吸血鬼の気まぐれが続くまでだということは、最初からわかっていたのだ。
満月の夜。その青い光を見た時に、未彩は、ふと悟った。
(ああ。私、きょう死ぬんだ)
小さく笑って、静かに布団から起き上がる。ベッドをすぐには用意できないからと、修哉と二人、布団を並べて寝ていた。その隣人が珍しく、悪夢で飛び起きることなく眠っているのを見て、未彩はそっとひたいに口付けた。
(どうか、このやさしくって、どうしようもないおばかさんが、笑って生きていけますように)
そんな、子どもらしからぬ祈りを捧げて、気づかれないよう、するりと布団を抜け出す。
庭に出る道を通ろうとして、誰かが廊下で倒れているのに気づく。息を止めて、未彩はその人陰に駆け寄った。
「……お父さん?」
妻と娘の決意を当たり前のように受け止めて、それでこそ僕たちの娘だと優しく頭を撫でて、深く頭を下げるばかりの修哉の肩を叩いて止めて、大丈夫だよと笑いかけた父親。
今日もケンカをする修哉と未彩に苦笑しながら、お土産のケーキを差し出してくれたのは、たった、数時間前だったのに。
不自然なほどに顔は綺麗なまま、首から下だけ車に轢かれたように、ぐちゃぐちゃになっている。
「……っ!!」
悲鳴がこぼれ落ちるのを両手で塞ぐ。その時やっと、あたり一面に漂う鉄錆の匂いに気づいた。
「あ……」
ノロノロと、震える手で、廊下からリビングへと続くドアに触れる。ドアノブには血がこびりついていた。きぃ、と音を立ててドアが開く。
「──よぉ。大寝坊だったな」
そう言って嗤う、吸血鬼の足元には、未彩の家族からできた、血溜まりが。
「……約束破るなんて、やっぱり人でなしだ」
「あったりまえだろ?」
そう言って手を伸ばしてきた吸血鬼に、未彩は抵抗しない。
「ねえ。こういうの、今際の言葉って言うんでしょ」
「あん?」
こんな大惨事が起きているすぐ近くで、二人揃って気づかずぐっすり寝ていた。多分、自分も修哉も、こんな悲劇を見ずにすむようにと、眠らされた。
だったら、修哉もいつ起き出してもおかしくない。その前に、と未彩は笑って告げる。
「──いつかあんたは、殺される。きっと修哉が、みんなの仇を討つんだ」
「は……ははははっ! はははははは!!」
体を折って哄笑する吸血鬼は、思い切り未彩を見下ろして嘲笑う。
「そんな未来が来るわけねーだろ、ばあか」
「来るよ。絶対来る」
「来ねえよ、ばかなガキだな。……ああでも、期待を持たせるだけ持たせて、絶望に突き落とした上で喰ってやるのも、悪くねえなあ」
その言葉を聞いた未彩は、己を殺そうと牙を伸ばす吸血鬼を、笑ったまま睨んでいた。
***
「なん、で」
笑いながら死んでいった未彩の亡骸──その、残骸。
それらを意味もなく集めた側に座り込んで、修哉は掠れた声で問うた。
「なんで」
自分のせいで死んだ彼女は、笑っていた。
「なんで」
あの吸血鬼は、自分だけを生き残らせた。
「なんで」
未彩の家族は、自分を追い出してくれなかった。
「なんで」
今、自分は、たった一人、死んでいない。
「なんで」
自分の周りの人は、殺されなければ、ならなかった。
「なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんでなんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで」
壊れたように呟いていた少年は、随分経ってから、別の言葉を漏らす。
「……あいつ、を」
ゆらり、と。顔を上げた少年の面差しは、このわずかな時間で、様変わりした。
表情が抜け落ち、目だけをギラつかせた少年は、低い掠れ声で紡ぐ。
「あいつを、殺す」
ゆっくりと手を伸ばして、未彩だったモノを掴んだ。
「力を。手に入れなければ。どんな方法でも良い、アイツを殺す力を。その為には、全部捨てる。余計なものはいらない。必要なのを手に入れるには、今あるものは邪魔だ。だから、捨てて、力を、アイツを殺す為の全てを、手に入れるんだ」
抑揚すらない言葉の羅列。
激情を塗り込めて、塗り込めて、限界まで憎しみを詰め込んだ声は、冷静にすら聞こえた。
「他のものは、もう、何もいらない」
自分の周りに、当たり前のように存在していたものは、こんなにあっさりと壊されてしまった。だから、もう、いらない。
「誰の許しもいらない」
他の何も顧みない生き方を叱ってくれる人は、皆、自分のせいで殺されてしまったから、赦しは生涯得られない。
得られていたものも、得られるはずだったものも、全てを手放して、この手に残すのは唯一つ。
「俺、は……復讐に、生きる」
それだけを、誓いにする。
ひとり、誓いを残して。少年は、手元のものに喰らい付いた。手も口も、真っ赤に染まる。無音の部屋に、水音が響いた。
やがて。赤く滴るものを乱暴に袖で拭って、少年は顔を顰める。
「……まっず」
齧り付いたそれを雑に投げ捨てて、少年は立ち上がった。