魔人サウザード
扉を開くと、そこは白い空間だった。華やかな合唱がレコードから流れている。
真ん中にはテーブル。
出て来い、魔人。俺を試すなら試せばいい。意地でも屈服させてやる。
部屋には爽やかなライチの匂いが漂う。プギュム。あれ? 何か踏んだか?
「あにふるんでヤンスか~! 旦那~!」
空間の中央には丸い餅みたいな生き物が無限大の王冠をかぶって転がっていた。
お腹にはでかい絆創膏。片目には眼帯。手には指揮棒。
転がっていた丸餅は起き上ると俺を威嚇した。こいつからライチみたいな匂いがする。
俺はその弱そうな生き物をつまみあげた。ふんふん。
「お前、美味しそうだな」
俺の感想に生き物は泣きながら振り返った。
「旦那~、今日の旦那は酷いでヤンス。あっしは枯れ木のようなご老人に腹を刺されちまったんですよ! 痛いんでヤンスよ! それを踏むって何ですか! 何を考えているんでヤンスか? おつむがプリンでヤンスか? ナタデココでヤンスか!」
「ナタじゃない。ナイフだ。お前に刺さったのはナイフだ」
「痛いでヤンス……なんとかしてほしいでヤンス!」
魔人が転がりながら腹の絆創膏を示すので、俺は力いっぱい頭を抱えた。
「おい、皓人、やっぱりこの死にかけの丸餅みたいなのが魔人なのか?」
『あはは。魔人は見かけによらない生き物だ。はたして倒せるかな?』
俺は焦りを浮かべた。このまま。転送の海に投げ出されるのはごめんだ。あの中は磁気嵐になっていて、精神がまともな状態では戻っては来られない。
だが、こんな弱そうな奴を倒すのはもっと気が引ける……魔人は鼻を鳴らした。
「旦那、いつものように優しく、あっしに手をついて謝ってくださいまし。秋の旦那」
俺は沈黙した。どう言えばいいのだろう。
「俺は圭吾だ。名波圭吾……秋はこない。もう、こられない……永遠に」
ライチは目を震わせた。口をヘの字に曲げ、体を大きく逆立たせる。
「あああああああん、うわあぁぁぁん……ぁぁぁぁ、嘘だぁ……」
「本当だ……。秋はもう来ない。俺は……秋の双子の兄貴だ」
「うううう。信じるもんか、信じられるもんか! 秋の旦那は黙ってどこかに行ったりしない。この偽物ぉぉ! 秋の旦那を返せぇ!」
「理解してくれ。お前の旦那はもういない……いないんだ……どこにも」
「ああああああ」
魔人は怒りを胸に叫んだ。その体はどんどんとんでもない大きさに膨れ上がっていく。
「そんなの嫌だ! 偽物のお前を食って全部なかったことにしてやるぅぅぅぅ!」
魔人は空間いっぱいに広がった。物凄い勢いで俺に突撃する。はねられた。骨が軋む。俺は歯を喰いしばった。気が遠く……魔人は俺の髪を掴んで、ぶらぶらさせた。
「このぉぉぉ、嘘つきは食い殺すぅぅぅぞぉぉぉ!」
動けない。真っ赤な視界。どこもかしこも痛い。でもそれよりも、俺は巨大なライチを見上げた。魔人はボロボロ泣いていた、俺よりも悲しそうに。
「サウザード。俺を食うより、良い物をやる。これは人を幸せにする卵焼きだ」
荷物から弁当箱を取り出す。口に卵焼きを一切れ放り込むと、魔人はクシャクシャに顔をしかめた。
「うううう。卵がのどでとろとろ歌うでヤンス。幸せだぁ。秋の旦那の弁当の卵焼きだぁ。旦那の卵焼きだぁ。あっしが好きだった、大好きだった旦那の、卵焼きだぁぁぁ」
俺の頭にも大粒の涙のしずくがボトボト落ちてくる。
「俺が毎日作っていたんだ……俺の卵焼きだ……」
魔人は泣いた、泣き続けた。空間が水でいっぱいになった頃、魔人は呟いた。
「ねえ、あんた……。あんたはあっしに毎日、この卵焼きを焼いてくれますか?」
「お前が好きならいつでも焼いてやるよ」
膨れ上がった魔人の化身は水を飲み干しながら縮んでいく。
「あっしはサウザード。新しい旦那、ヨロシクでヤンス。開け、心臓!」
魔人が俺を招くと、そこにハンドルのある白い部屋が現れた。
「ここは異空間にある、あっしの心臓の中。必ず守ってくださいでヤンス」
ライチがフレームガリバーの中に溶けていく。俺は深呼吸した。
ローブを着た魔人、1番サウザードの目が開くのと、地獄の番犬がサウザードに襲いかかるのは同時だった。牙と爪が振り降ろされる。じじじ。
