八月二日⑧
「そうか……ようやく分かった気がする。本当の涙というものは、嬉しい時に流すものなんだ」
「そうなの。私には分からないわ」
「今は分からないかもしれないが、いずれ分かる時が来るはずだ」
「そうかもしれないわね……」
「ナナー、私は昔こんなことを考えた。お前と結婚したら、新しい住まいを建てる。そんなに大きくなくていいし、使用人もいらない。子供は三人……いや二人だな。子供達のよい父親になりたいと願った」
「大きくていい夢ね」
「でも、もうそれも叶えられない」
「どうして?」
ロウマはそれ以上答えなかった。ただ涙を流しながら、遠くを見つめていた。
やはり自分は、ナナーを心の底から愛している。どんなに嫌われても、この感情は変わらない。
「ナナー、お前の頭に付けているものを私にくれないか」
「このカチューシャのこと?」
「カチューシャというのか?」
「そんなのも知らないの?」
あいにくロウマは女の装飾品のことなんて興味が無いため、知らなかった。ナナーはためらっているらしく、しばらく考え込んでいたが、やがて溜息をつくと、カチューシャを外してロウマに渡した。
ロウマはカチューシャを受け取った。カチューシャからは、ナナーの髪の芳香が、まだ残っていた。
「大切にする」
「どういたしまして」
その後、ナナーとロウマは別れた。最後は無言の別れだった。彼女が見えなくなった後、ロウマは口を開いた。
「グレイス」
「お呼びで」
グレイスが音もなく姿を現した。
「馬は用意しているか?」
「こちらに」
グレイスが案内したあばら家に、馬はつながれていた。ロウマが戦場で共に疾駆してきた愛馬だった。
「剣も」
「どうぞ」
グレイスが差し出した剣は、ロウマの愛剣リオン=ルワではなかった。ただの剣だった。
「本当によろしいのですか?リオン=ルワの方が、扱い慣れているはずでは?」
「リオン=ルワは、アルバート家の当主だけに扱うのを許される剣だ。当主はこれから弟のノーチラスだ。あいつに渡せばいい。それに、剣も私を見捨てた。リオン=ルワに輝きが失せていた」
「何かの間違いでは?」
ロウマは首を横に振った。
剣に見捨てられたのは、まぎれもない事実だった。汚れた自分に、光輝く剣は似合わない。普通の剣で十分である。
「私も同伴してもよろしいでしょうか?」
「駄目だ。お前は残れ。残ってシャニス達を支えてくれ」
「あなたのいない軍など抜け殻です」
「そんなことはない。私のいない軍がどのようなものか、見届けるのもお前の役目だ」
「そこまで言われるのでしたら従います」
「すまない」
ロウマは礼を述べた。
愛馬に乗ると、むちを打った。愛馬は走り出した。
この命が尽きるまで様々なものを見て回るのも悪くなかった。だから、進むべきだ。
ロウマはまた、むちを打った。