遠回りする猫
春から書いてた短編より先にできあがってしまいました。よかったら感想ください。
何も無い、寂しい街だけど河風が涼しくて景観がいいのが気に入っていた。少し曇りがちで夏もそんなに暑くないのも。だけど、毎年いつから秋に入ったのかあまりわからないのが多少不便だった。
いつからか、私の日課は散歩になっている。散歩中にいつも視界に入ってくる曇っていて暗い空を映した灰色の河には、いつも五匹程度の鴨が優雅に浮かんでいた。その河沿いに経っている小さなアパートが現在の私の家だ。狭いが、一人暮らしには充分で大学までは自転車で15分かかるけれど、家賃の安さには変えられなかった。
私が“黒猫”という愛称で呼ばれるようになったのは、近所のカフェでアルバイトを始めてからだ。髪が黒く、猫のようにつりあがった目尻をしていたためにそう名付けられた。アルバイト先には、同じ大学の学生も数人いたため、いつしか私はどこへ出向いても“黒猫”と呼ばれるようになった。別段不快な呼び名でもなかったので、私が受け入れていたせいもある。
大学に行って、顔見知りと授業を受けてそのうちの何人かとバイトへ向かう。そんな生活が二年目に差し掛かったとき、また新たなバイト仲間が増えた。
「新入りの佐竹です」
ふわふわしたパーマの黒髪にダテ眼鏡で素顔があまり見えない、そんな彼は名字だけを名乗ると黙々と仕事を始めた。店長によると、飲食系のアルバイト経験があるらしく飲み込みも早かった。最初の挨拶が簡素だったため、彼はバイト仲間たちの中で浮いてしまうのだろうと思っていた。てっきり私と同族だと思っていた。でも、違った。バイト仲間の中で浮いたのは、私のほうだった。
彼は、社交的だった。最初は歓迎会を開こうという事になった。しかも、本人の希望らしい。私たちが勤めるカフェではそれまで無かった行事だ。私はそういう付き合いは苦手だったので、参加しなかった。すると、その歓迎会を境にどこか他人行儀で距離を置いていた仲間たちがすっかり心を開いてしまい、いわゆるチームワークというものが出来上がったらしい。私は、自然と置いてけぼりにされたようだった。
チームワークというのは、集団で仕事をする上では効率的に良いものらしい。彼が来てからというものの、皆の作業効率は上がっていた。私だけが、輪を乱すように変化していなかった。いつしか、私の名は呼ばれなくなっていた。元来、本当の名で呼ばれた事など無かったけれど。私は自分が思いのほか“黒猫”という呼び名に固執していたことに気がついた。大学二年生の夏頃になると、私はアルバイトを無断欠勤するようになっていた。
手始めに行ったことは、見目を派手にすることだった。黒かった髪は染め、モノトーンではなく周りの女の子達が来ているようなカラフルでふわふわした洋服を身にまとった。すると、私にはすぐに友だちができた。その友達の紹介で、彼氏もできた。以前のバイト仲間とは、全く接する事がなくなっていた。私の生活は以前より華やいだように感じていた。大丈夫だ、私の居場所はある。それがいつしか、心の中で口癖になりかけていた。しかしどんなに生活が変わっても、“黒猫”という呼び名は変わらなかった。そんな日々が、もう三ヶ月過ぎようとしていた。
大学のカフェテリアに彼が来たのは、夏も終わることだった。彼は、たった一人でメニューボードとにらめっこをしていた。私は、その横を何事も無く通り過ぎようとした。きっと向こうも私のことなんて忘れているだろう、そう思ってた。
「黒いほうが良かったな、髪」
横切る瞬間に、聞き覚えのある声でそう聞こえた。私は、心臓が止まるかと思った。覚えていたのだ、彼は。私は忘れようとした。忘れられないから、忘れたふりをして。見つからないように、変装までしたのに。ああ、なんだか気持悪いな。豚カツの油にあたっちゃったかな。私はそれから急に寒気がして体調が悪くなり、医務室へ向かった。
