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side雅~狂気

このお話では暴力表現があります。

苦手な方はお戻りください。

 外気がひんやりと体を包む。

 ベランダの柵を両手で掴み、呼吸することだけに意識を集める。

 それでも重い塊が胸に詰まったようで息苦しさから解放されることはなかった。

 どうやったらこの苦しみから逃げられる?

 ここから逃げたい。

 だってここは私のいるべき場所じゃないのだから。

 ベランダの柵にしがみつき、必死で涙をこらえた。




「……ここにいたのか」


 突然背後から声をかけられ私は悲鳴をあげそうになった。

 誰だろう。

 見たことのない男が立っていた。

 きちんとした身なりの紳士だ。


「……どなた、ですか?」


 私が尋ねると男は整った顔を歪めた。


「私の顔を知らぬとは、呆れたものだな。まあ仕方ないか。所詮下賤な女だ」

「……」


 なんだかまずい状況のような気がする。

 男が立っているのはベランダから室内に入る扉の前だ。

 ちらりと下を見るがしんと静まり返った庭は人気があるようには見えない。


「特別に私の名を教えてやろう。私の名は豪徳寺貴博だ」

「……豪徳寺」

「そうだ。お前に精神を壊された豪徳寺さやかは私の従姉妹だ」

「精神を?」

「それにしても噂通りの女だな。貴島はお前の何に陥落したのだ?その平凡な顔に似合わぬ手技を持っていると言うのか?」

「なにを言っているのか分かりません」


 ひやりと背筋に嫌な汗が流れる。

 なんだろう。

 かつて晴可さんや木田先輩に感じたような生命の危険ではない。

 だけどこの人は危険だ。

 会話をしているはずなのに意思の疎通を全く感じることが出来ない。

 問いかけてくるのにこの人は全く返事を必要としていないのだ。

 全てがこの人の中で完結している。


 逃げなくては。


「あなたも、私と晴可さんの婚約解消を望んでいるのですか?」


 とりあえず会話を繋いで逃げる機会を作らなくては。

 そう思い必死で言葉を紡ぐ。


「望んでいる、というのではない。貴島の何某がどこの虫けらを娶ろうと私には関係ない。ただ、豪徳寺を愚弄したことに関してはそのまま放置しておく訳にはいかないが」


 じりじりと男との距離が縮まっていく。

 どうする。

 逃げ場は、ない。

 いや。

 ひとつだけ。

 私はベランダの柵を握りしめる。

 背後に広がる空間に身を投じてしまえば、私自身はどうなるか分からないが、この男から逃げることだけは出来る。


「どう詫びてもらおうか。何が貴島の致命傷になるか」


 男はわざとゆっくりと私をいたぶる様に邪悪な笑みを浮かべた。

 迷っている時間はない。

 私は両手を柵にかけ、勢いよく地面を蹴った。


「!!!」


 何かに引っかかるように頭が仰け反り、体が宙を舞った。

 次の瞬間、全身に強烈な痛みを感じ息が詰まった。 


「人が話している時にその態度はなんだ」


 全身の痛みと頬に当たる冷たい床の感触に、脱出が失敗したことを知る。

 髪を掴まれてベランダの床に引きずり倒されたのだ。

 痛みを堪えベランダにうずくまる私の髪を再び掴むと、男は何の躊躇もなく引っぱり上げた。

 髪を引きちぎられるような痛みに悲鳴が漏れる。


「大声を出してもいいのか?助けが来るとは限らないぞ?婚約披露パーティーの夜にちがう男とベランダで密会しているのを、招待客に見られてもいいのか?」


 男が引っぱり上げた私の耳元で嬉しそうに囁く。


「社交界の連中が大喜びするだろうな。貴島総合病院の御曹司が選んだシンデレラは男には見境のない娼婦だったと。そうなったらどうなる?もうお前だけの問題ではなくなるぞ」


 耳元に感じる生温かい空気に全身の毛がぞわりと逆立った。

 いやだいやだいやだっ!!!

 体を捩って腕を振りまわし、無意識に男の拘束から逃れようとした。

 途端に左の顔半分に衝撃を感じ、一瞬目の前に鮮やかな火花が散った。


「理解力のない女だな。静かに出来ないなら静かにするまでだ」


 男の感情のない平坦な声に意識が戻る。

 じんじんと痛む左頬と口の中に感じる血の味。

 どうやら手加減なしで殴られたらしい。

 朦朧とする目を何とか開くと男は不気味な笑みを浮かべていた。


「さて、こういうのはどうだ?婚約披露パーティーを抜け出し男を咥えこむ女。その写真をネットで晒すと言えば、貴島はどうするかな」


 何を言っているんだろう。

 分からない。

 とにかく逃げなきゃ。

 だけど男の手が私の首にかかっていて、苦しくて身動きできない。


「それをネタに融資を引き出すか。どうだ?いい考えだろう?」


 優しげに聞こえる声が怖い。


「お前はお払い箱だな。心配するな。そうなったら私がお前を飼ってやろう。私は慈悲深い人間だからな」


 低く笑う男の声が不快だ。

 逃げなきゃ。

 でももう力が入らない。


「何してらっしゃるの?」


 空耳だろうか。

 女の子の声が聞こえたような気がする。

 私の意識はそこで途絶えた。




 

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