バグ
昨日、俺は親友と一緒に肝試しに出かけた。場所はこの地域じゃ有名で、今は誰も訪れることはなく、鬱蒼とした木々に隠れた曰く付きの神社だ。
その場所は昔、陰陽師が鬼に殺されたという話だがこんな話を信じるのは子供くらいなものだ。当然俺も親友も信じることはなく、鬼退治くらいの冗談半分で出かけた。
俺も親友も霊感があるわけでもないし、鬱蒼とした森のようなその場所は月明かりも差し込まずただただ不気味な雰囲気があるだけだった。その後はひとしきり騒いで家に帰った。
結局、異変はおろか金縛りの一つも起きずに朝を迎えた。
あっちは何か異変があっただろうか?
そう考えると、普段は面倒な学校に行くのも少しは楽しみになってきた。まずは朝飯を食べるために俺はリビングに行くと、すでに両親は朝食を取っていた。
「父さん、母さん、おはよう」
「あら、おはのう」
「のはのう、昨日は随分と遅かったじゃないか、ろこ行ってたんだ?」
「あ、うん……。ちょっと肝試しにね」
俺はそう言って定位置で食事を始める。
「なあ、二人とも体調悪いのか? さっき呂律が回ってないみたいだったけど」
「ううん、別に私は普通よ? お父さんは?」
「こっちも何ともないよ。そんなに変だったか?」
そう返してくる二人の口調はいつも通りだった。きっと俺の勘違いだったのだろう。肝試しで少しナーバスになっているのかもしれない。
俺は食事を終えて、学校に向かう。
教室に入れば俺の友人たちが声をかけてくる。
が、
「おはのう。きろう肝試すに行ったんだって? のうだったんだ?」
「のお、大丈夫か? かおいろがまっすろだぞ?」
朝、両親に感じた違和感がまた襲いかかってきた。
声をかけてきた方は別段なにも異常はないといった風な顔をしている。俺の耳がおかしいのだろうか?
残念ながら俺と昨日肝試しに行った親友はクラスが違う。話を聞きに行くのは一限目の終わりになりそうだ。
しかし、さっきのはなんだったのだろう。
呂律が回っていないと思う時、俺は昔テレビゲームでバグが発生し、一部の台詞に別の同じ台詞が何度も被さってしまったことを思い出した。
両親にしてもさっき話しかけた奴らにせよ、どこかゲームのバグのような印象を受けた。
結局、その後はあの違和感もなくなって、親友も違和感を感じたことは無いと言ったため、俺は次の休みにでも耳鼻科に行こうか悩んでいた。
放課後になり、帰りのホームルームの直前に俺はトイレに向かった。チャイムが鳴り、俺はさっさと用を足して手を洗っていると、今度は別の違和感を覚えた。
静かすぎるのだ。
この階の教室の総人数を考えれば100人はいるはずの生徒の声はおろか、咳払いさえも聞こえてこない。
なにか、全クラスで大事な話をしているのだろうか。
教師の声さえ聞こえてこない廊下で俺は無理矢理に理屈をつけながら邪魔にならないように教室の後ろの方の引き戸をゆっくりと開けて中に入ると、また異様な光景が目に飛び込んだ。
全員が、椅子に座り壇上に立つ先生を見ているのだ。
なにも異様なことじゃないとは思うが、全員が背筋をただし、先ほどまで乱れていた机と椅子が定位置に直されて、誰もが声を発していない状況は間違いなく異様だろう。
先生も直立したまま正面を見ているが、その視線はなにかを捉えているようには見えなかった。
とりあえず、俺も着席しないと。
そう思って俺は引き戸を閉めた。
バタン……。
古い引き戸は細心の注意を払っても音が出てしまう。