夢の中で、私は彼があのカフェに来た日に戻っていた。黙々と作業する彼に、私は思い切って話しかけた。すると、向こうは思いのほか照れたような、柔らかな表情で答えてくれた。私はどうしてか、涙が止まらなかった。
「……さん、上木さん」
名前を呼ばれて、意識が浮上する。本名で呼ばれたのは久しぶりだった。夢の内容を覚えていたためか、ぼんやりとした意識の中、私はその相手が彼であることを当然のように受け入れた。
「佐竹……さん」
敬称をどうつけていいかわからず、そう呼んでみる。私はこの人の年も知らないのだった。
「あの、上木さん気分悪くしてたみたいで……俺が急にあんなこと言った、から。俺いてもたってもいられなくて。その、もし気を悪くしたらすぐ出て行くから」
そういった佐竹さんの表情は、長い前髪と眼鏡でやっぱり見えない。だけど、その声が震えているとわかって。ああこの人も不器用なのだな、そう思うと心の緊張が解け謎のむかつきも和らいだ気がした。不器用な口を必死に動かす。
「あの、佐竹さんのせいじゃない、から……バイト、やめたのも」
なぜ今それがダイレクトにでてくるんだろう。もっと、クッションになる言葉が使えたらいいのに。私の言葉はいつも直接的過ぎて、よく刺さるのだと母さんは言っていた。先に鋭利な言葉を放ってしまったの、必死に止血できるクッションをさがす。
「あ、ちが。えと、嫌いとかじゃないくて」
自分でも何が言いたいのか全くわからなくなったとき、佐竹さんが口を開いた。
「よかった……ごめん。上木さんだけ一人にして。悪気は無くて、ただ……」
そこで言葉を区切る。うつむいたせいで更に表情が読めなくなった。
「だた、俺は上木さんと仲良くなりたくてあの店入ったのに」
ああ、やっぱりそうだ。この人は覚えているんだ。私は、彼がアルバイトとしてではなく客として初めて店にやってきたときのことを思い出した。
「佐竹さん。大雨の日のこと……」
それは、私がまだ“黒猫”と呼ばれる以前のことだ。ある大雨の日、佐竹さんはあの川沿いをずぶ濡れで歩いていた。久しぶりに散歩にでてみたら思いのほか遠くまで行ってしまい夕立に降られたのだという。私はそのとき傘を差して歩いてアルバイト先のカフェへ向かい途中であったので、佐竹さんに傘を半分さし、カフェの中で雨宿りするよう案内したのだ。オープン前で店長は買出しに出かけていたため、佐竹さんにバスタオルをかけ、ミルクティーを淹れた。佐竹さんは料金を支払うといったけれど、適当に入れた上に美味しいかどうか保障も出来ないミルクティーだったため、私は料金はもらわず店長が帰る前に佐竹さんを帰したのだった。
「覚えていた、んですか」
「忘れませんよ。上木さんも、覚えていたんですね」
やっぱり、私がいけなかったのだ。佐竹さんがアルバイトとして入ったあの日、声をかけるべきだったのだ。でも、私は彼が覚えていなかった可能性に恐怖して、声をかけなかった。
「ごめんなさい。今まで黙ってました。忘れたふり、してました」
思いのほか、素直な言葉が吐き出された。同時に、視界もすこし潤んだ気がした。
「俺も、勇気でなくて。お酒の力、借りようとしました。結果、あなたを遠ざけてしまったけど」
私たちは思いのほか、不器用で。それが偶然に相乗したのだろう。遠回りしたけれど、こうして今話せている事が、肌寒さを忘れさせてくれる程度に暖かくて。
「アルバイト、枠が一つ開いたんです。今日はそれ言いに来ました」
遠回りして、またスタートラインに立てたから。あなたが遭いにきてくれたから。勇気を出してくれたから。
「また、髪を黒くしなくてはなりませんね」
私も、勇気を出そうと思う。今度こそ、複雑に糸が絡まないように。絡まっても、解きやすいように。
「ところで、佐竹さん。私のあだ名は“黒猫”というんですよ」
なるだけ笑顔でそういうと、佐竹さんは微笑んでこう言った。
「俺は“天パ”って言われてるんです」
二人はやっとスタートラインに立ちました。これから先どういう関係を作り上げるかは、彼らしだいです。違った意味で不器用な彼らの成長も見てみたい気がしますね!