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南の島の異邦人  作者: 沖川英子
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調査 後編

 夕日は山の向こうに隠れてしまって、こちらから見ることはできない。けれど、西の方を見てみると、空にはまだ赤の名残がある。そのまま首をめぐらせてみれば、空のてっぺん近くからは赤の中に紺が混じり始めていて、東に行くにつれどんどん濃くなって行く。真東に目をやると、何となく空が薄明るい。ジャングルの木々で見えないけれど、多分もう月が出ているのだろう。

 ばあちゃんちでの調査は昼過ぎから夕方まで続いた。向こうを出てからゆっくりと歩くうちにいつの間にか太陽は去り、家が近づいた今では深い宵闇が忍び寄ってきていた。足元はもうかなり暗いし、ジャングルの中はそこかしこに暗がりがわだかまっている。鳥たちのぎゃあぎゃあという鳴き声もだいぶ静まり、空には大きなコウモリがふらふらと飛び始めている。

 ばあちゃんから沢山の言葉を収穫できたココは上機嫌だった。今日だけで祭りの準備に関する事はほとんど説明してもらえたから、明日からはハマエカマエの祭りそのものの言葉を集めることになる。とはいえ、お祭りの歌の歌詞になると相当な長さがあるから、あと1日やそこらじゃ終わらないだろうというのが、ばあちゃんとココ共通の意見だった。でも、ハマエカマエの本番まではまだ7日もある。それまでには調査は終わるだろう。

 ずっと歩いてきた主要道路から目抜き通りを抜け、もうすぐ分かれ道に差し掛かろうという時。

「ね、ラワン」

ココが声をかけてきた。数歩先を歩いていた俺はくるっと振り返った。

 薄闇の中に、ブラウスにスカート姿のココがほの白く浮かび上がる。夕闇に咲く白い百合の花みたいに、すっとした姿。なんだかきれいだなと思って、そんな事を思ったこと自体にちょっとびっくりしてしまう。今まで、誰かを見てこんな風に思うことなんてなかったのに。

「な、なゃんだよ」

その心のざわめきが表に出てしまったのか、思いっきり変な返事をしてしまう。ココはちょっと不思議そうな顔をしていたが、俺がもう一度「何だよ」とちゃんと言うと、うん、と微笑みながら言った。

「あのさ、明日も暇?」

「まあ、夏休みだから、学校はないけど……」

「そうなんだ。じゃあ、時間はあるんだね」

すっと近寄り俺の顔を覗き込む。

 何かある時そうやって人の顔をじっと見るのが彼女の癖なんだと、長い時間一緒にいるうちに気付いていた。それでも、見つめられた途端にとん、と胸を突かれたような気がした。

 澄んだ湖みたいな瞳が真っ直ぐに俺を見る。

「あのね、ラワン。君、明日もわたしの手伝いをする気はない? というか、調査が終わるまではずっと一緒に手伝ってくれないかな?」

急に世界が無くなって、俺とココだけが空に浮かんでいるような気がした。「ずっと一緒に」という柔らかい響きだけが頭の中をぐるぐると回る。

「手伝いって、またばあちゃん家に連れて行けばいいの?」

何とか普通に応えているけど、胸の中では心臓が釣り上げられた魚みたいに飛び跳ねまわっている。顔が熱くなっているのが自分でも分かって、誤魔化すためにほっぺたをさすってみたりする。

「ううん、それだけじゃなくて、ノートの整理とか、録音した音から言葉を拾う作業とか」

ココはなんだかんだと色々説明していたみたいだけど、俺はろくすっぽ聞いていなかった。母さんのお説教を右から左に聞き流すのとは違う。心があちこちに跳ねまわっていて、ただココの柔らかな笑顔だけが目の前にちらついて、言葉に集中できなかったんだ。

 無茶苦茶に暴れ回りたいような、その場にじっとしていたいような、笑いだしたいような、これまでに無い不思議な気分だった。それを何とか抑えようと必死になる一方では、遠くから俺たちを見ているもう一人の俺がいて、ココの申し出をしっかりと考えていた。

「……何で、俺なの?」

その、冷静な俺が言った。ココはうん、と呟いた。

「そうね、君がエイの家系だからっていうのもあるけど……何よりね、君は興味があるんじゃないかって思って」

「ハマエカマエに?」

「というより、それを含めた色んな事。ママルの言葉だとか、歌とか、風習について」

笑みを浮かべながら穏やかに言う、その口調の中には真面目な何かが混ざっていた。落ち着かなくなっている俺を何とか抑え込んで、冷静な俺を表舞台に引き出してココの話しを聞くようにした。

