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side雅~失われた記憶

 頭がぼんやりする。

 ここはどこだろう。

 体に感じる不規則な振動が、ここは寮ではないと告げる。


「あら。目が覚めた?」


 聞き覚えのない柔らかい声に頭を上げると鋭い痛みが頭の中を走り抜けた。


「あらあら大丈夫?」


 声の主が頭を抱える私に向かって労りの言葉をかける。

 ゆっくりと頭痛を警戒しながら視線を上げると、向かい合うように置かれた革張りのソファーに髪の長い女性がゆったりと座っていた。


 どこかで見たことがある?


 一瞬そう思ったが、記憶の中に彼女の姿はなかった。


「どうぞ。これを飲めば楽になれるわ」


 彼女はそう言って私に水の入ったグラスを手渡した。

 言われるままにグラスを飲み干す。

 彼女の言う通り、気分が楽になった。

 どうやらここは車の中のようだ。

 車にしてはやけに広々とした豪華な内装だが。

 ぼんやりとそんなことを考えていると、前に座る彼女が眉をひそめた。


「疲れていらっしゃるようね」

「……」

「本当に晴可さんも酷い事をする。あなたのような方を無理矢理に引き込もうとするなんて」


 会話の意図が分からず私は黙って彼女の顔を見つめた。

 晴可さん、というからにはこの人は晴可先輩の知り合いなのだろうか。

 白い整った顔に流れるような黒髪。

 どこかで見たような気がするが、誰だったか分からない。

 頭の芯を真綿で包まれたような感覚。

 思考が定まらない。

 

「あなたも分かってらっしゃるんでしょう?この婚約の歪さが」

「イビツ……」

「そう歪よ。なんの知識も持っていないあなたに、甘いことだけを囁いて。だけど私たちの世界は甘いだけではないのよ。割り切らなくてはならないことも多いわ。なのに晴可さんはあなたが無知なのをいいことに何も教えようとしない」


 確かに、晴可先輩は私に何も言わない。

 大丈夫だからと。

 何も心配しなくていい、と言って。

 でもそれは。


「もうそろそろあなたも分かるでしょう?晴可さんにとってあなたがどれほどの重荷になっているのか」


 重荷。


「晴可さんも晴可さんで、あなたという野の花をいたずらに手折ってしまった責任を感じているのでしょうけど、身分のちがいはより大きな不幸を呼び込むということにまだ気が付いていない」


 責任。


「私は自分のためにこんなことを言っているのではなくてよ?苦しむ晴可さんも苦しむあなたも見たくないから。あなたたちが不幸になるのをただ見ていることが出来なくて、言っているのよ?」


 不幸。


「今からでも遅くないわ。婚約を辞退なさい。これはあなたのためなのよ?一生、晴可さんと共に後ろ指を差されて、嘲笑われて生きていくの?晴可さんには晴可さんの隣に立つに相応しい人がいる。あなたにもあなたに相応しい人がきっといるわ。だから、晴可さんを自由にしてさしあげてくれないかしら」

 

 晴可先輩の隣に立つに相応しい人。

 私の脳裏に可憐な彼女の笑顔がよぎる。

 

「これ以上晴可さんの傍にいれば、みじめになるだけなのよ?分かるでしょう?」


 分かる。

 もう分かっている。

 だけど。


「晴可さんがあなたのことを離したがらないのは責任とただの気まぐれよ?晴可さんが心変わりする日も遠くないでしょう。そうならないうちに、傷つかないうちにあなたから離れるべきなのよ」


 だけど。


「あなたも晴可さんが背中を向けるのを見たくないでしょう?」


 遠ざかっていく温もり。

 大きな白いシャツ。

 腕の中の彼女を見る瞳。

 私の目からとめどなく涙が流れる。

 こんなに晴可先輩の存在は私の中で大きくなっているのに。

 晴可先輩に背を向けられたら、私はどうやって生きていけばいいんだろう。


「あなたから婚約解消を言うのよ?あなたが幸せになるにはそれしかないわ」


 彼女の声を聞きながら私の意識は薄れていった。



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