一か月後
一ヶ月後、春。
私立九重学園。生き残った箱庭のドームを九十九重の装備で護る……大企業保険屋アイギスの作った学校らしい重々しい名前だ。中高一貫校に、俺は転校生として今日からここに通う。この学校では転校生は珍しくない。保険屋と学校が癒着しないように部署が変わる事は、度々なのだそうだ。緊張した面持ちで校門をくぐる。
「よろしくお願いします。名波秋吾です」
俺は満面の笑顔でスクリーンボードの前に立っていた。
ほどよくひねくれた感覚を持つ俺の爽やかオーラにはわけがある。
昨日の事だ。アイギスの社宅に住み、トレーニングを始めた俺に相沢皓人は告げた。
「圭吾くん。ちょっと裏切り者を探してくれないかな? 気になる資料が見つかった。秋吾くんは誰かにはめられた可能性がある。ジョーカーをあぶり出してくれないかな」
「……どうすればいいんだよ」
「簡単だよ。秋吾くんのふりをすればいいんだ。君たちはそっくりだからね」
俺は鏡の前で一日訓練した邪気のない笑顔を振りまく。
「みなさん、仲良くしてください」
教室が静かにざわめく。
「おい、あいつ死んだはずじゃあ……」
「生きていたのかよ。気持ち悪い」
俺はまず自分の耳を疑った。どうしてだ? 秋が嫌われているなんて理解ができない。
「なんだよ……生きていちゃ悪いのかよ……」
俺は笑顔を消した。声を押し殺す俺の豹変に教室が鎮まりかえる。
「あいつ、今更なにを言っているんだよ」
「今度は何をたくらんでいるのかしら?」
なんだ? こいつらは……俺はひきつった笑い顔を浮かべた。
「あー。てめえらー、コノヤロー。どうぞよろしくお願いします」
乱暴と爽やかなセリフのコンビネーションに、教室の隅の少女が快活にふきだした。
「ふふふ。名波くん、今日は面白いね~」
彼女のツッコミにクラスメートの半分が明るい笑い声を立てた。
あれ? こいつらもしかして、秋の友達?
彼女は笑顔で手を振った。先生は笑った女子の隣の席に座るように促す。アストリアが妖精なら、彼女は太陽の娘だった。小動物のような目が不思議そうに俺を見つめる。指がぎこちなくペンを回す。視線はスクリーンをとらえているものの、俺に興味津津のようだった。アストリアがカスミ草なら。この子はヒメヒマワリだ。逆境も跳ねのけて、天を仰ぐ元気なヒマワリ……俺は開いている3Dパッドの前に座った。
「どうも、本当は名波圭吾です。そんな設定です。コノヤローが口癖という設定です。よろしく」
「私は長谷川比奈子だよ。なにとぞ、ご自愛のほどを」
「あ……こちらこそ……」
「冗談か何かなの? 今日は圭吾くん……でいいんだよね。どうしたの? あらたまっちゃって」
こんな場所、初めてだし、ココミ以外の女子としゃべるのは久しぶりで……。
「その、少し、き、緊張していて……」
「そ、そう? そんな事言うと、私も緊張してきたではないか」
彼女は小さく咳払いをした。差し出された右手。まぶしい笑顔がほころぶ。
「これからよろしく頼むね。圭吾くん!」
彼女が握りしめた俺の右手から破滅的な音がする。え? 痛い。痛いんだけど!
「おぉ、ごめん。私、サウザードのドクターをしているの。名波くんは今もヨギだよね」
「そうだよ。僕もできるだけ頑張るよ」
秋ならきっとそう言うはずだ。
「それで、比奈子。この教科書はどう使うの?」
「ここに電源があるのですぞ。ポチっとね! ふふふ、どうだ! まいったか!」
「長谷川さん、静かに」
鬼教師が目くじらを立てる。比奈子は静かに俺の方を向いて笑った。
裏切り者は沢山いるのかもしれない。一匹見つけたら、きっと三十匹くらい。
どいつもこいつも怪しく見えるが、さっき笑った奴らは白だ。理由は簡単。秋を嫌っていない人間が、秋吾に罠をかける必要がまるでないからだ。後は一人ずつ当たるしかない。見つけ出して、手当たり次第、ぶん殴ってやりたい。一か月鍛えた俺はまだ、虚弱だけど。なんとかなりそうな予感がした。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
長谷川比奈子は圭吾の隣で大きく下を向いた。嬉しくて。
名波くんが帰ってきた。本当に帰って来たんだ。良かった。良かったね。
力を入れすぎて私は自分の教科書を握りつぶした。
「あ……」
壊れた……。名波くんはさりげなく自分の教科書を私に差し出す。
「一緒に見る?」
名波くんは変わっていなかった。相変わらず日向の小犬みたいに素直で優しい。
全然、変わらない。変わらなくてよかったね。本当に良かったよ~。
でも、どうして改名したの? どうして前よりギャグセンスがあるのかな?
