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天井裏

作者: alkalify

 



 サークルの飲み会で泥酔した僕は、帰宅するなり服だけ脱いで、シャワーも浴びず、ベッドに仰向けに倒れこんだ。視界に電灯が滲んで、それでも電気を消すのも億劫なくらい、酷く泥酔していた。

 ところがふと天井の隅の角に目がいってしまって、脳みそのどこかだけが執拗に覚醒し始め、そのどこかは、澱んだ記憶の底をサルベージして、ろくでもないゴミを掘り当てた。

 それは小学校に入って最初の担任が何かの折にクラスで話した怪談であった。細かい部分は経年劣化で修復不能だが、概要は次のものだ。


 ある日、今日の僕のように、寝ようと思ってベッドに仰向けになった人がいた。その人はふと目にした天井の隅の角が気になって眠れなくなってしまった。今日の僕のようにだ。

 じっとその角を見ていると、おかしい……黒い糸のようなものが、その角からす、す、と生まれ出てくる。その糸は次から次へ、次第に速度を上げて、部屋に降り積もってくる。止まらない……。起き出して逃げようと思うが、身体が金縛りにあって動けない。

 数日後、連絡の取れなくなったその人を心配して、友人がその部屋を訪ねる。すると、部屋中をびっしりと埋め尽くす大量の毛髪……その中に、人の姿はなかった。消えてしまったのだろうか。行方不明として処理された。


 荒唐無稽であり、怪談としての出来がどうかは分からないが、僕はこれを聞いて以来しばらく仰向けで眠れなくなった。天井の角の向こうに何やら近付いてはいけない領域があって、そこから何かがこっちを覗き込むようで怖かったのだ。


 荒唐無稽だからこそ恐ろしかったような気もするが、それ以上に語り部に理由があったのではないかと思う。


 その担任の教師は定年を控えた皺だらけの、瘠せて骨ばった猿のようなばあさんだった。ばあさんだったが、ある種の壮年の人に見られる類のあの得がたい親しみやすさなどとはおよそかけ離れた、ヒステリックですぐ手を上げる嫌な奴だったのだ。

 授業中に尿意を覚えてトイレに行きたいと訴えたが、何故授業の前に行っておかないのかと平手打ちを食らった上にトイレにも行かせてもらえず、その場に立ったままでいろと言われ、みんなの前で漏らしてしまったこともあった。でもそれをクラスメートからかわれたりすることはない。何故ならトイレに行かせないのはいつものことで、全く同じ目にあった生徒は僕の他にも何人もいたからだ。

 授業中の緊張感は、小学一年生にふさわしいとはとても思われないものだった。精神的にも未熟な年齢である。恐怖心で嘔吐してしまう生徒やしばらく学校へ来れなくなる生徒さえ一人や二人ではなかった。クラスには、その教師に対する敵愾心てきがいしんから共有された、妙な団結の雰囲気があったことを覚えている。

 息苦しい二年間を過ごした後、教師は定年退職し、僕らはようやくまともな小学校生活というもの与えられることになったのだが、その教師についての話はその後一切耳に入ることはなかった。先日実家に帰った折、その教師のことを姉から聞くまでは……。


 迷惑な徘徊ばあさんと成り果てて、近所では有名になっている、と姉は言った。

「ぶつぶつ何か言いながらね、しょっちゅうこの辺歩き回ってるのよ。深夜でもよ。それで警察が保護しにやってくるんだけど、汚い言葉で何かぎゃーぎゃー叫んだりしててね。そうそう、いっつもふりかけ持ってんの」

 と、姉はすっかり主婦然としたエプロン姿でキッチンに向かいながら言った。

「ふりかけって、あの食べるやつ?」

「そうそう。いつもふりかけ持って徘徊してんの。そんで時々それ食べてるの」

「ふりかけだけ食べないでしょ」

「ほんとに食べてんだって」

 姉は笑って、でも子供が心配だからねぇ、と小さく言った。


 そういえば、あの教師には、家族はいなかったのだろうか? 夫や子供は? 姉は聞けば知っているかもしれないが、特に聞いてみる気にはなれなかった。十年程前の時点ですでに皺だらけの猿のようだったあの教師が今どんな顔なのかは上手く想像できないが、腰を曲げ深夜の町を徘徊する、その姿はさぞ惨めな様子だろう。しかもその手にはふりかけが握られているのだ。全く同情する気持ちが湧いてこないのは、別に不思議でもなんでもない。小学生の僕がその姿を見れば、かわいそう、と思うかもしれないが、僕ももう子供ではなく、あの教師に対する恐怖心は確実に僕の人格形成に影を落としたし、そしてあの時あの教師は、自分の暴力が教え子たちの人格形成に影を落とすことをわかってあえてそうしていたのだということに、僕はもう気づいている。教え子にトラウマを植え付け、将来何か取り返しのつかない罪でも犯し、ワイドショーを賑わす、そんなことになれば、面白い。犯人が何故そんな凶悪犯罪に手を染めたのか、彼、あるいは彼女が育った環境に問題はなかったか、小学生時代の担任教師である自分のもとに記者が訪ねてくるような大それた犯罪であればなおよい。そうなれば、自分は言ってやるのだ。「○○さんは、真面目で優しく、誰からも愛される子でしたよ。いったい何があの子を変えてしまったんでしょうね……」


 自分だ!


