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南の島の異邦人  作者: 沖川英子
8/8

またね

 ココがママル島を離れたのは、祭りが終わった二日後の午後だった。

 強烈な日差しのせいで来た時とは別人みたいに真っ黒になったココは、煙草やお酒が無くなったせいで幾分か軽くなった荷物を背負い、ゆっくりと歩いてきた。

「あれ」

船着き場で待っていた俺を見ると、ココは嬉しそうに駆け寄って来た。そして俺の目の前にどさん、と荷物を置くと、

「ちょっと待ってて」

早足で切符売り場に向かい、ささっと乗船券を買って引き返してきた。

「次の便?」

「そう。あと30分だって」

「ふーん」

意外と一緒にいられる時間は少ないみたいだ。残り時間を告げられた途端、急に目の前のココが外国の人で、離れてしまえばそうそう会えないのだということに気づいた。ふっと淡いさみしさがこみ上げてくる。

「ね、ここじゃ暑いしさ、どっか陰に行こうよ」

俺の気持ちも知らず、ココはのんきに手でぱたぱたと顔を仰ぎながら、かぱっと大口を開けて笑う。つられて俺も思わずへへ、と笑ってしまう。相変わらず、あけっぴろげな表情だ。

 切符売り場の横に日陰ができていた。俺たちはそこまで移動し、壁にもたれてしばらく取りとめのない話をした。

 今回の調査結果は、来年の国際学会までにまとめて発表するんだとか。

 俺は夏休みが終わったらテストがあるんだとか。

 そんな、他愛もない話だ。

 ココは笑ったり、ため息をついたり、俺を叩いたり(俺が“彼氏いるの?”なんて聞いたからだ)、目まぐるしく動き回る。それももう見られなくなるんだと思うと、何だか胸の中に穴が空いたような気分になった。

「……さみしい?」

突然、ココが俺の顔を覗きこんだ。あんまり急だったので、俺は思わず「がっ」とかなんとか、意味の分からない事を口走ってしまう。それが随分面白かったみたいで、ココは

「“がっ”って何、“が”って!」

と言いながら腹を抱えて笑った。俺は恥ずかしさもあって、笑いまくるココにぶっきらぼうに応えた。

「そんなに笑うなよ! 別にさみしくないし」

「うそだーあ。顔に書いてあるよ、さみしいって」

「書いてねえよ!」

「あっそ。じゃ、そういうことにしておきましょ」

澄まし顔で言いながら、ココはでっかいリュックから何かを取り出す。デジタル一眼レフと、手帳だ。

「ね、ラワン。写真撮ろうよ」

カメラを手にココはにっこりと笑う。

「そりゃ写真には写らない物もあるけどさ。でも、わたしを思い出すきっかけにはなるでしょ?」

「……わかった」

俺が頷くと、ココは嬉しそうに笑って俺の背中をばしばしと叩いた。ちょっと痛かったけど、その荒っぽさも今は心地いい。

 ココは面倒くさがって三脚を出さずに、その辺のブロック塀にカメラを置いて色々と調整していた。しばらくして、

「それじゃ、いくよー!」

タイマーを押し、走ってこっちに戻り、俺の横に立ち止まる。

 ココが俺の肩をぎゅっと抱き寄せる。

 ふわり、と日向みたいないい匂い。

 パシッ、と軽い音がした。

 確認してみると、ココはあっけらかんとした笑顔で映っているのに、俺ときたらへにゃっ、としまりのない顔で突っ立っていて恥ずかしい事この上無い。取りなおしてもらおうかとも思ったが、それも何だか自意識過剰な気がして、そのままで良いことにした。

 ココは満足げにカメラをしまうと、今度は手帳を俺に差し出して、住所を書いてほしいと言ってきた。写真を送ってくれるんだそうだ。俺は言われるままに住所とフルネームを書いて、ココに渡した。受取ったココは何かをささっと書き、それをちぎって俺に手渡した。

 そこには、住所とメールアドレス、それにココの名前がきちんとしたアルファベットで書いてあった。

「……あれ」

俺が呟くと、ココは笑って頷く。

「これが本当の名前だったんだ。桟橋じゃよく聞こえなかったから、ずっとココって呼んでた」

「そうだね。でも、“ココ”って響きがかわいかったから。それでいいやって思って、わたしもあえて訂正しなかった」

「ごめんな」

「ううん、いいよ。ママルではわたしはココ。そういうことにしておいて」

そう言って、ココはにかっと笑った。

 30分はあっという間に過ぎ、やがて、波を蹴立てて水平線の向こうからフェリーがやってくる。みるみるうちにそれは大きくなり、減速して停まる。タラップが降ろされ、ママルの人が何人か降りてくる。

