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南の島の異邦人  作者: 沖川英子
6/8

ハマエカマエの大祭 前編

 夜明け前の海は風が強く、少し波立っていた。

 ほんのりと白んだ空と群青色の海は、太陽の気配を感じて少しずつ明るくなりつつある。少し沖に出た所には普通のより少し大きめのカヌーが一つ。その上、数人の男たちが左右に分かれてオールを持って準備している間に、白いものがぽつんと見える。

「あれがハアラ・イエ――太陽の娘、ね」

ビデオカメラを三脚に固定しながら、ココが呟いた。俺はココのデジタル一眼レフであちこち試し撮りするのを止めて、ズーム機能で海を見た。沢山の飾りが彫られたカヌーに乗る女の人――確か、“アグラズストア”店主・アグラさんとこのリアンだ――の表情はいくら高性能のカメラでもここからでは分からない。それでも、緊張しているんだなというのは、ぴんと伸ばされた背筋から想像ができる。

 ウラ・エンにはすでに百人以上の人が集まっていた。ハマエカマエの祭りは日の出とともに始まるから、確実に最初から見たければ日の出前に来るのが一番。そう考えた人たちが次々に徒歩や自転車やバイクや車で駆けつけ、砂浜に期待顔で待っている人の輪の中に吸い込まれていく。

 俺とココは人垣の一番左端の最前列を陣取っていた。真ん中の方がいいんじゃないかとも思ったけど、ココいわく、それじゃカヌーとエイやハウエたちが「かぶって」しまって、うまく映像が撮れないのだそうだ。

 言われてみればそれもそうだ、と俺が納得して沖を見ながら頷いていると、ココが何やらもそもそしはじめた。見ると、リュックから折り畳み式の小さな椅子を二つ取り出して広げてるんだ。

「場所取りからここの儀式の終わりまで、ずっと立ってると大変だから」

だって。これには俺も驚きを通りこして笑ってしまった。ココは祭りでのポジションや記録方法について、かなり念入りにシミュレートして作戦を立ててきていたようだった。

「沢山、人が来てるな」

ぞくぞくと集まってくる人々を見ながら、俺は思わずため息をついた。なんだ、ばあちゃんやメレおばさんは祭りが無くなるみたいな言い方をしてたけど、結構なにぎわいじゃないか。

 でも、ビデオカメラの液晶を見ていたココは苦笑しながら首を横に振った。

「よく見てごらん、ラワン。若い人はほとんどいないでしょ?」

「え? そうかな」

椅子から立ち上がって、俺は待っている人々の顔を見まわしてみる。すると確かに、並んでいるのは俺の両親よりも年をくった人ばかりで、俺みたいな子供はほとんどいない。赤ちゃんや本当に小さい子がじいちゃんばあちゃんに抱っこされているくらいだ。

「今は良くても、ね」

ココの顔にはわずかな陰りがあった。それでも、いよいよ祭りが見られるからだろうか。ココのほっぺたはほんのりと赤く、静かに興奮しているようだった。

 人垣の一部が割れて、おお、というどよめきが上がる。俺たちは声の方を見た。

 白い前閉じの上着とくるぶしまでのスカートみたいな衣装に身を包み、頭にヤシの葉の冠をつけたばあちゃんが裸足で歩いてくる。その後ろにはメレおばさんたち6人のハウエ。そして、そのさらに後ろには巫女見習いのおばちゃんたち。数えて見ると7人いる。

 いくらママルが小さな島だって、軽く百人以上は女の人がいるはずだ。俺はびっくりしてもう一度数え直してしまった。でも、間違いない、たったの7人しかいなかった。昔ながらのしきたりを守って祭りの後継者になる人間が、それだけしか見つからなかったってことだ。

