9:おわり、はじまった時
「修哉ー。修哉、ってばー!」
大声で名前を呼ぶ声に顔を顰めて、香宮修哉は木の枝から顔を覗かせた。
「うるさいよ。そんな大きな声じゃなくても聞こえるってば、未彩」
「よく言う。さっきからずっと呼んでたのに、反応なかったでしょう?」
腰に手を当てて少し呆れた表情を見せた未彩に、修哉はむっと唇を曲げる。図星を刺された時の仕草に、未彩はやれやれという顔をした。
「全くもう。最近修哉が本ばっかり、って修哉のお母さんも言ってたよ」
「宿題は済ませてるし、別にいいじゃん」
「──や──がいなくなってから、ずっとそうだって」
「……」
修哉はぷいと顔を背ける。その横顔に隠しきれない寂しさとやりきれない悲しさが浮かんでいるのを見て、未彩は一度唇を結んだ。
「修哉」
「うるさい」
「母さんが、ケーキあるから遊びにおいでって」
「……」
「食べて、うちでゲームでもしよ?」
そう言って未彩が差し出した手をしばらく見て、修哉はゆっくりと手を伸ばした。
***
ケーキとジュースを二人で分け合って食べた後、未彩が遠慮がちに尋ねる。
「お父さんとお母さん、最近忙しいの?」
視線を伏せて、修哉は頷いた。
「……叔母さん達がいなくなった分だけ、忙しいんだと思う」
「そっか……」
少し物言いたげに唇を開いた未彩は、けれど結局何も言わずに閉じる。それを横目で見て、修哉は目を伏せたまま続けた。
「一家で海外に行って、途中で飛行機事故に遭って、連絡が取れないって……そういうことなんだろ。……行方不明届? を出して7年は生きてることになるからっていうけど、でも、それってさ……」
それ以上は何も言えず、修哉はジュースを飲み干した。
「……だから、ちゃんと仕事を回せるようにって父さんも母さんも色々考えてるみたいだ。おれも、父さん達の仕事手伝うよって言ったんだけど、子供は学校行って勉強するのが仕事って言うから。せめて邪魔はしたくないし、本で時間潰してるんだよ」
「ねえ、それなんだけどさ。私の家で宿題とかして時間潰さない?」
そう言って、未彩が身を乗り出した。修哉が顔を上げて、戸惑ったように繰り返す。
「未彩の家で?」
「うん。宿題、教えてあげるよ?」
「……別にわかんないとこなんか、ないし」
お姉さんぶる未彩に、修哉は顔を顰めて反論する。
「そお? なんか、変なところで苦手あるってお母さん言ってたよ?」
「母さん……」
呻くような声にふふんと笑って、未彩は修哉の顔を覗き込んだ。
「私がそっちに遊びに行ってもいいけどさ。ゲーム機もうちの方がたくさんあるよ?」
「知ってる。……本を読む時以外ならいいよ」
「えー。じゃあ私にも本貸して」
「未彩が読むような本は読んでないと思う……」
あれこれと言い返しながらも、修哉の表情は少しだけ明るくなった。
***
「あ、いた」
「……また来た」
「もー、すぐそういうこと言う」
眉を持ち上げた未彩に肩をすくめて、修哉は木の枝から飛び降りる。
「ちょっと、危ないでしょ。飛び降りるのやめなよ」
「今更こんな程度で怪我しないって」
平然とそう言って、木の根元に置いていたバッグを手に取る。ランドセルを家に置いてから未彩の家に宿題と本を持ってやってくるのは半ば習慣と化しているが、その途中で修哉がいつも同じ木の上で読書をしているのも多くあることだった。
それに合わせて迎えに行く先が家ではなくこの木の根元に変わりつつある未彩が、それでも真っ直ぐ家に来るように言わないのは、修哉がそうしてしまう理由が分かっているからだ。
「……確かに、飛び降りるどころか木の枝から木の枝に飛び移ってたね」
「…………あれは、後で母さん達に怒られたから、もうしない」
「そりゃそうだよ、修哉落ちたじゃん……」
「軽々やってのけるから、俺でもいけると思ったんだよ……」
気まずげに目を逸らす様子に、未彩は困り半分に微笑んだ。
「──は、本当に運動神経良いよね」
「まあ……うん。あの勢いに付き合わされる方はたまったもんじゃなかったけど」
「私だって付き合わされたよ、学校で!」
「未彩は学年も違うのに、どうやって騒ぎを聞きつけてたんだよ……」
かつて共にこの山の中を駆け回って遊んだ少年が、また現れてくれないかと待っていると分かるから、未彩は何も言わないし、こうして憎まれ口を叩いても怒らない。
修哉の叔母一家が行方不明になって、一年が経とうとしていた。
「お父さんたち、少しは仕事落ち着いたみたい?」
「うん。仕事を割り振り直して、ちゃんとご飯は一緒に食べられるようになった」
「良かったね」