「パングマハ本島行き、15時30分のフェリーです。ご利用の方はご乗船してお待ちください」

アナウンスが鳴り、集まった人が次々に乗り込んでいく。ココはよいしょ、と掛け声をかけてリュックを背負い、フェリーに向かって歩き出す。俺も一緒に乗船口まで歩いて行った。

 本当の本当に、お別れだ。

 言いたいことは山ほどあるのに、いざ口にしようとすると何も出てこない。思いは言葉になる前に胸の中でつかえてしまって、喉まで上がってこない。

 ココの背中を見ながら、もどかしくて仕方がなかった。今すぐ走り寄って、振り向かせて声をかけたいのに、何も出てこないなんて。

「……じゃ」

結局、俺がかろうじて言えたのはその一言だけだった。それすらも、ひどくかすれてしまって、彼女の耳にはちゃんと届かなかったのかもしれない。ココは妙に歪んだ表情で曖昧に笑って、タラップに足をかけた。

 言えることは、もう何もない。

 俺はタラップの後ろに下がろうとした。その時だ。

 ココがすっと振り向いた。そして数歩駆けもどると、まるで家族みたいに、俺のことをぎゅっと包み込むように抱きしめた。

「……またね」

耳元で低く柔らかな声が響いた。

 それは一瞬のことで、すぐに彼女は腕を離してすっと身を引いた。そして振り返ることなく、タラップを上り、船内に消えた。




 もう7年も前になる、そんな一連の出来事を思い出してしまったのは、ふと黄色いマヒアの香りを嗅いだからだ。甘い花の香りは、ココと呼んでいたあの人の顔を思い出させる。見る者すべてをにこにこさせずにはいられない、あの太陽のような笑顔を。

 そしてその度に、俺はあの少年の日に感じていた胸の高鳴りを思い出す。淡い初恋、と言ってしまえば簡単だが、そこにはただこがれるだけじゃない、もっと複雑な感情があった。そうじゃなかったら、あんなに必死になって彼女に色々言わなかっただろう。けれど、その感情を言い表す術を俺は持たない。そう、どんな風に言い表してみたって、きっとそれは言葉の網からこぼれてしまうだろうから。

 今年もまたハマエカマエの年がやって来た。ばあちゃんはもう九十歳をいくつか超え、少し耳が遠くなったもののまだまだ現役でエイを続けている。今年の祭りでも、中心となって役目を勤めるのだろう。ハアラ・イエは、巫女見習いは無事に見つかっているんだろうか。

 カレッジの寮からは、今日もガマア山のぽっこりとした姿が良く見える。数年前には何もなかったガマアの中腹は徐々に開発されつつあり、来夏にはリゾートホテルが新しく立つのだという。このパングマハ本島は段々と変わりつつある。

 部屋の窓からガマア山をちょっと見て、俺は荷物の再確認をした。忘れ物はないようだ。フェリーターミナル行きのバスまではまだ少し時間があるので、机の引き出しから手紙を取り出し、その文面をもう一度目でなぞる。

――次の祭りには必ず行くから、また会おう!――

 少し癖のあるアルファベットが並んでいる、遠い国からの手紙。消印はもう何年も前のものだ。

 いつの間にか笑っていたらしい。誰が見ているわけでもないけれど、取り繕うように首を振って手紙を机に置いた。けれど少し迷って、結局それは持っていくことにした。

 本当に来ると連絡があったわけじゃない。もしかしたら、来ないかもしれない。

 それでも何となく、手紙を持っていれば会えるんじゃないかという気がした。

 午後のフェリーで、あの時と同じ便でママルに行く。そうしたら、また1階席の右側最前列、窓側の席に、つんつんとした黒髪を見つけるかもしれない。

 あのまっさらな笑顔に会えるかもしれない。

 色々と想像している間に出発の時間になった。俺はリュックを担ぎ、部屋を後にした。階段を降りながら、もし会えたら何て言おうとか、俺のこと覚えているかなとか、色んな事を考えた。

 薄暗い寮を出ると、真夏の日差しがかっと照りつけてくる。爆発したような光に、世界の全てが白く光り輝いている。

 自然に笑みが浮かんでしまう。胸の中にも陽が射して、心を躍らせる。

 俺は手紙を握りしめ、子供のように夏の中へ駆けだした。


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