グレイス⑩(完)
「そんなに力まなくてもいいじゃない」
エレンが困ったように笑いながら、セイウンの肩に手を置いた。
「そんなのだといつか疲れてしまうよ。あんたはいつも通りの元気で明るくて、優しいセイウンでいなさいよ。そんな力のこもったのなんて、私も見たくないわ」
「あのなあ、エレン。俺は真面目に言っているのだぞ」
「私も真面目よ」
返された瞬間、思わずセイウンは苦笑してしまった。いつの間にか、大声で笑っていた。
エレンも一緒になって笑っていた。
なんだか嫌な胸のつかえが取れた感じがしてならない。
「ありがとう、エレン。お前のおかげで、なんだかすっきりしたよ。俺はいつも通りの俺でいるよ」
「そうそう。それでこそセイウンよ」
「エレン、突然だけど、俺の方から頼みがあるのだがいいか?」
「何かしら?」
「俺との間に子供をつくってくれないか」
エレンは呆然としてしまった。
しまったと思ったセイウンだった。いくらなんでも、唐突すぎただろうか。セイウンは別の要求に言い直そうかと考えたが、それより早くエレンが口を開いた。
「いいわよ。五人でも七人でも十人でも欲しければ……」
「そんなにいるかよ。普通に二人か、三人でいいよ」
「そう……私はどちらかと言うと、多い方がいいわ。家族は多い方が楽しいし」
「ははは。お前らしいな。でも、お前の了解が得られてよかった」
「私もあんたの口から、そんな事言うなんて夢にも思わなかったわ。嬉しかったわよ」
エレンは、にこりと笑った。
その笑顔に、セイウンは心を打たれた。心臓が大きく高鳴った。結婚しているというのに、やはりどうしても恋人同士の関係を抜け切れなかった。あの世にいる自分の両親は、この光景を見てきっと笑っているはずだ。
「エレン」
「どうしたの、セイウン?」
「お前は自分の両親を覚えているか?」
「突然どうしたの?」
「いや、悪い。思い出したくないのならいいよ。ただ、尋ねただけだよ」
エレンはしばらくの間黙っていたが、やがて溜息をついた。
やっぱり話したくないようなのでセイウンは帰ろうと促した。
「待って」
エレンがセイウンの服の袖を強く握りしめた。
「母さんについては、全然覚えてないわ。思い出そうとしても無理なの。でも、父さんの顔は今でも覚えている。忘れよう、忘れようと心に決めているのに頭から消えないの」
よほど父親が怖かったのだろう。だから、父親の顔が頭から汚れのように、こびりついて取れないのだ。
エレンの背中には父親から刃物で斬り付けられた傷が、はっきりと残っている。ハシュクに尋ねたが、今の自分の腕でも消すのは無理だと宣告された。
しかし、セイウンは諦めていなかった。絶対に消す方法はあるはず。自分がそれを見つけてやると心に誓った。
右手に何かが触れた。エレンがセイウンの手を握っていた。
「ちょっとでいいから、手をつないで」
「……ああ。悪かったな。嫌なことを思い出させてしまって」
「いいの。気にしないで」
どのくらいの間、じっとしていたか分からないが、やがて日が暮れてきたので、二人は戻ることにした。
戻りながら、ジェトリクスがセイウンに向かって呟いた。
「妬けるねえ、お二人さん」
だが、その声量は微笑でありセイウンの耳には届いていなかった。
(『セイウン~黒き鷙鳥~』 了)