「桟橋で会った時、わたしは足を交差して座ったでしょ? あれはわたしの国では普通の座り方なの」

確かめるように、ココは俺を見ながらゆっくりと話す。

「でも、ここでは一人前の大人、それも男性にしか認められていないんだったよね。何気なくやっちゃって、しまった、って思った。けど、驚いたのは君だけ。後の二人は何の反応もなかった……多分、知らなかったんだよね」

俺は頷いた。そう、あの座り方が大人の男の物だってことは、じいちゃんばあちゃんならともかく、今ではほとんどの人が知らないし教わりもしていない。知らなくたって構わないことだとみんなが思うようになったからだ。

 そういう物事はなにも座り方だけに留まらない。昔から伝えられてきた色んな物が、今では意味のないこととして捨てられている。

「それとね。昨日、桟橋で君と別れてから、長老方にご挨拶する間のことなんだけど」

ココは何かを思い出すように斜め上を見ながらちょっと苦笑した。

「カウラとエメリアと一緒に目抜き通りまで行って、色んな人に聞いてみたんだ。“言葉の研究で来たのですが、これはパングマハの言葉で何と言いますか”って、色んな物の英語の名前を出して。答えられた人はとても少なかったし、若い人は全然ダメだった。若い年代の人は、もう英語しか知らないんだね」

まあ、わたしの国と同じで英語圏の支配下だった時期が長かったし、しかたないのかもしれないけど、と呟く。

 そういえば、子供の時は学校でパングマハ語を使うとしかられた、と親父が酔った時の昔語りに話していたことがある。ココが言っているのはその時代の事かも知れない。

「でも」

道の脇に生えている木にもたれて、ココは俺を見た。

「君はまだ12歳なのに、びっくりするくらいパングマハ語や、古い風習や言い回しについてよく知っている。今日おばあ様に言葉を教えていただいた時も、君はメレさんが英語に訳すより先に反応してる時があったよね。頷いたり、笑ったり」

「そうだった?」

「うん。それにね、気付いてないかもしれないけど、君はとても楽しそうだったよ」

ふふっと笑い、ココはとん、と弾みをつけて木の幹から離れる。

「だからね、きっと興味があるんだろうし、パングマハが――ママルが好きなんだろうなって思って。そんな君がわたしの手伝いをしてくれたらとても助かるし、一緒に音韻の確認や整理をしてくれたらラワンのためにもなると思うんだけど」

 ざああ、と風が吹いて木々を揺らす。少しだけ闇が濃くなる。

 俺は、ココの言ったことをしばらく心の中で考えていた。

 確かに、俺はもうみんなが使わなくなってきている言葉だとか、しきたりに興味を持っている。面白いと思っている。

けれど、それは記録して残したいとか、研究したいとか、そういうんじゃない。そうじゃなくて、面白くて、きれいで、実際に使ってみたいと思うから。それだけなんだ。

 いつの間にか、落ち着かなく走り回っていた俺も冷静な俺の隣におとなしく座り込んでいた。じっと考え込む冷静な俺に、そうだよな、と相槌を打っている。

 今日、ココは言っていた。ハマエカマエの祭りはもうすぐ無くなってしまうから、そうなる前に記録するんだと。祭りだけじゃなく、多分パングマハの言葉についても同じことを考えているんだろう。もうすぐ無くなってしまうから、消えてしまうから、今のうちに集めてとっておくんだって。

