異変――どうしてこうなった!
休憩が終わったら、活動を再開させる。
沢を上に登れば登るほど、霧が深くなり、寒くなる。
吐く息も白い。
辺りには、冬に降った雪が残っていた。
下界は夏だというのに、なんてこった。
渓流はサラサラ流れているけれど、水しぶきを浴びただけで全身に鳥肌が立つ。
「ひえええ~、リスリス衛生兵、これ、渓流に落ちたら死にますね」
「確実に、死にます」
川は今にも凍りそうなほど、冷え切っているように見える。
ウルガスと川を眺め、戦々恐々としていた。
風も強くなり、外套は一番上のボタンまでしっかり閉じた。それでも、寒い。
「うう……アルブム襟巻が恋しいです」
「暖かそうですよね、アルブムチャンさん襟巻……」
ウルガスと二人、旧エヴァハルト伯爵邸にいるアルブムへ思いを馳せていた。
「おい、ちんたら歩いていないで、行くぞ!」
「は~い!」
隊長の怒号がとんできたので、私とウルガスは歩みを速めた。
沢の傾斜も険しくなっていく。
それにしても、本当に人が潜伏している場所なのか。
あまりにも自然豊かで、人が踏み込んだ形跡はない。
その疑問には、リーゼロッテが答えてくれた。
「何か、使役獣を従えている可能性があるわ」
なんでも、魔法使いは自身の魔力と引き換えに、獣や魔物、精霊に妖精などと契約することができるらしい。
幻獣の契約とは、また別の魔法なのだとか。
「幻獣との契約の違いは、強制力ね。魔力で、契約した生き物を操ることも可能なの」
「おお……」
なんて危険な魔法なのだろうか。
ガクブルと震えてしまう。……ってこれは、山の寒さかもしれないけれど。
体を摩って温めていたら、ベルリー副隊長が声をかけてくれる。
「リスリス衛生兵、大丈夫か?」
「はい、平気です。頑張ります」
まだまだ、先は長いのだ。
山頂までの道のりはさらに険しくなる。
懸崖――崖を軽く切り崩して道を造ったような、むちゃくちゃな傾斜が眼前に広がっていく。
「こ、これは――」
「あともうひと頑張りだ。頂上を目指すぞ!」
隊長はまだまだ元気だ。さらなる高みを目指すらしい。
ステラとアメリアは――元気だ。よかった。
リーゼロッテは、ちょっとダメそうな。
『クエクエ?』
『クウ!』
アメリアやステラが、背中に乗ってもいいよと言ってくれた。
非常に助かる。
「隊長! すみません。ちょっといいですか?」
「どうした?」
「少しキツいので、私とリーゼロッテと、他希望者に、幻獣に騎乗する許可をいただきたいのですが」
「許可する。ただし、乗るのは一名で、アメリアとステラ、交互に乗るようにしろ」
「わかりました」
アメリアとステラの負担を考えてのことだろう。
隊長の心遣いに感謝する。
これで、堂々とリーゼロッテに騎乗を勧めることができた。
「リーゼロッテ、よかったら、先に乗って移動してください」
「え、でも……」
「私は体力があるのが自慢ですから」
「そう? だったら、お言葉に甘えようかしら」
まず、鞍があるアメリアに乗ってもらった。
「アメリア、リーゼロッテのこと、よろしく頼みますね!」
『クエ~~』
小休憩を挟んで、活動再開となる。
かなり、霧が深くなった。
一番前を歩く隊長の姿が完全に見えなくなる。
「だったら、光球を作って目印にするわ」
リーゼロッテが魔法で、隊長がいる場所の目印を作ってくれた。
これで、わかりやすくなる。
途中、登っていた道がなくなり、川を横切る岩から岩へと跳び移らなければならなくなった。
川幅は、一メトルくらいだろうか。
第二部隊のみんなは、軽やかに飛び越えていく。
『クウクウ?』
ステラが私の顔を覗き込み、大丈夫かと心配してくれる。
「こ、このくらいの川幅、楽勝ですよ!」
私の返事を聞いたステラは、「そ、そう?」と言って、軽々と川を横切って行った。
みんなが、私を見ている。早く飛び越えなければ。
川の流れは速い。
ちょっと、強がっていたかもしれない。
息を大きく吸い込んで、吐く。ふわりと白い息が漂って、すぐに消えた。
岩の先端に立ち、飛び越えた先を見る。
渓谷に落ちた時のことを考えると、ゾッとした。
でも、やらなければ。
「メルちゃん!」
ここで、ザラさんが向こう側の岩に立ち、私に手を差し伸べてくれた。
その瞬間、私は岩を蹴った。
「――わっ!」
私って、案外跳躍力ないんだ。
跳んだ瞬間、あまりの勢いのなさに、焦ってしまう。
落ちる!!