 ばあちゃんやココの言っていた「祭りが消える」という意味が、ようやく分かった気がした。

 ピッ、と軽い機械音を立てて、ココのビデオカメラが動き出した。

 渚まで出てきたママルの聖なる女たちは、太陽が出てくるのを待つように波打ち際に立ち、じっと東の水平線を見つめている。

 祭りが始まるまであと少しだ。集まっている人々は期待で潮騒のようにざわめいている。けれど、そこにはさっきまでのだらだらと集まっていた時にはなかった緊張がある。

 俺もカメラをしっかりと構え、いつ何が起きても良いように備える。ちらりと横を見ると、そこには、立ちあがって真剣な顔でビデオを見つめるココの横顔がある。

「……ねえ、ココ」

ひっそりと俺は呟いた。頭の中で考えていることが、ぽろぽろとこぼれるように口から出た。

「何でココは、そんなに一生懸命にママルの物を残そうとしてるの? 自分の島じゃないのにさ」

 海風がざざっと背後のジャングルを揺らす。俺の黒いシャツをはためかせて、俺たちの間を通り抜ける。少しだけ、肌寒い。

 ココが俺を見た。そして、ふんわりと優しく笑った。

「……わたしの国ではね、長い事、元々の言葉を使うのが禁じられていたの。やっと使っても良くなった頃には、もう誰も元の言葉を話せなくなってた。誰も風や雨の名前を知らない。この海の色を表す言葉を知らない。言葉が無くなったら、昔からあった色んな概念や価値観が、全部無くなっちゃった」

 水平線の向こうが赤くに輝き始めた。俺のばあちゃん――島で一番の力を持つ大巫女・エイがすっと両手を横に伸ばす。両脇をハウエたちが固め、その列の後ろに見習い巫女たちが並ぶ。

「それにね、わたしはパングマハが、ママルが好きだから。カノさんの研究や、色んな本や、テレビやインターネット越しだったけど、それでも、ずっと惹かれてきたから。だから知りたいし、守りたいの。それだけ」

 海の向こうが赤く染まった、と思った次の瞬間、熟れたマンゴーみたいに瑞々しい赤が遥か彼方に現れた。微かに棚引く雲に邪魔されながらも、それは確かに神々しい光を放っていた。

 日の神が来て、夜が明けた。

 浜に集まる巫女たちが一斉に両腕を高く上げ、左右に揺すりながら踊りだした。ゆったりとしたリズム。まるで、寄せては返す波みたいな。

 古い古い言葉だけれど、ココの調査に付き合った甲斐もあって、俺には歌詞の意味がなんとなく分かった。

 

 ウラ・エンにやってきた

 (東の浜にやってきた)

 あれ 見てごらん

 (それ 見てごらん)

 美しい娘だよ

 (輝く娘だよ)

 長い髪は美しい糸のよう

 (黒い髪はきらめく糸のよう)

 さあ 手を挙げて呼ぼう

 (そら 舞い踊って呼ぼう)

 太陽の娘を

 (聖なる娘を――)


 エイの声を追うようにして、他のハウエや見習いたちがよく似てるけど少し違う詞で歌う。伴奏の楽器もないままに、声を張り上げて歌う。民謡みたいに裏声やきれいな節回しは使わない。地のままの声でゆっくりと歌う。

 その声に合わせるように、島の兄ちゃんたちがカヌーを漕いでくる。陽が昇るにつれ、段々と太陽の娘、ハアラ・イエが近づいてくる。

 巫女たちの歌と踊りが始まってしばらくは、ああ、これが祭りかと思っただけだった。ゆったりとうねるリズムに、眠くなるんじゃないかなあ、なんて心配したりもした。何しろ、今朝はとんでもない早起きだったんだし。

 ところが、幾度も繰り返す歌を聴いているうちに、何だか胸の中がざわざわして落ち着かなくなってきた。集まっている人たちもどうやらそのようで、初めは静かだったのに、いつの間にか小さな呟きがいくつも集まって、さわさわと浜を揺らしている。俺はそっと後ろを振り返った。

 白髪頭のどこかのばあちゃんが、お祈りの形に手を組んで目を閉じ、何かを呟いている。

 目抜き通りの肉屋のおっちゃんが、歌に合わせてゆっくりと体を揺すっている。

 集まっている人みんながそれぞれの思いを持って、海を、ママル島の代表である巫女たちを、そして近づきつつある太陽の娘を、じっと見つめている。

 人々の熱がウラ・エンを満たしている。

 俺はシャッターを切りながらも、祭りを見たくて仕方がなかった。ファインダー越しにじゃない、ちゃんと自分の目でみたかった。歌や、踊りや、浜を浸す熱気の中で、ハマエカマエの祭りを体全体で感じたかったんだ。

