詐欺師
これは、とある生き物の話である。
哀れで惨めな、何かの話である。
詐欺師が、いるらしい。
どこにいるかも分からない。でも、確かにいるのだと誰かから聞いた。ずぅっと前に、その詐欺師に騙された人から、聞いた。
あれは悪魔であったと。
彼は詐欺師を愛したらしい。騙されていると知りながら、愛したらしい。
詐欺師は微笑んでいる。
けたけたと独り笑って、やがては笑い疲れて、ただ微笑んでいる。夜に目覚めて明け方に死んでいく、哀れで救いもない詐欺師は。まるで人形である。
夜に笑う人形である。
真っ黒の髪をして、真っ黒な瞳で、ぼんやりと誰かの目を覗き込むのだ。その時ばかりは、光なんてこれっぽっちも反射しないはずのぬばたまの目は、ちいさな輝きを宿しているらしい。
曇り空の星のようである。吹雪の月のようである。
ちいさな詐欺師は、悪魔と呼ばれた詐欺師は、どうやらどこかで笑っているらしい。
笑い声が聞こえる。世の中を嘲笑うような声が、どこかから響いてくる。
狼の遠吠えである。見えもしない新月に鳴く、狼の遠吠えである。
うぉぉん、うぉぉん。
彼はそれを、高笑いと呼んだ。
いやいや、と、私は心の中で否定する。あれは泣き声だ。
ちいさな詐欺師の泣き叫ぶ声であるのだ。
詐欺師は、ちいさな悪魔である。夜に独りぼっちで、新月を探すことしかできない狼のような、全くもって孤独な、意味の分からない生き物である。気味が悪いのである。誰一人として、詐欺師を理解することなど出来ないのである。
それが詐欺師である限り、この世の誰一人として、あの意味の分からない生き物を、実は同じ人間であると認められないのだ。どこもかしこも真っ黒で、唯一、血が通ってないようなくらい、抜けるように白い顔は、何やら面妖な猫の面で隠れている。
まるで鵺である。
トラツグミとか、そういう現実のものの意味ではなく、蛇やら猿やら、人外の寄せ集めの鵺である。
悪魔であり、狼であり、猫であり、詐欺師であり。
そして、人間である。
詐欺師は、己の血をもって騙す。なぜ騙すのかは、詐欺師すら知らない。呼吸をしなくては生きていられないように、騙さなくては生きていられないように思うらしいのだ。
詐欺師は人である以前に詐欺師であるから、人と関わることが苦手らしい。そんなもので詐欺師として生きていられるのかと言われれば、これがどうやら、詐欺師が詐欺師たる所以らしいのだ。
詐欺師は、己が人間であることを知らない。
詐欺師は、己が詐欺師であると思っている。その姿を見て、人々が、やれ、あれは狼だ、いやいや猫である、そんなことはなくただ恐ろしい悪魔だと、てんでばらばらに言った結果が、これだ。
髪も目も真っ黒で、狼のように孤独で、猫のように夜に生き、悪魔のように人を欺く、詐欺師という生き物になったのだ。
かつては人であったそれは、見るも無惨な姿で、夜に沈んだモノクロの世の中を、ぐらり、ぐらりと歩いている。
首をちょいと傾げて、よく響く声で歌うのである。もう人の言葉すら覚えていないからか、歌詞はまるで意味も分からず、そもそも意味を持っているのかすら不明なものだけれども。
私は以前、一度だけ詐欺師と対峙したことがある。
気持ちの悪い生き物であった。まるで意味が分からない、真っ黒な何かであった。詐欺師は、首だけでなく体もちょいと傾いて、見ているこっちも、うっかり共に、この世の隅っこの暗いところに転がり落ちてしまいそうな、不安定な気持ちにさせられた。猫の面が、無表情なあやかし猫が、私が存在する場所をぼんやり眺めていた。
どうやら詐欺師は、私になど見てすらいないようであった。興味の欠片すら、ないようであった。
詐欺師の体が大きく揺れたと思ったら、ずるずると身を引きずるようにして──いや、背に背負った何かを引きずるようにして、歩き出したのだ。その身の揺らめきは、まるで十字架を逆さまに背負ったようであるように見えたが、如何せん詐欺師は私と関わる気もなく、薄気味悪い空気だけを引きずって、私のすぐ横を通り過ぎた。
新月の夜のことであった。
月は無く、風がびょうびょうと吹いて、空には星が煌めくような夜であった。
私は、どうしてかやけにどっと疲れて、その場にへたり込んだ。
それからどれほど経ったろう、遠くの方から、何かが聞こえてきたのだ。
それは歌だった。私はその時、初めて詐欺師の声を知った。印象は、ない。ただ、不思議な歌であった。闇夜に歌が、ただただ響いていた。おっと目に塵が入ったよと、星達が一斉に瞬きをしたのを覚えている。
彼は言う──その歌こそ、愛なのだと。