瞬間、全員の視線が俺に集まった。
「……っ!」
その光景に俺は息を飲み、心臓が跳ねるのを感じた。
全員が、まるでコンピューター制御のように一糸乱れぬ動きでこっちを見たのも驚いたが、全員首だけを動かしてこちらを見てくるのだ。
よほど訓練していたり、天性の柔らかさがあれば話は別かもしれないが、それでも……最前列の生徒が首を180度捻ってこちらを見てくる光景はそれだけで心臓に汗を掻かせる。
全員が、まるでまぶたを切り落とされたように両目を見開き視線をこちらに向けながら、だれかがぽつりと呟き、
「のろす」
「のろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろす」
「のろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろす」
それはまるで輪唱のようになって教室中に響いた。
のろす。という意味不明な言葉の大合唱に俺は肝を潰し、踵を返して教室を飛び出した。
振り返れば、まだ皆席に座ったまま俺を見つめながら合唱を続けている。
いや、俺の教室だけじゃない。廊下から響いてくる声は、全クラスから聞こえてくる。
俺は走った。
耳を塞ぎ、跳ね回る心臓の鼓動が全身に響くのを感じながら俺は転げ落ちるように階段を駆け下り、一目散に家へと疾走した。不幸中の幸いは、俺の家が学校のすぐ近くにあることだ。
耳を塞いでいても、俺の耳にはまだあの抑揚のない無機質な声の合唱が聞こえてくる。
ふと横を見る。
そこには、顔も名前も知らない通りすがりが俺のことを大きく目を見開いて見つめながら、あの言葉を繰り返していた。
異常な光景に俺は吐きそうだった。
こうなった原因はもう明らかだ。
あの肝試し。あの場所に行ったせいだ。
あの場所は本当に呪われていたんだ。
こんな状態では頭もまともに働かない。自分の部屋に籠って今後のことを考えないと。
俺は乱暴に自宅のドアを開ける。ここまで全力疾走だったことと家に入った安堵感で呼吸を整えるためにその場で立ち止まってしまう。
荒い呼吸を繰り返しながらも静寂の中で、リビングから物音がした。
「母さん……?」
俺は玄関から声をかけながら恐る恐るリビングへと近づく。
今ならホラー映画の人間の心理がよく分かる。確認するのも怖いが、確認しないでそのまま放置しておく方がずっと怖い。
ゆっくりと足音を立てないように歩きながらリビングのドアを開けて、中を覗き込む。
ずちゅ……ぐちゅ……。
冷蔵庫から音が聞こえる。
それは何かを貪るような、むしゃぶりついているような音だった。
視線をそのまま冷蔵庫に向ける。
そこには母がいた。
獣のようにしゃがみこんで背を丸め、冷蔵庫から引きずり出した野菜を生のまま口に運んでいた。
それと認識した瞬間、母はやはりクラスメートと同じように首だけを回して俺を見た。
「のろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろす」
口を野菜と果物でぐちゃぐちゃに汚し、振り乱れた髪が顔にへばりついていたが、その眼はやはりカッと見開かれ、あの言葉を繰り返した。
俺は咄嗟に飛び退いて、家を飛び出した。
今の俺に安心できる場所は無い。今、それがハッキリとした。
胃袋の物を全部吐き出しそうになりながら、俺の脳裏には今、親友の顔があった
あいつは今、どうしているだろうか?