 それでも、ココを手伝っているんだから、なるべく我慢しなきゃいけない。俺はカメラを覗いて何度もシャッターを切る。ちらりとココを見ると、落ち着いた表情でビデオカメラの液晶画面を見ている。

 ハアラ・イエが近づくにつれ、陽が昇るにつれ、エイやハウエたちの歌のスピードが変わって来た。さっきまでのゆったりしたものから、段々早くなって行く。歌い方もより力強くなっていく。


 美しい娘を迎えよう

 (輝く娘を迎えよう)

 鉤付き棒は折れてしまう

 (長い棒は役に立たない)

 髪の網はちぎれてしまう

 (髪の網は役に立たない)

 女たちの祈りがいい

 (女たちの呼び声がいい)

 女たちの踊りがいい

 (女たちの舞いがいい)


 そこまで歌い終わった途端、それまでゆったりと舞っていたエイたちは手をパン、と打ち鳴らした。そしてその音の余韻が消えないうちに、

『ラア、ラア、ラア!』

と大きな声で叫びながら海に向かい、手拍子を始めた。中には足を踏みならしている人もいる。高く結った長い髪が乱れ落ちるのも気にしないで、一心になってハアラ・イエを呼んでいる。

 潮風を蹴散らし大地を揺らすようなその声を聞いた途端に、急に胸の中で何かが弾けた。俺はカメラから目を離した。

「ココ、ごめん」

俺は首からストラップを外し、カメラをココに押し付けた。ビデオカメラに見入っていたココはかなりびっくりしたみたいだったけど、それでもちゃんと落とさずにカメラを受け取って構えた。

 俺は椅子から立ち上がり、巫女たちと一緒になって、

「ラア、ラア、ラア!」

と手を打ち鳴らした。気がつけば、浜に集まる人々はみんな、俺みたいに叫びながら手を打っている。みんなして、祭りの熱にさらされて興奮の中で待っている。

 太陽の娘、ハアラ・イエの上陸を。

 きっと、昔の人たちもこんな風にしたんだ。ふと、そんな気がした。きっとみんなで、子供も若いのも年寄りもみんな集まって、一緒になってハアラ・イエを呼んだんだ。

 それを俺たちは覚えている。ママルの人間は生まれる前から知っている。あの特別な歌と踊りがそれを思い出させる。だからみんな、こうやって一緒になることができるんだ。

「ラア、ラア、ラア!」

俺は叫んだ。力いっぱいに手を打ち鳴らし、心の奥底から声を出した。

 寄せる波のおかげだろうか、ハアラ・イエは太陽が昇りきる前に浜に着きそうだった。

 もうあと少しで上陸する。

 俺たちに、大切なことを教えに来る。

 ざざ、と木のカヌーが砂を擦る音がした。集まっている人たちが、はっと息を飲む。

 エイとハウエたちがカヌーを取り囲む。その外側に7人の巫女見習いたち。エイ以外はみんな頭を下げて、両手を胸の前で合わせている。

 目玉の飾りのついたきれいなカヌーから、ハアラ・イエが降り立った。

 頭には太陽みたいに真っ赤なラクラクの花をつけ、巫女たちと同じ白い衣装を身にまとっている。長く波打つ黒髪を背中まで垂らして、すっとウラ・エンの砂の上に立つ。

 それは一人の人間じゃなかった。特別な力を持つ聖なる者だった。

 エイが、島で最も尊い女がハアラ・イエの手を取る。太陽の娘に触れる資格があるのは彼女だけだ。エイはそっと娘の手を引き、浜の奥へと誘う。その後にハウエと巫女見習いが続き、二人が止まったところでさっと取り囲むように並ぶ。

 エイが、しわがれた、でも遠くまで響くような声で歌い始める。


 尊い娘よ

 (太陽の娘よ)

 我らはあなたをお迎えします

 (霊威持つ女たちがお迎えします)

 我らにお教え下さい

 (子供にお教え下さい)

 神々に取りなす術を

 (神々に語りかける術を――)


 ハウエと巫女見習いは、ふわりふわりと白い上着の袖を翻して、雲みたいに娘の周りを舞う。ハアラ・イエはじっと動かずに、まるで遠くの誰かを見ているように一点を見つめている。長い黒髪だけが、朝日を浴びて輝きながら別の生き物みたいに風になびいている。

