6時25分
「リリィ、準備できてる?」
「当たり前でしょ、だからこうして店の前であんた待ってるんじゃない」
どこまでも高く澄んだ空にようやく朝日が昇り、人々が目覚めはじめた頃。
町は静かにゆっくりと動き出し、垣根の花は一日の始まりを感じてちらほらと咲き始めていた。
こつんと石畳がなる。
「相変わらず遅いわ」
飛んでくるのは棘のある声。
身を預けていた石造りの壁から離れると、彼女は僕を睨みつけた。
眉を寄せた表情は不機嫌だと語っていたけれど、それがポーズに過ぎない事は既に知っている。
普段から愛想の良い彼女がこういう不満げな表情を零す相手は限られているから、それを思えばむしろくすぐったい気分だった。
例えば他の誰かよりも近付いていいと言われているような。
僕は気がつくとへらりと笑ってしまっていた。
「ごめん、朝早く起こしてくれっていうお客さんがいたんだ」
「ふうん、まあいいわ。行くわよ」
理由こそ違えど、いつもの事なので彼女は追及しない。
それに、商売のことにはお互い干渉しないのがルールだ。
とりあえず、僕の緩んだ頬に手を伸ばしてぎゅっとつねることでこの件は終わりにしてくれるようだった。
彼女はその涼やかな瞳で僕を一瞥して、町の中央に向けて歩きだす。
高い位置で二つに括った彼女の髪が足運びに合わせて揺れた。
それに見とれて、僕はわずかに出遅れ、慌てて彼女の横に並ぶ。
それから空いていた手を差し出した。
何も言わない。
前を見たまま、彼女は慣れたタイミングで持っていた花束をその手に押し付ける。
僕はくすぐったい気持ちを隠して花を受け取った。
ごく自然な、僕たちにとって当たり前の流れだった。
「ロータス、あんた今日の店番の予定は?」
「んー? とりあえず午前中いっぱい。
もしかしたら夕食の準備もするかもしれないけど」
「昼までにははっきりさせときなさいよね」
ふん、と鼻の鳴らす音でも聞こえてきそうな声色。
人によっては怒らせてしまうような態度だったけれど、僕には気にならない。
むしろ嬉しいといったら、友人たちには呆れられるのかもしれないので、とりあえず、わかったと素直に頷いておいた。
そして会話が途絶えた。
けれど気まずい雰囲気はない。
こうしてぼんやり歩くのも僕は好きだった。
多分、彼女も。
慣れ親しんだ町並みを見ると落ち着くのだ。
まだ淡い青空を、滲んだ雲が漂っていた。
町の中央にある教会に辿りつくには、あと十分ほどかかるだろう。
いつも同じ時間になるのは、時間にうるさい友人と律儀な彼女のおかげだった。
空と言えば。
「そういえばね、」
僕は不意に思い出したことを口にする。
僕たちの間に流れた沈黙は、大抵僕がこうして、彼女には唐突に思われるだろう話で終わらせるのだった。
「面白いお客さんが来てるんだ」
僕の言う『面白い』は、大抵空想じみたことだと言われてしまう。
そのたびにやるせない気持ちになるのは、誰にもいえないでいる。
けれど多分彼女は気づいているような気もしている。
ただの想像だけれど。
彼女は前を向いたまま、ふっくらして薄く色づいた唇を開いて相槌を打つ。
「ふうん、どんなひと?」
「南の街から来たっていう若い夫婦なんだけどさ。かなり大きな湖を見てきたんだって」
「大きいって、どのくらいよ。まさかこの町が全部入るくらいとか?」
彼女は興味を示してくれたらしい。
気づいた僕は、落ち着かない気分を押し隠し、一度言葉を切って隣をそっと伺う。
そしてすぐに僕は小さく息を飲む、彼女に気づかれないように。
彼女は、僕の言う『大きな湖』なるものを思い浮かべて首をかしげていた。
僕はそれを横目で捉え、にやついてしまう。
けれど隣の彼女が見ていればだらしないと評しそうな表情だったので、彼女に見つからないうちに顔を引き締めた。
「いや、空と同じくらい大きかったって」
「……うそでしょ?」
「僕には何とも言えないよ」
「まあ、それはそうだけど」
「でも、ずうっと波打ってて、大きさが変わったり、見たこともないものが漂ってたりするらしいよ」
「そこまでくるともはや湖じゃなくて生き物じゃない」
「『うみ』っていうらしいんだけどね」
『うみ』ね。彼女は呆れたようにため息を吐く。
空ほどもある湖なんて聞いたこともない、と。
彼女の世界はこの町で完結している。
父親が花の仕入れに隣町か、その隣町辺りにまで出かけてきた時の土産物でさえ、この町では十分珍しい。
僕の言う客の話なんて、この町の人にはおとぎ話と同じ。
でも。
彼女は一度視線を落とし、それから空を見つめた。
「でも、もし本当なら見てみたいわね」
「……そうだね、」
その時は一緒に行こうよ。
喉まで出かけた言葉を飲みこむのにもずいぶん慣れた。
代わりに僕は、にこりと笑った。
僕には『うみ』の話が、町の外に広がる世界の話が、全くの嘘だとは思えなかった。
多少の誇張は含まれているだろうけれど、きっと本当のことだと思えた。
この町の人々の多くは、彼女と同じように、信じられないことだというのだろう。
それでも彼女は、頭から否定したりしない。
本当にあるかもしれないと、信じようとしてくれる。
それがまるで、自分の側に寄り添おうとしてくれているような錯覚を起こす。
つきりとどこかが痛んだ気がしたけれど、僕は気付かないふりをする。
お互いの手が触れないぎりぎりの距離感を保ったまま、いつも通りの道を歩く。
変わらない距離に彼女は気付く様子はなく、卑怯な僕は甘えている自分を自覚していた。