そうだ、姓名判断だね。画数が物凄く悪かったんだね。開運なのだね!
わかる~。わかるよ~。うんうん。やっぱり占いは大事だよね。
我に帰った比奈子は首をかしげた。隣からおいしそうな匂いがする。
視線を移すと名波圭吾は弁当を口にしていた。
顔を真っ赤にして滅茶苦茶にほおばっている。
ちょっと、駄目だよ。今食べたら、先生に叱られるよ! なんとかしないと。
フォローするのよ、比奈子。
「ふはは。こ、この弁当は私がいただく! 名波くん、君は勉強したまえ~!」
先生は弁当を必死で掴みあう私と名波くんを教科書でしばいた。
「ふぐっ!」
名波くんは椅子ごと床に転がる。教室の半分がうけている。
笑っているのは最近、北から引っ越してきた子たちだ。
前からいる子たちはピクリとも笑わない。彼らは全員、矢車くんの味方だから。
名波くん……負けないで。
前は言えなかった。でも、今度はちゃんと言うんだ。
「な、名波くん! ママ……ケナイ……で!」
「比奈子、お母さん、毛がないの?」
名波圭吾は倒れたまま、卵焼きをモッシモッシ頬張る。
「いやああー、そんなわけないですぞ~! じゃなくって……マーっ」
「そうか。マヨネーズだよね。海老フライ弁当を最強にするのは」
違う、そんな事言ってない。思うよりも先にエビフライが口に飛び込んできて。ふぐ。
「どうかな?」
彼は全力で照れていて、私は大量のエビを頬張っていて、みんなの視線が突き刺さっていて、私は初めての経験に胸がドキドキしていて……。もしかしてこれが……。
「恋!」
「違う、胸騒ぎだ」
名波くんは私をしばいた。名波くんの返しに教室の半分がうけている。
う、腕があがっている! 名波くん……もしかして、入院中にお笑い最前線をかいくぐってきたのかね?
誰? 誰から学んだの? もしや師匠は皓人さん?
「その、比奈子……後で、僕と付き合ってくれ」
名波くんは照れ臭そうに頬を染めた。ここはボケ? それともツッコミ? もしや真剣交際? 確率は三分の一ですぞ! どうしよう、こんな修羅場初めてだよ。
その時、クラスの北の英雄、蓼野くんが立ちあがった。
「おい、てめえ。いきなり長谷川さんをくどいてんじゃねぇであります!」
男子から称賛の声がわきあがる。名波くんは一瞬、鋭い目をした。獣のような目。
「くどいてないよ。他人と仲良くなるためにはたくさんご飯を食べさせないといけないんだよ! 生クリーム卵焼きが喉でトロトロ歌うまで! 胃袋を掴むんだ」
私はのけぞった。たいへん。日常生活にこんなに深くこの前の戦闘のダメージが!
どうしよう、どうしよう! 記憶が飛んじゃったんだ。あんなひどい目に遭ったから!
フォローしてあげないと、名波くんが北組の人にも嫌われてしまうかもしれない。
早く助けてあげないと……。ああ、海老フライが! 海老フライが邪魔を……!
私、何もできないの? お願い、止めて。
委員長の鷹野由香里ちゃんがうなずきながらおごそかに立つ。
「わかったわ。長谷川さん。何も言わないでこの私に任せてちょうだい。全部わかっているわ。この場を穏便におさめるのね。良いでしょう」
制服にストッキング姿の由香里ちゃんは発表会の前のように優雅にお辞儀をした。
「私もあなたたちも共にこのドームに住む者。蓼野功士くん、名波圭吾くん……世界を平和にする私たちが世界を乱してはいけないわ。どちらも滅びなさい。ジェノサイドを見せてあげる」
委員長の由香里ちゃんは足に転送の験力を使った。
プロテクトアーム『リスの靴』が現れる。それって対心獣用の最終装備! えぇ~。
「必殺ジェノサイドー!」
由香里ちゃんは名波くんと蓼野くんに回し蹴りでとどめをさすと、小さくスカートの裾を広げ、華麗にお辞儀をした。優雅に微笑む。
「喧嘩両成敗よ。長谷川さん、これでどうかしら?」
「お姉様~!」
「姉様!」
中指の先まで可憐な由香里ちゃんに向けて、クラスの女の子たちの明るい声援が飛ぶ。
「さあ次は何にお仕置きをしましょうか? 楽しいわね、癖になりそうよ」
由香里が鋭く目を光らせ、教室を見回すので、比奈子はもうやめてくださいと懇願した。
こんなんじゃ帰って来たばかりの名波君が死んじゃう。