 俺は、俺たちママルの人間は、巫女たちと一緒になって心の中でハアラ・イエに語りかけていた。

 

 どうか教えて下さい、尊い娘よ。

 どうしたら漁に出る男たちは無事に帰ってくるのか。沢山の魚を積んでくるのか。

 どうしたら山に入る男たちは無事に帰ってくるのか。山の恵みを持ってくるのか。

 どうしたら畑に出る女たちは無事に帰ってくるのか。タロイモを積んでくるのか。

 どうしたら小さな子供たちは無事に育っていくのか。すくすくと大きくなるのか。


 歌が終わった。島の巫女たちはみなその場に座り込み、手を胸の前で交差させてじっと太陽の娘を見つめる。

 ハアラ・イエがすっと厳かに手を伸ばし、エイの額に触れる。

 そのまま動かない。

 誰も喋らず、息をするのも忘れたかのようにじっとその光景を見つめている。

 ざん、ざざん、という波音だけが広いウラ・エンに響く。


 娘がエイの額から手を離した。


 その途端に、人々が一斉にほっ、と息を吐いた。それは一瞬だったのかもしれないけれど、俺たちママルの人間にとってはとてつもなく長い時間だった(後でココのビデオを確認したら、なんとたったの10秒足らずだった!)。

 エイが立ち上がり、ハウエたちの前を巡りながらその額に手を当てる。6人全員にそれをやった所で、ハウエたちが一斉に立ち上がる。

 エイとハウエは、両手を胸に当てて、ハアラ・イエに深々と頭を下げた。

 聖なる娘に認められ、彼女たちは島の巫女として、改めて神々と語る資格を手に入れたのだ。

 それはママルの人々にとって、居並ぶ巫女たちにとって、深い意味を持つ瞬間だった。


 その後は短い歌があって、ウラ・エンでの儀式は終わった。

 ハアラ・イエと巫女たちは人垣を割って(というか、集まった人の方が道を開けたんだけど)浜を去り、後に残されたカヌーは漕ぎ手の兄ちゃんたちが担いでいった。浜の後ろ、道路を挟んだ向かい側はジャングルが広がっている。その中にきっと秘密の道があるんだろう。

 ざわざわとしたお喋りが戻った。さっきまでの熱心な様子はどこへやら、浜にいる人々の間には、集まった時と同じ、だらだらとしまりない空気が漂っている。そのうちに、集まってた人たちは、口々に何事かお喋りしながら散って行った。

 俺はその場から動くことができず、ぼーっと海を見ていた。それ以外何もできなかった。ものすごいパワーにさらされて、頭の中がからっぽになってしまったんだ。

 とてもすごいものを見た、けれど、それはもう終わってしまった。

 俺たちを突き動かしていた大きな力は消えうせて、目の前にはただ広い砂浜と海だけが広がっていた。

 ぽん、と背中を叩かれてはっと我に返った。

「大丈夫?」

ココだった。首からカメラを提げてにやりと笑っている。

「もう、大変だったよ。ラワンが手伝ってくれないからさ。ビデオのズーム調節しなきゃいけないわ、カメラは撮らなきゃいけないわ……」

「ごめん、ココ」

祭りに見とれて仕事を放棄したなんて、これじゃ調査手伝いどころか単なるお荷物だ。俺は頭を下げると、代わりに器材の撤収をした。と言っても、ビデオカメラを外して三脚を畳み、よいしょ、と肩に担ぐ、これだけなんだけど。

「次のウラ・マクワでの送りの儀式には時間があるね。家で一眠りしてきてもいいよ」

ざくざくと浜を歩きながらココが言う。俺はううん、と首を振った。

「ココはどうすんの?」

「わたし? 一旦宿に戻って、さっきカメラで撮ったものを全部パソコンに移す。ついでに映像も確認して、今までおばあ様から聞いた内容とちょっと比較してみようかな」

「そう言うと思ったんだ。俺も手伝う」

「ありがと」

顔をくしゃくしゃにして笑うと、ココはジーンズのポケットから車のキーを取りだした。今日は宿から一日車を借りる手はずをしているのだ。荷物を後部座席に積み込むと、俺は助手席に乗り込んだ。バン、と音を立ててドアを閉めると、しばらくしてオンボロジープはよたよたと道路を走り始めた。