 ハンカチを目許に添えながら、心で高笑いをする。自分が輝かしいものであったはずの子供の未来をぶち壊してやったんだ!


 ……そんな許されざる人間が、別に珍しくもないことを、僕はもう知っている。

 こいつ、今に我慢できなくなるぞ! という誰かの好奇の目が、ああ、もう我慢できないよ! と泣き叫びたかったあの日あの数分間と同じに、どこからか僕を覗いている、そんなふうな妄想が、まだ少しだけ僕を暗い気持ちにさせるのは事実だ。


 ふいに天井の角の方が、ぺりぺりと捲れた。そこから黒い猿がひょっこりと顔を出した。間違いなくあの教師だ。どうやら皺が飽和して顔面を暗く陰だらけさせてしまっているらしい。天井の向こうの世界からその真っ暗な顔を覗かせて、こそこそとこちらを伺っている。時々、同じように黒ずんだ手の人差し指をねぶって、湿しておいてから、小分けになったのりたまの袋にその指を突っ込んで、それをまた旨そうに嘗めた。

 同情する気はないよ、と僕は言った。

 教師は、まるでたった今初めてその存在に気づいたとでもいうように、大仰に目と口を開いた。白々しい。何のためにわざわざ昔の教え子の部屋の天井なんか捲って覗き込んだりするというのか。

「僕はあんたなんかの思い通りにはならないよ。実際、今の今まであんたの存在なんか忘れていたし、楽しいことが多すぎて、トラウマなんて残らなかった。僕は健全に育ったんだ。あんたとは別の世界にさ」

 奴の白々しい演技は無視して言ってやった。

 奴は心底ショックを受けたというように項垂れて、それからゆっくりと首を振った。ぼそぼそと何かを言ったが、声が小さくて聞こえない。

「先生、聞こえません。声がちっさくって……」

 何だか、心が挫けそうになる。でも同情してはいけない。

「……謝りたかった」と奴はのりたまの袋を握り締めて振り絞るような声を出した。ふりかけのカスがパラパラとフローリングに落ちた。「ずっと謝りたかった……」

 僕は頭の中でしっかりと言葉を選んだ。適格に、選ぶのだ。

「……で? つまり、ぼちぼち頭がいかれそうなので、綺麗な人間ぶって自分を騙してからいかれてしまいたいと? だめじゃないですか。先生は汚い人間なんだから、汚い場所に行かないと。その上卑怯者だったなんて、残念だな」

 同情してはいけないのだ……。

「おしっこ」と先生は唐突に言った。

「……は?」

「おしっこがね……どうしよもなくなったんで……おむつをはいて、教壇に、立ってたの……下半身から、なんだか、臭いような気が、するんですよぉ……みんなが、見てる気がするんでぇぇ……でも、おしっこなんてぇ、あなたたちも、するじゃないですかぁぁ……ぅぇ……ぅっ、ぅぇぇ……」

 先生は顔を覆って咽び泣いた。

 いけない。急にアンモニアの臭いが漂ってきた気がする。

「だから許せって? いけない。いけないです。それって、利己的な考えじゃないですか。先生は、もっと正しい人間でなくてはいけなかった。だって、先生なんだから……!」

 僕が振り切るような気持ちでそう言うと、先生は急に真顔になり、

「あっ、そう」

 と言ってどこか知れない、天井の向こう側の世界に身を引っ込めた。捲れていた天井もそれに続いて元に戻っていった。

 僕はもういい加減に眠ろうと思い、目を閉じた。

 すると少しして、上から水の注がれるような音がする……じょろり、じょろり、と、それは床に落ちてひたひたと跳ね返る様子だった。えらく切れが悪い。そっと目を開けると案の定、天井の角から尿と思しき液体が間欠的に注がれている。切れが悪いうえにえらく濁っていて色も濃い。尿は、細かい頻度ながら、着実に注がれて、ソファやベッドを濡らして、気味悪く僕の服にも滲んできた。テレビの脇のコンセントがパシッと爆ぜて、部屋の電気が消えた。

 暗闇の中、当然のように金縛りだった。

 あれよあれよという間に尿は嵩を増し、やがてとうとう僕は沈んでしまった。味も臭いも色もきつい、ありとあらゆる病原菌と悲しみと羞恥と自己嫌悪とをブレンドしたようなそれを、胃にも肺にもたっぷり満たして、僕は溺死した。



 翌朝目覚めると、もちろん部屋は尿に沈んでいたりしないし、僕が行方不明になっているようなこともない。考えるまでも無かった。だが、やはり今日のうちにでも、新しい部屋を探そうと思う。二日酔いで頭痛が酷く、口の中が酷く酸っぱくて戻しそうだ。

 そのうえ、何故かアンモニアのような臭いが鼻をつく。



 

 


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