ハマエカマエの大祭 後編
ウラ・マクワまでの道は島の海岸線に沿って走っているから、ほとんど真っ直ぐなウラ・エンへの道よりももう少し時間がかかる。俺たちは日の入り時刻よりもだいぶ早めに宿を出て、舗装された道を走っていた。
まだ早いから大丈夫かと思いきや、俺たちの前には既に何台かの車が走っている。ハンドルを片手で握りながら、ココはため息をついた。
「まいったなあ……いい場所が取れないかも」
ココの言う「いい場所」というのが人垣の最前列を示していることは明らかだった。そりゃそうだ、祭りを記録するには、なるべく間に邪魔が入らない方がいいんだから。
でも、ココ。
「祭りを感じたいんだったら、別に最前列じゃなくてもいいんだよ」
俺の呟きを冗談だと思ったのか、ココはふふっと笑ってこちらを見た。
「何言ってんのよ」
そう言って、多分小突こうとしたんだと思う。でも、すっと伸ばした右手は、俺に触れることはなかった。代わりに、
「……ラワン?」
不審そうに呟いた。
俺はどんな顔をしてたんだろう。少なくとも、彼女に何かを感づかせるだけの力はあったみたいだ。
「ココ、お願いがあるんだ」
俺はココを見た。ありったけの力を込めて見つめた。
「……ちょっと待ってね」
ハザードランプを点け、歩道に乗り上げるようにしてジープを止める。エンジンを切った途端、風のざわめきと鳥たちの鳴き声が俺たちを包みこんだ。
ココが俺を見る。相変わらず、澄み切ったきれいな瞳だ。それに負けないように、俺は心を振り絞る。
「ココ、一つ俺の言うことを聞いてほしい」
「何? 改まって」
「ウラ・マクワでの儀式では、ココが自分の目で祭りを見てほしいんだ」
途端にココの顔がふっと緩んだ。可笑しそうに笑いながら首を振って、
「やだな、さっきだって、わたしはちゃんと見てたよ?」
そうじゃなきゃあんな良い写真とれないよ、と言う。
「そうじゃない、ビデオやカメラ越しじゃなくて、直に見てほしいんだ」
少し厳しい声で俺は言った。ココは笑いをひっこめ、代わりにきゅっと眉を寄せた。
頭の中で、次に言うべき言葉を探す。こんな風に、誰かに向かって物ごとを聞かせるなんてことは今までなかったから、心は緊張で震えている。
深呼吸して、俺は思い切って口を切った。
「最初にばあちゃんちに行った後、ココは調査を手伝ってほしいって言っただろ? 俺、すごく嬉しかったけど、ほんとはちょっと嫌だったんだ」
ココの目がはっと見開かれた。
「……嫌、だったの?」
俺は静かに頷く。ココは、少し言葉に詰まり、そう……と力なく呟いた。
「そうだったんだ……」
戸惑うように視線が揺れる。長いまつげをすっと伏せて、ココはハンドルに乗せた手を見つめる。
ココにとって嫌なことを言っているのは俺だって良く分かっていたし、こんなことを言いたくはなかった。でも、それ以上に分かってほしいという思いの方が強かった。
これから、俺はもっと嫌なことを言わなきゃいけない。ココが聞きたくないようなこと、もしかしたら、今回の調査や、今までの仕事の全部を否定するような事を言わなきゃいけない。
でも、そうしなきゃ、きっとココはいつまでも気付かない。
「どうして嫌なのか、あの時は良く分かんなかった。でも、今は何となく分かるんだ」
俺は決して目を伏せない。真っ直ぐに彼女を見つめ、ゆっくりと語りかける。
「ココ、この世界は言葉だけじゃどうにもならない、言葉の網じゃすくえないものでいっぱいなんだよ」
俺はばあちゃんの言葉を思い出しながら言った。
そうだ、この世の中は言葉じゃ言い表せない物で溢れている。それは何も、名付けられていない生き物だとか、見たことも無い虫だとかの話しだけじゃない。俺たちが分かりきっているつもりの物ごとにだって、一つの言葉じゃ言い表せない、微妙な揺らぎや隠れた意味が確かにあるんだ。生き物の体から立ち上る熱気みたいなものが。
「でも、ココの調査はそれを無視してる。言葉の持つ、硬い種みたいなはっきりした所だけを切り取って、周りの柔らかい曖昧なところは全部なかったことにしてる」