「でも、びっくりしたなあ」

ギアをいじりながらココが呟いた。

「何が?」

「お祭り中のみんなの様子。ていうか、ラワンもだけど」

緩やかなカーブを曲がり、ココはちらっと俺の顔を見る。

「みんな、ものすごく盛り上がってたでしょ? 最初は静かだったのに。わたし、何事かと思ってすごくびっくりしちゃったよ」

俺は真っ直ぐに前を見るココの横顔をじっと見つめた。穴が開くほどに見つめた。

「……ココは、何も感じなかった?」

「え?」

一瞬こっちを見て、また前を見る。そろそろ舗装された道路を離れてジャングルの中の脇道に入らなきゃならない。それを見逃さないように、ココはちょっと運転に真剣になっている。

 俺は、もう一度聞いた。どうしても確かめたかった。

「ココは、何も感じなかったの? ばあちゃんたちが歌ってる時。ハアラ・イエが浜に着いた時」

「ああ」

体がぎゅっと右に揺さぶられる。ココの運転は結構荒い。舗装されていない道に入って、車は一度大きく上下に揺れた。

「そうだね……確かに、すごかったかも。大昔もあんな感じだったのかな」

車がまた大きくバウンドする。ココはハンドルをしっかりと握りながら、ちらっとこちらを見て何とも言えない笑みを浮かべた。

「でもさ、あそこまでみんなが熱狂的になるとは思ってなかったから。わたしはちょっと……入り込めなかったな」

道はますます悪くなったので、それきりココは運転に集中して口を閉ざした。

 俺は今聞いたことが信じられず、茫然としていた。

 ココには分からなかったんだ。

 俺の隣にいて、最初から最後まで祭りを見ていたのに、伝わらなかったんだ。

 俺たちの思いが。巫女たちの力が。ハアラ・イエの尊さが。

 あんなにママルの事を好きでいてくれて、無くなりそうなものを必死に残そうとしてくれているのに。

 真剣な顔でハンドルを操作するココの真横にいるのに、何だか彼女がすごく遠く感じられた。俺はショックを受けながらも、揺れるジープの中でじっと考えていた。

 ココが祭りの力を感じられなかったのは、外国の人間だったからだろうか? それはあるかもしれない。ばあちゃんが言ってたじゃないか、島の人間じゃなきゃ祭りのことは分からないって。

 でも、それだけだろうか。

 この島に来て、花に見とれ、ちょうちょを喜び、島の人々の笑顔を生み出し、ばあちゃんの言葉を誰よりも真剣に聞いていたのに、ハマエカマエの大きな力を全然感じられなかったなんて、そんなことがあるんだろうか。

 ココは間違いなく、ただ二、三日島にいるだけの観光客よりも深い所にいたはずだ。俺たちママル島の人間の傍にいようとしてくれていたはずだ。

 それなのに、どうしてなんだろう。




 集落を通り抜け、しばらく坂を上がると白い壁に青い屋根の家が見えてくる。

「やれやれ、やっと着いた」

ココは低速で運転していたジープをさらに減速し、その横の草むらに停めてエンジンを切る。

 俺はドアを開けて降車すると、後部座席から荷物を取り出して肩に担いだ。

「ありがと、ラワン」

ココは荷物を持たない代わりに、俺のために重い木のドアを開けてくれた。 

 宿のおじさんやカウラたちに挨拶して、俺たちはフロント横の階段を登り、二階の突き当たりの部屋に入った。

 白い壁で四方を囲まれた部屋の中には、木のベッドと、これも木でできた小さなテーブル。その上にはノートの山がどっさりと今にも崩れ落ちそうに積まれ、紙とペンが散乱している。隅っこにはフェリーの中で見たあのでっかい青いリュックがでん、と座り込んでいる。ここ数日で見慣れたココの部屋の風景だ。本当に寝るだけの小さな部屋だけど、きれい好きなカウラのおばさんのせいでいつも清潔に保たれていて、髪の毛一つ落ちていない。