そう思ったが、私の手を力強く掴んでくれる人がいた。ザラさんだ。
「ぎゃあ!」
「クッ!」
ザラさんの力で、向こう側まで引いてもらう。
私が全体重かけてしまったので、ザラさんもろとも転倒してしまった。
「ぎゃっ!」
岩肌となっている地面にぶつかる!
そう思っていたが、衝撃はない。ザラさんを、下敷きにしてしまったから。
それどころか――心配までしてくれた。
「メルちゃん、大丈夫!? 怪我していない?」
「はい、おかげさまで。ありがとうございました」
そして、すみませんと謝る。
「いいの。メルちゃんが無事だったら!」
「ザラさん……」
ザラさんと共に起き上がると、ザクザクと突き刺さるような隊長の視線がこちらに向いていた。
「リスリス、お前な! なんで、自分の跳ぶ力を把握していないんだ!」
「す、すみません」
次回から、アメリアとステラに頼ることを約束した。
そんなわけで、今度は私がステラに騎乗することにする。
リーゼロッテはガルさんと縄で結ばれ、登山の補助をしてもらうようだ。
一時間ほど登ると、開けた場所に出てくる。
もうすぐ、頂上なのか。
私はステラから降りて、歩くことにした。
さすがの隊長やガルさんも、表情に疲れが滲んでいた。
ここでいったん休もうかと、隊長が言いかけた瞬間、周囲の雰囲気がガラリと変わった。
霧がいきなり濃くなって、何も見えなくなる。
そして、ぐっと圧し潰されそうなほど、空気が重くなった。
「――うっ!」
声をあげたのは、リーゼロッテだ。ドサリと、倒れたような音だけが聞こえた。
「リーゼロッテ、どうかしたのですか?」
返事はない。
異変はそれだけではなかった。
キーン! という鼓膜を刺すような耳鳴りだけが聞こえる。
「隊長!」
「……」
「ベルリー副隊長!」
「……」
「ザラさん!」
「……」
「ガルさん!」
「……」
「ウルガス!」
「……」
誰も、返事をしない。アメリアや、ステラ、ニクスもだ。
依然として、霧が深く、周囲は何も見えない。
「い、いったい……何が……!?」
ガタガタと震える。
寒さからではない。恐怖を感じているからだ。
「――!!」
ここで、強い倦怠感と吐き気に襲われた。
空気が薄いからなのか。わからない。
立っていることができず、膝から崩れ落ちる。
「はあ、はあ、はあ、はあ…………」
しだいに、息苦しくなった。
今まで、どうやって息をしていたのか、わからなくなる。
他のみんなも、こんな状態になって倒れてしまったのか。
怖い、苦しい、気持ち悪い。
負の感情が、一気に押し寄せる。
私はここで死んでしまうのか?
そんな考えさえ、脳裏を過った。
しかし――。
すぐ近くから、ドコドコと何かを叩く物音が聞こえた。
これは……スラちゃん?
「スラ……ちゃん、です、か?」
問いかけると、ドコドコ音が強くなる。
スラちゃんは、意識があるようだ。
耳を澄まし、音の鳴る方向へと這うように移動した。
すると、スラちゃんとガルさんがいる場所へとたどり着く。
「ああ……ガルさん……」
ガルさんは、倒れていた。
手袋を外し、そっと口元へ手を持って行く。
はっはっと、息をしているのがわかった。ホッとしたけれど、いつもより吐く息が弱い。
「ど、どうして……?」
これは、いったい何事なのか?
唯一、スラちゃんは元気そうだけど。
何やら、出してくれと言わんばかりに、蓋をドコドコと叩く。
どうしようか迷ったが、何かを訴えているように見えたので、瓶の蓋を開いてあげた。
スラちゃんは勢いよく飛び出し、ニクスをドコドコ叩き出す。
「鞄の中の……物が、ほしいのです、か?」
スラちゃんはマルを作る。
「いったい、何を……」
いつもの身振り手振りで、私に意思を伝えてくれる。
スラちゃんが自身を変形させて作ったのは、丸い実のような物だった。
「え? 実……?」
木の実なんて持っていただろうか?
重たい腕を動かし、鞄の中を探る。
「――あ」
鞄の中で、丸い実を発見した。
それは、スラちゃんが作った、魔力を回復させる実であった。
「え……もしかして、これは、魔力を消費して、このような事態に?」
スラちゃんはマルを作る。
ということは、私達は魔法使いの術中にハマっているということになる。
実は、一つしかない。誰に与えたらいいのか。
隊長に与えたらいいのか。
それとも、近くにいるガルさんに?
迷っていたら、スラちゃんがちょうだいと言わんばかりに手を伸ばしてきた。
「スラちゃんに、ですか?」
任せなさいと、ドンと胸を叩く。
どうやら、作戦があるらしい。そのために、魔力が必要だと。
「……わかりました」
私はスラちゃんを信じ、魔力を固形化させた実を与えた。