彼は、確かにその歌から愛を感じたというのだ。愛など知るはずもない詐欺師が、誰かのために愛を歌うなど、これほど有り得ないものもない。そう、人々は心の中で笑った。
しかし私は、詐欺師だって、愛という概念くらいは知っているだろうと思う。人の言葉を忘れても、かつては人であったものの成れの果てなのだ。
そうだ、詐欺師は愛を知っていた。
人の営みとして、愛することは必須なのである。他者を愛することだけが愛ではなく、特定のものに執着することや、己を愛することもまた、愛の一つなのだ。
しかし詐欺師は、ものに執着する事が出来なかった。かといって詐欺師が、己を認識して愛することなど、出来るはずもない。
詐欺師は詐欺師であるけれども、詐欺師である前に人間である。
人間ならば、生きるためには愛が必要だ。
そうであるから詐欺師は、歌を歌ったのだ。とうの昔に言葉は失ったが、想いを音に乗せようとしたのだ。
それがどんな想いの込められた歌かは、詐欺師すら知らない。
ただ、私には分かる。あの日、地面に座って星と共に歌を知った私であるからこそ、分かる。
それは、愛への憧れだった。
君よ、我を愛せ、などと彼に歌ったわけではなく、愛とは一体なんなのかと、愛というものが欲しいと、詐欺師は歌ったのだ。
彼には、愛に対する歌であることしか伝わらなかった。それが彼にとっては、我を愛せと歌っているように思えたのだろう。
しかしそもそも、詐欺師は愛を知らなかったから、歌ったのである。
彼は詐欺師に惹かれた。その声と歌に、どうしようもなく焦がれた。ただ真っ黒なだけの髪と瞳も、まるで真夜中の湖面のように見えたらしい。妖しげな猫の面も、可愛らしい獣の顔に見えたらしい。傾いて立つその姿も、少し鬱っぽくて婀娜っぽく見えたらしい。
私には、これっぽっちも理解できないが。
彼は一心に詐欺師を愛したけれど、詐欺師には正直、意味が分からなかったらしく、既に傾いている首を、ますます傾けさせるだけだった。
詐欺師は、人との関わり方を知らない。
人の言葉すら話すことも出来ず、口から零れるのは不思議な歌と、どこの世界のものでもない、滅茶苦茶な言葉のようなものだけである。
人とどう接するべきかを知らない詐欺師は、彼の言うままに頷いた。口を開けば意味の分からぬ言葉しか出てこないから、詐欺師の言葉は、彼が詐欺師に最も望むものになった。
詐欺師は、己が彼を騙していることに気付いていた。
しかし詐欺師は、やっぱり彼とどう接するべきかを知らないし、なんとなく愛のようなものを感じていたから、何も伝えることは出来なかった。
そのうち、彼は、己が愛したものが詐欺師であったと知った。
静かに揺らめく湖面は、不気味な黒に戻り、可愛らしく自分を見る猫の顔は、薄気味悪いただの面に変わり、色っぽく見えた傾く姿は、糸の切れた操り人形となった。
彼は詐欺師を恨み、罵った。
詐欺師は、鳴いた。
狼のように、鳴いた。
彼の目に映る詐欺師の姿は変わってしまったが、詐欺師が探し求めるものを歌った歌だけは、声だけは、何も変わらない。
彼は苦しんでいる。遠くから、冷たい夜を渡って聞こえてくる詐欺師の歌が、耳に入る度に。
しかし彼は知っている。己はもう、以前のように詐欺師を愛せないはずだと、そう思っている。
詐欺師はその苦しみを知らない。詐欺師は、人である前に、やっぱりどうやっても詐欺師なのだ。捜し物を続ける、ちいさな悪魔なのだ。
詐欺師がいるらしい。
夜のどこかに、いるらしい。
悪魔の歌は、多くの人を魅了した。そして皆、夜が明けるように夢から醒めた。
詐欺師は今日も、独りである。
真っ黒な髪を夜風に靡かせ、気味の悪い猫の面のずれを指先で直し、その奥にある闇色の瞳を鈍く輝かせて。
狼のように孤独で、猫のように夜に生き、悪魔のように人を欺く、かつて、遙か昔は人であった、何かである。
何かという、詐欺師である。
愛に憧れ、しかし人と関わることを知らない、ぎこちなく傾いて歩くことしか出来ない、哀れで醜いちいさな悪魔。
これこそ、詐欺師だ。
詐欺師であり、詐欺師でしかない、人を騙す夜の生き物。
今日もどこかで歌を歌い、首を傾げて星を見ようと空を見上げる。
猫の面のせいで、その煌めきは瞳に映りはしないが。
詐欺師がいるらしい。
今日もどこかに、いるらしい。
詐欺師──。
私は、やはり詐欺師を知っている。これは実話だ。まるで意味のないフィクションのようではあるが、詐欺師が人である前に詐欺師であるように、この物語もまた、同じである。
あなたも、もう、詐欺師の去った後を見たのだ。