 ベッドの足もとにある小さな荷物置き場に、ココは背負っていたリュックを下ろした。

 机の上の紙類を適当にどかすと、フロントから引き取って来た自分のノートパソコンをどん、と置き、ケースを開けてアダプターを繋ぐ。

「ラワン、悪い。さっきの出してくれる?」

「わかった」

ココがパソコンを立ち上げている間に、俺はビデオとカメラをケースから取り出した。

 軽やかな音がしてパソコンが起動する。俺はまずカメラを手渡した。ココはケーブルを繋いでカチカチと何回か操作する。

「あら、こんなに撮ってた」

百枚を軽く超える写真が取り込まれていく。その作業を横目で見ながら、俺は確認のためにビデオカメラの映像を再生してみた。

 巫女たちの歌声が細く聞こえる。その声は、浜で聞いたのに比べて随分と単調で、奇妙で、なんだかおかしい。一つの言葉を無理やり引き延ばして喋っているみたいな感じだ。

 踊りもふらふらと酔っ払いみたいな動きで、神秘性の欠片もない。浜で見た時みたいな心を揺さぶられる感じや、重々しさが無くなくなってる。

 なんだこれ、ヘンなの。

 そう笑おうとして、俺ははっと気が付いた。

 もしかして、ココにはこんな風に聞こえ、見えていたんだろうか。俺たちが心の底から同調していた、巫女たちの荘厳な歌と舞いが。

 部屋は暑いのに、ぞっと鳥肌が立った。俺は思わずココの顔を見た。彼女は気付かずに、カチカチとマウスを弄りながら「これ、没」だの「これは、あり」だの呟いている。

 ビデオの再生を止め、俺はココの傍に寄ってパソコンの画面を覗き見た。ココはアルバムを立ち上げて、取り込んだ写真を選定していた。

 俺の気配に気づいたココはちょっと体をどけた。

「ほら見て、ラワン。これは良く撮れてるでしょ」

にっこりと満足げに笑い、今画面に出ている写真を指差す。

 それは、ハアラ・イエが上陸し、エイに霊力を授けている場面だった。太陽の娘は右手を伸ばし、島一番の大巫女の額に手を当てている。

 それは、ハマエカマエの一番大切な瞬間のはずだった。

 けれども、その写真に写っていたのは、ただの島の女と、しわだらけの小柄なばあちゃんだった。

 あの時の二人に満ち溢れていた神々しさ、ハアラ・イエの尊さ、エイの威容は砂粒一つほども現れていない。

 ね、わたし、結構な腕前でしょ? いい写真が撮れたよ――

 ココの声が遠くでする。俺は画面を見つめながら、何も言えなかった。

 どういうことなんだろう?

 ココは客観的に、研究者の立場で記録を残したはずだ。大切なシーンをちゃんと選んで撮ったはずだ。それなのに、何だかおかしなことになっている。ハマエカマエの祭りは奇妙で、へんてこで、退屈な物になっている。

 熱狂していた俺たちの方がおかしかったんだろうか。

 ココが立ち上がって部屋の窓を開ける。朝の涼風がそっと部屋に入り込んでくる。

 俺はベッドにぼすん、と座り込んだ。ココが笑いながら何かを言ったようだったが、俺の耳には届かなかった。今見た奇妙な写真と動画が頭の中でぐるぐると回って、何も考えられなかった。

 朝風がすうっ、と俺の頬をなでる。


 ふっと、ばあちゃんの言葉が蘇った。


 ――言葉は全てをすくいきれない。その物の持つ空気や雰囲気や思い、裏の意味、言葉の網からこぼれたものは、記される事もなく、はなから無いものとされていつか消え去ってしまう――

 初めてココをばあちゃんに引き合わせた時に聞いた、謎めいた言葉。あの時は、正直言ってよく分からなかった。

 曖昧な物。

 雰囲気、思い、露わにされない意味。

 歌の響き、動きと動きの間の緊張感、海風の重い湿気と匂い。浜に満ちる熱気。

 こぼれ落ちて、記録されずに消え去ってしまうもの――


 頭の中でもやもやとしていた物が、風ですっと吹き飛ばされたみたいだった。しんと晴れた頭の中に、残された思いがあった。

 ばあちゃんはあの時、言葉を例に取った。

 でも、言葉だけじゃないんだ。

 ばあちゃんが言おうとしたのは、それだけじゃなかったんだ。

 俺はやっと、その本当の意味に気が付いた。


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