――希望、マスタさん
マスタを呼ぶとはいったい!?
『メルゥの涙、飲んだらマスタ呼べるよ?』
「わ、私の涙……ですか?」
コメルヴの手のひらには、私の流した涙とおぼしきものがあった。
それはいいとして、マスタさんを呼ぶというのはどういう意味なのか。コメルヴに質問してみた。
「あの、マスタさんは……亡くなっているのでは?」
『マスタ、生きているよ。向こうの山にいる』
「へ!?」
コメルヴが天高く指したのは、村の近くにある山より向こう側にある山のようだ。
山頂は雲で隠れて見えないほど高い。
「あ、そう、だったのですね。私ったら、てっきり……」
『どうする? マスタだったら、あの魔物、倒せるよ』
コメルヴの指したほうには、巨大魔物が見えた。もう、村のすぐ近くまで迫っている。
こんな風に話をしている間にも、魔物が歩くことによって起こる地響きでグラグラと地面が揺れていた。
「コメルヴのマスタさんは、あの魔物が倒せるのですか?」
『うん』
ここで、アルブムが私を急かす。
『パンケーキノ娘ェ、早ク来テモラオウヨォ』
「え、ええ。そうですね」
そういえば、アルブムも前に侯爵様を呼んでいたような。
「治療も侯爵様を呼べばよかったんですね」
『イヤ、コノ距離ダッタラ無理ダヨ。ソレニ、アレハモウスルナッテ、怒ラレタカラ』
「そうだったのですね」
契約主を呼ぶ魔法は双方に負担がかかるらしい。
『ソレヨリモ、一刻モ早ク、来テモラワナキャ!!』
「え、ええ」
もしも、マスタさんの手を借りることができるのならば、この状況を打破できるかもしれない。
私はコメルヴに、お願いする。
「あの、マスタさんを、呼んでいただけますか?」
『うん、わかった』
そう言うと、コメルヴは手のひらにあった私の涙を飲み干す。
『んん!?』
コメルヴの体がカッと光り、天に向かって両手を掲げた。
そして、叫ぶ。
『マスタ~~~~!!』
巨大な魔法陣が、村の広場に浮かびあがる。眩しくって、目を閉じた。
ステラは怖くなったのか、私に身を寄せる。アルブムも、その場で高く跳び上がり、私の胸に飛び込んでくる。
肩からさげていた妖精鞄ニクスは『眩し、ねん!』と言っていた。
ニクスの目、どこにあるの?
そんなことは置いておいて!
光は収まらないが、コメルヴが『わ~い』と言い、前方に駆け行くような物音が聞こえた。
もしかして、マスタさんの召喚に成功したとか?
やっと、光が収まったので、目を開いたが――。
「ぎゃあ!!」
思わず叫んでしまった。
なぜかといったら、目の前に五メトルくらいの巨大な猪豚がいたから。
「マ、マスタさんって、人じゃない!?」
『ヒエエエエ!』
『クウ……』
アルブム、ステラと抱き合って慄く。
コメルヴはどこに行ったのか。姿は見えない。
「コ、コメルヴ、どこですか!?」
『メルゥ、ココだよ!』
返事があった。巨大猪豚の背後からだろうか。
ここでふと気付く。猪豚の額に大きな刀傷があることを。それに、この猪豚は息をしていない。
「えっ、ど、どういうことですか!?」
「それは私が聞きたいわ!!」
独り言のつもりだったのに、返事があってびっくりする。
しわがれた、おじいちゃんの声だった。
巨大猪豚の蔭より、誰かが出てきた。
それは――真っ黒い全身鎧だった。手のひらに、コメルヴがちょこんと座っている。
頭のてっぺんから爪先まで鎧で覆われていて、年齢などの情報はまったく不明だ。しかし、なんというか、すごい威圧感を感じる。
声からしておじいちゃんなのだろうが、背筋はピンとしていて鎧姿を見ただけでは年老いているようには見えない。
彼が、コメルヴの言っていたマスタさん、なのだろうか?