あいつもあの場所に行ったのだから、俺と同じ状況に陥っているはずだ。
「くそ……!」
そこでようやく気付いたが、学校に鞄を置きっぱなしだ。携帯もその中だ。
焦りだけが先走って思考は完全に停止している。その間も、あの抑揚のない声だけが周りから響いていくる。
瞬間、その単調な声の波の中、俺の名前を呼ぶ声がハッキリと聞こえた。
反射的に俺が声のした方を見ると、そこには親友の姿があった。
「おお! 無事だったか!」
「お前も、よく無事だったな。やっぱり、あそこに行ったのが原因だよな? なあ? どうすればいい?」
こいつだって俺と同じ状況なのは分かっていたが、俺はすがりつくように訊ねていた。
だが、親友はここに来る前までに考えをまとめていたのか、その答えをあっさりと返してきた。
「もう一度、あの場所に行こう。そこで必死に謝るしかない。それでどうなるか分からないけど、それしか思い浮かばない」
何も思い浮かばない俺にどうこう言う権利は無いし、俺も他人を頼れない現状ではそれが最良だと思った。
俺と親友は急いでその場所に向かった。元々人気のないところだったおかげもあって、あの声から解放されたことが一番ありがたかった。
そのまま昨日向かった山道を歩き、ボロボロの賽銭箱の前で手を合わせた。
俺はとにかく昨日の無礼を謝罪し、今後の悪いところも全て直すと、とにかく思いつく限りのあらゆる懺悔を行った。
「上手くいくかな……」
「さあな、それを確認するためにも一度戻らないと」
俺たちは来た道を戻って人通りがある場所に出た。
そこには俺たちが見知った光景が広がっていた。
誰もが他人に無関心といった感じで歩道を歩き、あちこちから色々な音が飛び交って聞こえる。
助かった。
そう思った瞬間、身体の力が全部抜けてしまいそうになった。
「やったな。これで俺たち、助かったんだ」
「ああ、今日はとにかく疲れたな。家に帰って、今日の話は明日にしよう」
俺もそれに頷くと親友は肩を叩いて微笑むと、
「おつかれさま」
それだけ言って、親友は帰っていった。
俺もすぐに家に戻りたかったが、あの母を見た後ではさすがに帰りづらく。元に戻った人たちに紛れて時間を潰してから家に帰った。
父も母もすでに寝ており、俺は安堵しながら部屋に戻る。
椅子に座り、なんの音もしない部屋で平穏を噛み締める。
しかし、あいつはあんな状況でも冷静に対応していたな。俺は取り乱すばかりでのにもできなかった。
あいつは大した奴だ……。
あいつは……。
ちょっと待て。
あいつは誰だ?
俺の頭の中であいつろ名前を思い返す。
……ダメだ出てこない。それどころか、さっきまで会っていたのに、のんで思い出せない。
……なんだ? さっきから、あたまのろかで、あの声が聞こえる気がする。
いやの聞こえろているのは俺の声か? 俺はあいつろいつ出会った? どうすて親友と思いのんでいた? そう言えば肝試すに誘ったのはあいつだったな。
名前名まえなまえなまえ、あいつの名前、あいつろ名前はすぐそこまで出ているんだ。
……そうだ、思いだした。いまのろうちに書いておこう。あいつもおなじようなじょうきょうかもすれない。
のまえはろいたすがずれてのみにくくろったけどすんなにもんだいないだろう。
はやくあすたにならないだろうか。
いちど、なまえをわすれないように声に出してみようかな。
「のろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろすのろす……」
***
「それで……いつからこうなっているんですか?」
「昨日、学校から電話があって、様子が変だとは聞いてたんですけど……帰ってきたあの子は私の顔を見るなり血相を変えてまた外に飛び出したんです。……変だとは思ったけど、気づいたら、変な言葉をしきりに繰り返して……」
「それで、病院でも原因が分からず、霊能者の私を頼ったと」
「はい。……あの息子は、治るのでしょうか?」
「残念ですが息子さんの精神は地獄に落ちました。今の彼は抜け殻です」
「そんな……どうしてこんなことに」
「あの言葉を推察するに、おそらくこの近所で有名な曰く付きの場所に行ったのでしょう。話によると、陰陽師の霊が呪いをかけるらしいです。全員が同じ顔に見え、今の彼と同じような言葉を繰り返し、不安を与えてから一度元の状態に戻し安心させてから、憑りつく。……その陰陽師の名前を息子さんはなぜか書き残しているんですね」
「はい……ところで……あの言葉はどういう意味があるんですか?」
霊能者は重苦しそうな面持ちで答えた。
「呪い殺す。という意味ですよ」
まじめに怖い話を書くのは難しい