ココは真面目な顔で頷く。でも、それが本当に聞いているという事なのかは分からない。もしかしたら、俺の言葉なんて耳に入っていないのかもしれない。あるいは、今までの調査の事を振り返っているのかもしれない。
窓を開けているのに暑くてたまらない。俺の手は汗でべっとり湿っている。髪の間から汗が垂れて俺の目に入る。それでも、俺は止めない。ココに分かってもらえるまで、止められない。
「ビデオやカメラだってそうだ。記録はできても、そこには映らないものがいっぱいある。ココはそれを無視して、画面に映った物だけ見てる。だからココには分からないんだよ、きっと」
ココは静かな表情で俺を見ている。ふう、と小さく息を吐いて、ささやくように呟く。
「……だから、わたしには祭りが分からない?」
「そうだよ……ハマエカマエだけじゃない、そんなんじゃ、どんなことだって本当には分からないんだ、きっと」
黒い瞳がふらふらと揺れた。
なぜか、俺は泣きそうになった。
「ココがやってるのは、死んだ生き物の標本や化石を積み上げることだ。それだけで、その生き物がどう鳴いたとか、どんな場所で生きていたかってのを考えてないんだ」
こんな言い方をしたらココは怒るだろうか。怒るに決まっている。
そう思ったけど、彼女は俺を見たまま何も言わない。「お前に何がわかる」とか「子供のくせに」という言葉を予想していたのに、ココはただ黙っているだけだ。
「だから」
だから、俺は最後までちゃんと喋る。ココに、今度こそちゃんと思いが伝わるように、しっかりとその顔を見つめる。
「だから、やっぱりちゃんと自分の目で見て、耳でしっかり聞いて、感じるしかないんだ。ハマエカマエの祭りの熱気や、空気のしっとりした重さとか、海風の塩っぽさとか。そういうもの全部を感じなきゃ、それが分からなきゃ、どんなに言葉を記録したって、言葉だけを知ったって、本当は意味がないんだ」
何台かの車が俺たちの車を追い越して行く度に風が起き、ココのシャツを微かに揺らした。それを手で抑えるでもなく、ココはしばらく俺の目を見たまま――心は別の所にさ迷っていたみたいだけど――動かなかった。
西日がじりじりと車の中に差し込む。汗のにおいが立ち込める。
ココの額から、つっ、と汗が頬に滑り落ちた。顎まで達した時、やっと気付いたと言うように、ココはそれをぬぐった。
「……そうか」
ゆっくりと幾度か瞬きをして、ココはふっと息を吐く。それはまるで自分自身を笑っているみたいにも見えた。
俺はふっと力を抜いた。その時初めて、俺はすごく子供じみた事をむきになって言っていたんじゃないかと思って、顔から火が出そうになった。
でも、ココは俺を笑いも、叱りもしなかった。
「ラワン、やっぱり、君は大巫女様の血筋だね。多分、あの時――最初におばあ様にお会いした時に仰っていたのも、そう言う事だったんだろうね」
ゆっくりと頷いてハンドルから手を離し、腕を組む。しばらくその格好で何かを考えていたココは、ふっと顔を横に振って俺を見た。その顔は怒る前の先生みたいに少しこわばっていた。
「でもね、ラワン。仕方がないんだよ。それはわたしたち研究者の――ううん、記録や文字に頼り考える者の、宿命みたいなものだよ」
そうでしょ? と手を振りながらココは言う。
「色んな物の本質の部分、核となる部分だけを切り取って記録する。それだって大切なことでしょう? 言葉や客観的な記録というのは、誰がいつ見たって変わらないものだから。平等で普遍的なものだから。例え、それが君の言う“死んだ生き物の標本や化石を積み上げる”だけの行為だったとしてもね。あのね、ラワン。客観的なものを扱うのがわたしの仕事なんだよ」
こんなときでも、ココの口元は少しだけ笑みの形に引き上げられている。けれど、その赤い唇から出る音の響きは硬い。黒い瞳には三日月に似た鋭い光がある。
「それに、ラワンやおばあ様の言う“言葉じゃすくえないもの”“記録には残らないもの”っていうのは、結局はその場限りのもので、どう頑張ったって残すことはできないんじゃないかな。言葉ですくえない曖昧なもの――気持ちだとか、雰囲気だとか、そういうものを再現するのは、文学や音楽みたいな芸術の仕事だよ」
