7時5分
あまり大きくないこの町の東西にある門から一番遠い場所にあるのは、どこか静謐な空気に満ちた唯一の公園。
その中央には人工の川にぐるりと囲まれた煉瓦造りの建物がある。屋根の上には簡素ながらも磨き上げられた十字架が、まだ白っぽい朝の光を反射していた。
彼女は川に架けられた石橋の手前で立ち止まり、眩しさに目を眇めた。
「ローズ、ちゃんと起きてるかしら」
「あのローズが寝坊するはずないよ」
「それもそうね」
川にうつった小さな魚の影が逃げる。それを目の端でとめつつ僕は、さっさと先に進む彼女の後を追った。
余り長さのない石橋を越えて、手入れのゆきとどいた庭を通り過ぎ、相応の歴史を感じさせる扉にたどり着く。
鍵などかかっていないことを経験上彼女は知っていた。
そして彼女は立ち止まってちらりと僕に視線を送る。それは特別色を含まないけれど、確かな信頼のようなものを感じてしまう。
僕の願いがそうさせているだけかもしれないけれど。
努めてにやけないように表情を引き締め、僕は預かっていた花束を彼女へ差し出した。
かさり、と包み紙が音を立てた。
「失礼します、っと」
軽くノックをして、返事を待つことなく扉に手をかける。
ここの扉は少し重いので、朝に僕が開けたあとは開いたままにしておくのが常だった。
扉を開ききった僕の横をすり抜けて、彼女は遠慮なく中に入る。
ふわりと漂った花の香りはいつの間にか彼女に馴染んだもので、いやみがなくて僕は好きだ。
お目当ての友人を見つけて、彼女の表情が幾分柔らかくなっている。
「ローズ、おはよう」
「あら、リリィいらっしゃい。相変わらず早いわね」
リリィが気に入っているハニーブラウンの髪を揺らして、ローズは振り返った。
ちょうど掃除をしていたらしく、彼女は手に持っていた箒を側の机に立てかける。それからつけていたエプロンを外した。
いくら僕たちが友人とはいえ、礼拝に訪れたのには変わりないので、ローズはシスターとして振舞う。
これは彼女のけじめであり矜持なのだと、いつかにこやかに語っていたのが印象的だった。というかリリィがいたく感動しているらしかったのを覚えている。
ローズはスカートの端をはらって、リリィを見据えてにこやかに微笑む。
「いつも悪いわね。今日は桃色にしたの?」
「好きでやってることだから。赤よりは地味だけど、可愛いでしょ」
リリィは家で用意してきた薔薇の束を差し出した。棘は綺麗に取り除かれ、葉も花のすぐ下を残して落とされている。
彼女は小さな頃からこういうところで細やかな気配りをするのが得意で、町の人々から重宝がられているのだ。
この花束も、忙しいローズの為に、簡単な包みを剥がせばそのまま花瓶に飾ることができるようになっていた。
受け取ったローズはふわりと頬を緩ませる。微笑んだ彼女の立ち姿は聖女もかくやというほど絵になるらしかった。
この小さな町に埋もれるのか惜しまれるほどの器量の持ち主だと評判だ。
見慣れているリリィでさえ、ほうっとため息をつく。
「やっぱり、ローズって綺麗」
二人は長いこと友人関係にあるけれど、リリィは飽きもせずこの2歳年上の少女に見惚れていた。
ローズは年を追う毎に綺麗になっていて、未だ残る少女らしさの中に大人びた表情を見せるのが絶妙なのだと町の人々は言う。
迂闊に扱えば崩れてしまうような、微妙なバランスを保っている危うさが人を引きつけるのだそうだ。
そうやって他人の目を集めてくれると、リリィが変に注目されなくていいと思う。
リリィがうっとりと惚けている間に、僕もも彼女に追いついて横に並んだ。
いつも通りの光景とはいえ、面白くないことには変わりない。無意識に、眉をひそめてしまったらしい。
「……おはよう、ローズ」
「あらおはよう。あなたは相変わらずみたいで安心するわ」
「ローズはもっと、謙虚になったら?」
「事実を正確に把握しないことの方が罪なのよ」
ローズは恐ろしいほど綺麗な笑みを浮かべた。人々を魅了する微笑み。隣でリリィが色めき立っているから間違いない。思わず顔が苦々しくなる。
ローズは意味ありげな視線で何か言おうとしていたけれど、結局は祭壇をちらりと一瞥して本を手にとった。
「ほら、リリィもお店の準備があるでしょう? 早く礼拝を済ませなさい」
「あ、うん。ありがとう」
促されてリリィは、十字架の前で指を組んで目を閉じる。それから無言のまま祈りを捧げた。
ローズがじっとりと睨んでくるので仕方なく僕もリリィに倣う。リリィに怒られるのも嫌だから。
僕は昔から、あまりこの行為には積極的になれないでいた。せめてもの抵抗で、薄く目を開けるのはさすがに自分でもせせこましいなと理解はしている。
ローズはもう一度服装を整えて、僕たち二人の姿をしばらく見つめる。片腕に抱えた本の表紙に、空いた手の平を乗せていた。
十字架の後ろに据えられた窓からは、幾分か昇った太陽の光が差し込んで、室内を包みこむ。きらきらと空気まで輝いているように見えるので、ローズはこの時間の礼拝が気に入っているらしかった。
彼女は結んでいた唇を開き、軽く息を整える。
「――あなたたちに幸多くあらんことを」
張り詰めた空気の中、彼女が厳かな雰囲気で伝えると、僕たちはひっそりと息を吐いて姿勢を崩す。
時間にすれば短いものだけれど、随分気疲れしていた。リリィは首筋に手を当てて軽く撫でると、落としていた視線をぱっとローズに向ける。
「じゃあ、お茶の時間にまた来るから」
「ええ、いつもどおり待ってるわ」
「今日はマドレーヌがいいな」
「まかせて、準備しておくから」
ローズの返事を聞いてリリィは嬉しそうに頬を緩めると、楽しみにしてるね、と言い残して振り向いた。そして僕を一瞥すると、笑みを引っ込めて早足で帰っていく。かわいい。
僕も慌ててローズにおざなりな挨拶を置いて、リリィの跡を追いかけた。