佇まいから、ただものではない感がひしひしと伝わってくる。
マスタさんはズンズンと大股で私に近付き、不機嫌な声で問いかけてきた。
「おい、ここはどこだ?」
「ジジルド村です」
「なぜ、このように荒れ果てている?」
「魔物の起こした地響きが原因で、このように」
さらに、その魔物が接近していることを告げた。
『マスタ、アレ、倒して!』
コメルヴがマスタさんに懇願してくれる。
私も、お願いしますと頼み込んだ。
「なぜ、私が倒さねばならん?」
「そ、それは……」
たしかに、突然呼び出してこんなことを願うなんて非常識だろう。
けれど、マスタさんの力を借りなければ、隊長達が死んでしまう。
「お願いします、どうか!」
「ん? お主、エルフか?」
「え、まあ」
「なぜ、人里に?」
話せば長いのですが……。一言で済ませられる、相応しい言葉があった。
「出稼ぎです」
「人里を嫌う、臆病なエルフ族が、か?」
「はい、貧乏で」
一瞬、時が止まったかのように静かになる。そのあと、マスタさんは大声で笑った。
散々笑ったあとで、感想が述べられる。
「難儀なことよ」
「ええ、まあ……」
ひゅうと、冷たい風が吹き抜ける。よりいっそう、虚しくなった。
しかしなぜ今、私の身の上話をしているのか。
話を魔物討伐に戻す。
「あの、私の仲間が、困っているんです」
「知らん。私は今、食事を取ろうとしていたのだ」
マスタさんが巨大猪豚を指差す。
なるほど。あれは食材だったのか。
ここで、ピンとくる。
「あの、私、食事を作っています。その間に、魔物討伐をしていただけないでしょうか?」
「食事、だと?」
自分から料理が得意ですとは言えない。調理器具や調味料が完璧ではないので、作れる物にも限りがある。
しかし、ここでコメルヴが助け船を出してくれた。
『メルゥの料理、おいし、よ! マスタ、おいしいの、食べたい、言ってたよね?』
「それは、まあ」
どうやら、山岳地帯で一人暮らしをしていたらしいマスタさんは、慣れない自炊を続けていたらしい。
その暮らしの中で、コメルヴに「おいしい物を食べたい」と漏らしていたようだ。それが、黄金蜂蜜探しに繋がっていたのだろう。
「お願いいたします。どうか、頼みを聞いていただけないでしょうか!? 仲間を救っていただくことはもちろんのことなのですが、これ以上、この地の村人達に悲しい思いをしてほしくなくて……!」
地面に両ひざを突き、懇願する。マスタさんの突き刺さるような視線が、私に向けられていた。
コメルヴも、マスタさんの手のひらの上で手と手を合わせ、お願いをしてくれる。
『マスタ、コメルヴからも、お願い。メルゥは、コメルヴ、助けてくれた、良いエルフだよ』
「むう!」
『アルブムチャンカラモ、オ願イ!!』
アルブムはマスタさんの前まで駆け寄り、平伏して頼み込む。
「な、なんだ、これは……。森の妖精族ではないか」
マスタさんはアルブムに驚いているようだった。
続けて、ステラもお願いに行く。
『クウ、クウクウ!』
人見知りで臆病なのに、初対面のマスタさんに接近するだけでも奇跡のようなことだろう。
「これは、黒銀狼か。人と共に行動するとは……」
最後に、もう一度私からお願いをする。
「おいしい食事を作りますので、どうか、お願いします!!」
「ふむ。そこまで言うのならば、仕方がない」
「あ、ありがとうございます!!」
よかった! みんなの願いが通じた!
さっそく、調理に取りかからなければならない。
しかし、ここで大変な問題に気付く。
「あ、あの猪豚は……」
「立派なものだろう? 先ほど仕留めたのだ」
猪豚は家畜肉として市場に出回っているが、野生種もいるらしい。こんな大きな個体は初めて見た。
「こ、これは、どのようにして調理すれば……?」
「ふむ。娘の細腕では難しいか。ならば」
マスタさんは、腰の剣をすらりと抜く。
「わっ、綺麗!」
驚いたことに、それは水晶でできた美しい剣だった。
刃の表面には呪文のようなものが描かれており、マスタさんはそれを指でなぞる。
呪文が発光し、魔法陣が猪豚の前に浮かんだ。
ここで、マスタさんが叫ぶ。
「――風よ、斬り裂け!!」
魔法陣より鎌のような風が発生し、猪豚を次々と切り刻んでいく。
皮を剥ぎ、肉を細かく切り分け、骨を断つ。
あっという間に、解体と肉の分別を終えてしまった。
肉が切り分けられたので、料理もしやすくなる。
「はあ……すごい!」
魔法をこんな風に使うなんて。
コメルヴがパチパチと手を叩くと、マスタさんは誇らしげに胸を張っていた。
どうやら、マスタさんは魔法剣士のようだ。
「エルフの娘、これで、調理ができるな?」
「あ、はい」
返事をした途端に、ドンという大きな地響きが起きる。
もう、すぐ近くまで巨大魔物が迫っていた。
「あ、あの、魔物が……! 早く、倒さないと……!」
「何を焦っている?」
「え、でも……」
焦る私に、マスタさんは平然とした様子で言った。
「あのような雑魚など、取るに足らぬ相手だ」
「へ?」
それよりもと、話しかけられる。
「エルフの娘、名は?」
「え、あ、メル・リスリスです」
「そうか。私は、シエル・アイスコレッタだ」
「え!?」
その言葉を最後に、マスタさん……ではなくて、シエルさんは風のように駆けて行く。
「コ、コメルヴのマスタさんって――!」
シエル・アイスコレッタ。
それは、私達が接触しようとしていた、セレディンティア国の大英雄様であった。