side雅~抱擁
「雅ちゃん雅ちゃん雅ちゃん……」
きっと、私だけにしか聞こえていないだろう微かな声が何度も耳に直接吹き込まれる。
ぎゅうっと抱きしめられて全身の細胞がざわりと覚醒したような気がした。
顔を見なくても分かる。
例え声を聞かなくても。
抱きしめる腕が、頬に触れる胸が、体温が、匂いが。
愛しい人の存在を雄弁に語っていた。
頬を流れる涙が白いシャツに吸い込まれていく。
二人だけの場所じゃないのに、お互いの存在しか感じない。
どうして離れて生きていけると思ったんだろう。
私がどんなに醜くても、どんなに晴可先輩に相応しくなくても、私はこの人の傍にいたいと思うのに。
「ごめんな雅ちゃん。俺なにも分かってなくて」
何を晴可先輩が謝っているのか分からない。
だけど謝るべきなのは私の方だ。
勝手に嫉妬して勝手に自信を失くして勝手に壊してしまおうとした。
「私、怖かった。神田さんが晴可先輩の特別になる日が来るのが。神田さんには晴可先輩の婚約者としての条件を完璧に備わっていたから」
消え入りそうな懺悔は晴可先輩に届いたらしい。
晴可先輩は私のまぶたにそっとくちびるを落とした。
「俺の行動が誤解させたんや。雅ちゃんがどう思うかなんて考えもしやんかった。ごめん」
「事実、だから。神田さんが晴可先輩の婚約者だったら、晴可先輩は何の心配もいらない。彼女なら自分で自分を守ることもできるし、それどころか晴可先輩の助けだって……」
「俺が、雅ちゃんを守りたいんや。それを苦労やなんて思たことないで?反対に雅ちゃんを守ることが俺の幸せなんやから」
「……」
そう言い切られてしまえば何も言う事ができない。
でも。
「私では、晴可先輩の助けには、なれないの?」
頼って生きるだけなんて嫌だ。
一生晴可先輩の重荷になるなんて耐えられない。
そう思ってつぶやくと晴可先輩の腕が緩んだ。
導かれるように顔を上げると晴可先輩はこれまで見たこともないような甘い顔で微笑んでいた。
「なれるよ?雅ちゃんが一緒に生きてくれることが、俺の一番の助けになるから。俺は雅ちゃんが傍にいてくれやんと生きてかれへん。きっと俺はこれからも雅ちゃんを傷つけてしまうと思う。でも、それでも、一緒に生きてほしい。俺の隣で」
そう言って晴可先輩はするりと私の左手を取った。
「朝霧雅さん。苦労かけるって分かってるけど、俺と結婚してください」
そっと持ちあげられた手に晴可先輩のくちびるが寄せられる。
左手の薬指に感じる、温かくて柔らかい熱。
捕えられてしまった。
もうどうしてもこの熱から逃れることはできない。
見えない鎖に、この心も、指も、縛られてしまった。
ただただ呆然と晴可先輩の瞳を見つめる私に、晴可先輩はにっこり笑ってとどめの一言を投げかける。
「ちなみに答えは「はい」しか受け付けへんから」
「……!」
その瞳から目を離すこともできず、私は小さく「はい」とつぶやいた。