『地獄の番犬』の爪が、サウザードの顔を裂くと俺の頬にも傷が刻まれた。
黒い血が流れる。ちょっと待て。
「これじゃあ生身で戦っているのと変わらない。いや、それよりも、的が大きくなった分、弱点が増えてないか? フレームガリバーは身を守る鎧じゃないのか?」
ブオオオオオ。息を切らすサウザードの肩に、アストリアは立つ。
「フレームガリバーは貫通する宇宙服と同じです。酸素が無くても、紫外線の中でも戦えます。それが利点……」
「……それだけなのか?」
「魔人は験力の増幅装置。音楽で言うアンプです。魔人自体に攻撃力はありません」
フレームガリバーは見かけ倒しだった。俺は素早くハンドルを握る。
「アストリア、乗れ!」
闘牛士のように迫る牙をかわし、彼女は心臓の空間に滑り込み、唇を近づける。
俺は赤面して咳払いした。俺も、アストリアも、サウザードも、なるべく傷つけずに戦う。
「陛下、難攻不落のサウザードをねじ伏せたのですね」
「いや、ねじ伏せたって言うか、アストリア、この魔人は卵焼きで動くのか?」
弁当の蓋を開けると卵焼きはすべてなくなっていた。俺は絶句する。
「おしまいだ……! せっかく何とかなったと思ったのに!」
3Dフォンの向こうの皓人が身をよじってふきだす。
『あはは。愉快だね、圭吾くん。後ろを見てごらん』
アストリアは一生懸命、俺の弁当の玉子焼きをむさぼっていた。
「ホの機体は験力で動フのデス。卵焼きではありません」
「もっと上品に食べろ。無表情で食べるなよ! 色々落ち込むだろう?」
せっかくきれいな子なのに……俺はしばらく沈黙した。
「なんだって? 燃料が、験力だって?」
験力。山伏の神通力。科学の時代に神通力!
叫んだ俺を3Dフォンの向こうの皓人が笑う。
『そうだよ。その魔人は神通力と体力で動く。それにしても、あはは。魔人と悪魔を卵焼きで釣るなんて。くくく。まったくのアホですね~』
皓人がまだ笑っているので俺は頭にきた。後でプルンプルン卵焼きを、死ぬほど口に詰め込んでやる。アストリアは壊れそうになっているネルガルドのドームを見つめた。
「サポートをします。私がサウザードの呪歌を歌うから、陛下は武器を選択してください」
アストリアは操縦席の背後のコアに潜り込む。サウザードの手の中、大きなナイフが現れる。これなら心獣に近づかずにダメージを与えられそうだ。投げてやる。ブン投げてやる。それで終わりだ。
「武器を選択します。選択、ナイフ。天示す。星城の水の一振り」
「行くぞ!」
ナイフから流れ出た水は、鞭のように飛びだし、暴れ狂う地獄の番犬を二つに切り裂いた。
「やったのか?」
周りを見回すと俺たちのいるドームを、牛面の化け物がギッシリ囲んでいた。
「『地獄の番人』ゴズ多数……もうおしまいです。うふふ」
アストリアの抑揚のない奇妙な笑い声が耳をとらえる。
「これでよかったのです。これで私の尊敬する閣下の元へいけます。ふふふ」
彼女はこの危機にうっとりしているように小さく安堵した。
私は薪、死にたがりか……道理で何も怖くないはずだ。俺はおごそかに声を振り絞る。
「アストリア。お前が死ぬ日は俺が決める。だから、協力しろ!」
「馬鹿な人……」
俺は必死で辺りに聖水をまき散らす。雫は散弾銃のように心獣たちを傷つけていく。
化け物ども、倒れろ。倒れてくれ。
人間国宝になるんだ。ココミがずっと俺を守ってくれたように俺も君を。
視界が歪んで世界が薄らぐ。ダメだ。力がもう入らない。骨が軋む、筋肉が緩む。
「あなたも死ぬのですか……?」
アストリアの虚ろな声が胸に響かない。鉛のように、底に沈む。
『験力の限界だね。人間の限界だよ。憂鬱だね。鍛えていないからだ』
他人ごとのように呟く皓人の声は低く明瞭で、俺は重くなるまぶたをふさいだ。
腕一本、動かしただけなのにこの脱力感。俺は負けるのか。勝てないのか? 脆いのか? 壊れ者なのか……ぼんやりと目の前が明るくなる。フレームガリバーが磁気嵐の中を駆け抜ける。馬車に乗った魔人と、純白の翼を持った魔人が僕の目の前で暴れ始めている。それを視界に収めながら、俺はアストリアにもたれるように倒れ込んだ。