 それはきっと大切なことだ。メレおばさんが言ってたみたいに、良いことだ。

 けれど、何かがひっかかるような気がした。それでは何かが違う、大切な物が抜け落ちている、と言う気がして、ココの言う「調査」には何だか抵抗があった。

 それを、どう説明していいのか分からない。

 言葉が出てこない。

「……昼間や夕方に降る急な大雨があるだろ」

俺は真っ直ぐにココを見た。俺より年上の外国人は、不意をつかれたような顔でうん、と頷いた。

「いつ降ったって、ああいうのは英語じゃスコールって呼ばれるけどさ。でも、特に今の時期の夕方に降るやつは、こっちの言葉じゃ、マヒア・レイレイって言うんだ」

「どういう意味?」

「マヒアの涙、って意味。すぐそこにも生えてるだろ。その黄色くて、甘い匂いのする花がマヒア」

ココは振り返り、先ほどもたれていた木の脇に生えている低木を見る。暗がりに黄色い花がいくつも咲き誇っている。宵闇の湿った空気の中に、その匂いは濃く香っていた。

「マヒアの花についた雨が涙みたいだからそう言うんだって。夕方、夫や子供が帰ってこなくて心配している女の人にたとえてるんだ」

へえ、とココが目を丸くする。子供みたいな顔で驚いている。

「俺はただ、そういうのが面白くて、きれいだと思うから知りたいだけだよ……でも、この言葉もマヒアの無い所じゃ意味がないし、マヒアを知らない人には通じないけど」

そう言うのが精いっぱいだった。

 俺は、ココのつややかな瞳を見つめた。そうすれば、俺の言いたいことに気付いてくれるんじゃないかと言う気がした。

「なるほどね」

ココは呟いて、頷き、何かを考えるように顎に片手を当てて少しうつむいた。

 ジャングルのどこかで鳥がぎゃあと鳴く。道はもうかなり暗くなってきた。そろそろ帰らないと、灯りなしでは歩けなくなってしまう。

 ココがすっと顔を上げ、俺を見た。そして、

「それなら、やっぱりわたしの調査を手伝ってほしいな」

にっこりと笑った。

「そういうの、わたしにも教えてほしいな。きっと他にもあるんでしょ? 自然現象についてはあまり考えてなかったから、盲点だわ」

うんうんと満足げに頷く。

「ね、ラワン。色々教えてよね。期待してるよ」

 そう言って肩に置かれた手の温かさに、俺は曖昧に笑って頷くしかできなかった。淡いさみしさと、力の抜ける感じが一気に襲ってきた。

 ココの笑顔。本当に心の底から嬉しそうな、太陽みたいな笑顔。

 それを見たら、断れない。どんなに俺の心が通じなくたって、嫌いにはなれない。

 俺の中の冷静な俺は、つんと拗ねてどこかに行ってしまったようだった。代わりに残されたもう一人の俺は、途方にくれながらも、ココとまだしばらくは一緒にいられるんだということ、彼女の役に立てるんだということを素直に喜び、はしゃぎまわっていた。



 胸の中に少しのもやもやを残しながらも、結局俺は翌日以降もココの手伝いをしてばあちゃんちに通うことになった。

朝、宿に行ってココの部屋で前日の調査の整理をし、昼過ぎにはばあちゃんちにお邪魔する。そこで数時間聞き取りをして、夕方に帰る。その繰り返し。帰り道を歩いている途中に偶然知り合いの車に拾ってもらえて、早く帰れた時間分をその日の調査の簡単な整理にあてることもあった。

 確かにココの言うとおり、この一連の調査は俺にとっても「ためになる」事ではあった。なにしろ、ばあちゃんの口からは祭りの言葉だけでなく、それに関連した色んな事が飛び出してくるんだ。パングマハ諸島の中でもママルにしかない言葉とか、俺が英語で知っていた物のパングマハ語での呼び名とか。

 それは本当に面白いことだったし、俺の心を随分とわくわくさせてくれた。帰り道で見る生き物や、草花や、雨や虹のもう一つの名前を知る度に、それらが今までと全然違うものに見えて、世の中が一気に新しくなったような気がした。ココは「新しい眼鏡をかけたみたいな気分」って言っていたっけ。

 宿での整理では、俺は専らばあちゃんの発音の再現を手伝った。録音した内容を聞きながら、一応ネイティブである俺が何かの単語をパングマハ語で言う。ココは、

「その時、舌はどこに当たってる?」

とか、

「唇は閉じるのね」

とか言いながら英語みたいな文字や記号を使ってノートに一つ一つを記していく。その横に英語で細かいメモを書き込み、英語での意味とか使われる場所、ばあちゃんが何の気なしに言った細かいエピソードなんかをまとめていくんだ。

 そうやって調査記録を整理するココの顔は真剣で、でも瞳はきらきらと輝いていて、まるで新しい遊びに夢中の子供みたいだった。俺は俺で、一生懸命にばあちゃんの言葉一つ一つを聞き取っていた。単なる好奇心以上に、ココの役に立ちたいって思ったからだけど。

 つまりは、俺もココも、このパングマハ語調査を楽しんでいたってわけだ。俺たちは、調査研究に関してはなかなかの名コンビぶりを発揮してたと言ってもいい。時にふざけながら、時に真面目に、俺たちは調査記録をまとめていった。

 その一方で、ココの持ってきた沢山のノートがパングマハの言葉で埋め尽くされ、整理されていくうちに、俺はあの何かすっきりしない気分をも味わっていた。

 今後使われなくなるだろう言葉、もう使われていない言葉が整理され、分類され、紙の上のインクの染みとなって次々と机に積み上げられていく様は、どこか悲しかった。

 けれど、その悲しさのわけはよく分からなかった。


 そうやって7日間が過ぎ、祭りの日はやって来た。


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