「やたら根掘り葉掘り学校のこととか聞いてくるけどな……」
「ふふっ」
言葉を交わしながら、二人は山を降りて行った。
***
その日の朝、未彩は出かけようとしていたところを、母親に止められた。
「未彩。今日は一日家にいなさい」
「え、お母さん? なんで?」
驚いて顔を上げる。表情のあまり出ない、日本人形のような整った顔をした小柄な母親は、淡々と未彩に告げた。
「警察から、不審者の連絡がありました。拳銃を持っているため、今日は全ての学校を臨時休校とし、大人もなるべく家で待機するようにと」
「え……」
物々しい空気を感じさせる言葉に、未彩は思わず息を呑む。少し眉を下げた母親は、声を少し和らげて告げる。
「大丈夫ですよ。警察の方々がきちんと対応してくださいますから。ただ、現場に野次馬が多いと思わぬ事故が起きかねないのでと、そういう話のようです。ですから、未彩も大人しくしていなさいね。昔のように、窓から脱出してはいけませんよ」
「お母さん! あれは私じゃなくて、遊びに来た修哉と──でしょ!」
顔を赤くして反論する未彩に悪戯げに微笑むと、母親は娘の頭をそっと撫でた。
「……お母さん?」
「いい子だから、くれぐれも大人しくしていなさいね。未彩の好きなシフォンケーキを焼きますから」
そう言って、母親は背を向けた。歩き出す母親の背中に何かを感じて、未彩は口を開く。が、何も思いつかずに閉じた。
部屋に戻って、ゲームに手を伸ばす。けれど、一人だと妙に楽しくない。先に宿題でもやってしまおうとランドセルに手を伸ばして、ふと気づく。
「修哉……」
修哉も家にいるのだろうか。彼は結構な夜更かしらしく、休日は昼過ぎまで眠っていることもそこそこあると、母親同士の会話で聞いた。そうすると、朝から忙しい両親から、家にいることを聞く前に、いつもの場所に本を読みに行ってしまってはいないだろうか。
そう、不安になった。
あるいはそれは、虫の知らせというものだったのかも、しれない。
「……」
そっと、足音が出ないように部屋を出て、階段を降りる。キッチンにいる母が忙しなく立ち働いているのを確認して、未彩はドアから滑り出るように家を出た。
いつもなら散歩や買い物に出る人がそれなりにいる通りが、しんと静まり返っている。なんとなく不気味さを覚えながら、未彩は人目につきにくい道を選んで小走りに進んだ。誰にも見つからずに山の中に入れた時には、思わずほっと息をつく。
まず、いつもの場所を覗いてみよう。そこに修哉がいれば、母からの言葉を伝えて家に戻らせる。いなければ家で引き止められているだろうから、すぐに引き返せば母に気づかれる前に戻れるだろう。
「帰りは窓からかな……」
ダメと言われた矢先だけれど、バレないためには丁度いいし、などとひとり呟いた未彩は、知らず小さく笑みを浮かべていた。
慣れた足取りで山を裏から登り、待ち合わせ場所のようなそこへと足を踏み入れる。木の上にも誰もいないのを見て、ほっと息を吐き出した。
「……」
顔をあげ、修哉の家の方向を見つめる。少しばかりじっと見つめてから、未彩がゆっくりと一歩踏み出した、その時。
ガサガサガサ! と大きな音が聞こえた。
枝をかき分けながら走るような荒い足音がだんだん近づいてくる。驚いて瞬いた未彩は、徐々に聞こえてくる悲鳴に近い喘鳴に息を呑む。
「修哉……?」
尋常でない慌ただしさに棒立ちになった未彩は、飛び込んできた修哉が浮かべている恐怖と絶望の表情に、言葉を失う。
「未彩っ……なんでっ……!?」
悲鳴のような調子はずれの声を出した修哉の頬に、服に、赤黒い雫がいくつも飛び散って。
「っ……修哉!?」
「だ、めだ……いや、だ、未彩、逃げろ……!」
悲痛な声を出して、修哉は駆け寄る未彩を押しやろうと、手を伸ばし──
「──へえ。これは面白えな」
残酷で、傲慢で、酷薄な声。
それを聞いた修哉の顔が、色を失う。
咄嗟に顔をあげた未彩は、息を止める。
赤あかとした瞳が、残虐さを隠しもせず未彩を品定めしていた。
全身には、修哉以上に赤黒いものが飛び散り──長い爪を持つ右手と、鋭い牙が伸びる口は、真っ赤に染まり切っている。左腕は根本からないが、全く気にした様子もなく平然と佇んでいる。
初めて見ても、未彩は嫌でも分かった。
これは、こんなものは、人なんかじゃない。
圧倒的な妖気の圧など分かりもしないのに、未彩はその場から一歩も動けなかった。
「なあ、選べよ」
ただ立ち尽くす二人を見下ろして、ソレは嗤った。
「二人揃って今すぐ死ぬか、一人が俺の餌になって俺が飽きるまで生き延びるか──さあ、どうする?」
そして、物語は終わり、始まった。