硬い声音で一気にそう言い、ココは挑むようにこちらを見る。
俺は少しひるんだ。けれど、頭の中に静かに浮かび上がって来たことを、素直に彼女に向けて告げた。
「でも、ココは誰かに伝えるんだろ? ここで教わったこととか、知ったことを」
「うん、一気に全部は発表できないけど、少しずつ、どこかではね」
「例えばさ、マヒアの花の甘い匂いとか露のきれいさをココ自身が知らないのに、“マヒア・レイレイ”っていう言葉がどんなにきれいで、パングマハらしい言い方なのか、説明できると思う?」
「それは……」
勢いのあった口調が一気にしぼんで、戸惑うように揺れて消える。
背筋を伸ばし、真っ直ぐにその顔を見て、俺はゆっくりと言った。
「ココの言うとおり、曖昧なものなんて必要ないのかもしれない。その場を離れたら意味の無いことなんて、削っちゃえばいいのかもしれない。それでもさ、そういうものがあるんだってことを分かってるだけでも、きっと違うと思うよ」
ココは、しばらく硬い顔つきでうつむいていた。
熱い午後の風が窓から入り込み、俺たちの顔をなでて通り過ぎて行く。
ジャングルの木々がざわざわと身を揺らす。
狭く暑い車の中は、手で触れられそうなくらい重いものでいっぱいだった。
俺は身じろぎもせず、ただココの顔を見つめていた。
ふっと、ココの頬が緩んだ。シートに体を投げ出し、ふふっと笑う。
「そうね……ラワンの言うとおりかも知れないね」
そう言うと、ココは右手をすっと伸ばし、いきなり俺の頭をくしゃくしゃっとかき回した。柔らかい手にもみくちゃにされて、俺は思わずわわわっ、と悲鳴を上げてしまった。
「な、何すんだよ!」
「うるさい、さっきから生意気なことばっかり言って」
ふざけたように言って、俺の頭をぽん、と突き放し、ココはははっ、と軽やかに笑う。その目には、いつも見る明るい光が宿っていた。張り詰めていた心の糸がふっと切れて、俺も思わず顔を緩めてしまった。
俺の言葉は、決して完璧じゃなかった。
でも、きっと全身で伝えることができたはずだ。
「ねえ、ラワン」
俺の方に体ごと真っ直ぐ向き直り、ココはきっぱりと言う。
「君の言うとおり、わたしはこれからも色んな物を網ですくっては、沢山のものをこぼしていくと思う。それだけは変えられないよ。それが、わたしの一生の仕事だから」
ハンドルをぐっと握る。俺は真っ直ぐに彼女を見る。
「……でもね、どうやったらこぼさずにいられるのか、真剣に向き合って考えて大事に記録する。こぼしてしまったものがある事を、忘れないようにしておく」
俺は頷き、右手をぐっと伸ばして親指をぴんと立てた。
ココも同じようにして手を伸ばし、俺の親指に自分の指をくっつけ、
「ありがとね、ラワン」
穏やかに笑った。
ウラ・マクワにはすでにかなりの人がいて、俺たちは完全に出遅れていた。人垣がそれほど密じゃないのをいいことに、俺たちは「すいません」「ごめんなさい」を連呼して人と人の間を通り、何とかかんとか前に出ようと頑張った。幸いにも、人垣の中にたまたまココを知っているおばちゃん(この数日間、商店でよく会ったんだって)がいて、俺たちの事をかなり強引に前に押し出してくれた。
「ほらほら、偉い学者さんがご覧になるって言うんだから! ちょっと通してよ!」
「いや、違います、偉くないんです全然……」というココのか細い声は無視されたが、その代わりに俺たちはかなり前の方に陣取る事が出来た。
「やったな、ココ」
「……うん」
人々の視線の中、恥ずかしそうに頷くと、ココは半ばヤケクソのように勢いよく三脚をぶっ立て、ビデオをセットした。
やがて、始まりの時と同様に静かに人垣を割り、まずはカヌーと漕ぎ手の兄ちゃんたち、そして巫女見習いたちが現れた。カヌーを、目玉飾りが海を向くようにして渚のぎりぎりに置き、巫女見習いのおばちゃんたちは海を背に立つ。カヌーの両横には漕ぎ手の兄ちゃんたちが立ち並び、いつでも出発できるようにオールをしっかりと抱えている。
続いて6人のハウエが、そしてエイであるばあちゃんが登場する。ばあちゃんはもう八十歳を数年前に超えているのに、この長い一日にも全く疲れを見せず、凛とした瞳でしっかりと歩いてきた。人垣の中から、ばあちゃんに向かって拝む声が上がった。
