side雅~雨のしずく
憑きものが落ちたような、という言いまわしがあるがまさしくそんな感じだった。
誘拐事件以来、始終つきまとっていた倦怠感が消え、靄がかかっていたような頭がすっきりとした。
正常な思考回路が戻ってきて、気がつくと私は一人になっていた。
もちろん、記憶がない訳ではない。
婚約披露パーティーの夜、見知らぬ男に襲われたこと。
これ以上晴可先輩に迷惑をかけたくなくて、婚約解消を口にしたこと。
なんだか全て夢の中のようで、現実感を伴わない出来事たち。
でも現実には晴可先輩は私の前から姿を消した。
ダブルベッドが置かれた部屋は封印され、私はもう一つの部屋のシングルベッドで眠っている。
何度か晴可先輩が説得に現れたが、そのたびに私は過呼吸の発作をおこして倒れた。
それを知った祥子さんは私の携帯を操作して晴可先輩からの全ての着信を拒否した。
それ以来晴可先輩が私の前に現れることはない。
「雅?どうした?」
この頃私から離れようとしない木田先輩は、多分私の見張り役なのだろう。
見張り役?
誰が誰を見張るの?
まだ私は晴可先輩が私に執着していると思っているんだろうか。
自分の考えに苦笑いが浮かぶ。
「いいえ。なにも」
放課後の図書室。
窓の外は雨だ。
何気なく見下ろした窓の外。
赤い傘の下を歩く二つの人影が見えた。
見覚えのある広い背中。
その隣を歩く華奢な後ろ姿。
見慣れた学園の制服に菫色のドレスが被る。
小さな傘の下、肩を寄せて歩き去る二人の姿が遠ざかっていく。
自分から手離したのに、胸を裂くような痛みはなぜなんだろう。
手元の本に視線を落として誰にも気づかれないように息を吐く。
小さな字が霞むのは、天気が悪いから、手元が暗いからだ。
大丈夫。
手を離したのは私だ。
だから、大丈夫。
私は壊れない。
必死に自分に言い聞かせる。
「雅?」
あまりに必死すぎて、私の足元に膝をつき私の顔を覗きこむ木田先輩に気がつくのが遅かった。
木田先輩の手が伸びてきて、私の髪をくしゃりと掴む。
そのまま後頭部に手を回され、私の頭は木田先輩の肩に押し付けられた。
「泣けよ。我慢すんな。泣きやむまで傍にいてやるから」
甘やかさないでほしい。
甘やかされれば甘えてしまうから。
いつになく優しい木田先輩の手を、私は払いのけることができなかった。