そして、太陽の娘が姿を現す。
頭に付けた花は赤いラクラクから、黄色いマヒアに代わっていた。暗くなってから花を閉じるマヒアは、“夕日の花”とも呼ばれるんだと、ばあちゃんが言っていたっけ。
人々はしんと静まり返り、波打ち際に集中していた。俺たちも一言も喋らず、聖なる女たちを見ていた。ちらりとココの顔を見上げると、胸の前で緩やかに手を組みながら、静かに巫女たちを見つめている。俺はちょっと安心して、その隣に立って同じように前を見た。お互い目は合っていなくても、何だか見えない力で繋がっているような気がした。
強い風に吹かれて、女たちの白い衣装がはたはたと揺れる。その向こうに広がる海はオレンジ色に輝き、鮮やかに赤い太陽は今にも水平線に接しそうになっている。
エイがすっと手をあげた。太陽の娘ハアラ・イエを囲むように、海に向かって開かれた半円に女たちが並んだ。
尊い娘よ
(太陽の娘よ)
陽はすでに海の彼方へ
(太陽はすでに沈み始め)
別れの時が来た
(去るべき時が来た――)
離別の歌が浜に静かに流れる。迎えの時とは違うしっとりとした旋律、そして辺り一面を染め上げる夕焼けの光にさみしさと心の震えを感じて、俺はそっとため息をつく。
一日が終わる。7年ぶりの祭りが終わる。
偉大なる娘は、次は7年後にやってくる。
けれども、その時に、彼女を迎える者はいるんだろうか。
そこにもう、エイはいないかもしれない。
ハウエと巫女見習いの数はさらに減っているかもしれない。
だから、俺はしっかりとハマエカマエを見た。
心を開き、目を広げ、歌の旋律、舞いの優雅さ、全てを体に刻みこむように見た。
歌が終わり、島の聖なる女たちは一列に並んでハアラ・エイをその故郷、太陽へと送るためにカヌーに取りついた。
ハアラ・イエはカヌーに乗り込み、中心にしっかりと座り込む。その両脇に数人の男が乗り、オールを構える。
掛け声とともに、女たちがカヌーを海へと押し出す。
14人の女の力で聖なるカヌーは砂を離れ、ざん、と波を割って海へ乗り出した。すかさず兄ちゃんたちがオールで海底の砂を押し、前へ前へと船体を押し進める。オールが付かなくなった所で海水を掻き、ゆっくりとハアラ・イエを導き始める。
沈みゆく太陽の方へ。
聖なる女たちは、俺たちは、両手を合わせて祈りながらハアラ・イエのカヌーを送った。再びの来訪を願い、祈りながらいつまでもその姿を見つめていた。
カヌーは輝く海面の上を小さな黒い点になり、きらきらした光に包まれながら遠ざかって行った。
エイやハウエのおばさんたちは、いったん浜の後ろにあるジャングルの奥に引っ込み、次に出てきた時には普通の服に戻っていた。カラフルなシャツやスカート、ジーンズ、足元にはサンダル。ハアラ・イエのカヌーも帰ってきて、太陽の娘を演じたリアンは沢山の人にもみくちゃにされながら浜を後にした。髪の毛には、もうマヒアは飾っていなかった。
すべてが終わったんだ。
「……はあ」
ココが大きく息をついた。顔を見ると、そこにはぼうっと夢を見ていたような表情が浮かんでいた。
「どうだった?」
ココはこっちを向くと、へへへ、としまりなく笑って頭を掻いた。
「まあ、祭りの空気にどっぷり浸かることはできなかったけど……でも、さっきより奥には入り込めたかな」
「それで充分だよ」
「そう? なら良かった」
ココはビデオの電源を切りながら、ちゃんと撮れてるかな、と呟いた。最初に画面を確認して録画ボタンを押したっきり、一切触れていなかったのだ。
「まあ、ダメならまた7年後に来ればいいんじゃない?」
三脚を畳みながら言うと、ココはあはは、と快活に笑った。
「そうねえ、まだまだおばあ様もお元気そうだしね。そうするわ」
そういって、軽く俺の頭を小突いた。
のっぺりと赤い夕陽が海にずぶずぶと沈んでいく。今日が終わる。
夕風に吹かれながら、俺たちはしばらくオレンジにきらめく海を見つめていた。
それぞれに、心の中で静かに考えごとをしながら、祭りの後のさみしさと、胸の中にすっきりと吹く風を感じていた。