調査 前編
昔々、といっても、この島と人々ができてから既にかなりの時間が経っていた頃。山々に、海に、空に、大地に、要するに世の中のありとあらゆる所には神々がいた。
神々は人間のことなど基本的には気にとめないため、気まぐれに大雨を降らせてはタロイモの畑を流し、怒りにまかせて山を噴火させては沢山の人を殺した。漁師は海に負けて帰らず、子供が育たないこともままあった。
これらは、人間にとっては大変な災厄である。人々は何とか神々に鎮まってもらおうと、舞踊、歌謡、あるいは怒りなど様々な手法を持って交渉を試みたが一向に効き目がない。ママルの人々は困り果てていた。
ある時、朝日が昇る頃に、東の浜で貝を採っていた女が不思議な物を見た。水平線から正に顔を出している太陽の中から、一艘のカヌーが近づいてくるのだ。そこには、すっと背を伸ばして座る女がいた。浜にいた女は驚いて村に帰り、長老たちにそのことを告げた。すぐに村中の人々が東の浜に集まった。
カヌーに乗る娘は太陽を背にしてきらきらと輝いていた。これはただ者ではないと感じた長老たちは、浜に座り込んでお辞儀をして娘を迎えようとした。ところが、カヌーは沖と浜の間で止まってしまいこちらまで来ない。
仕方がないので、男たちが、先が鉤型になった棒を持ち、カヌーにひっかけて引き寄せようとした。ところが、男たちはみんな海底の砂に足を取られて転び、棒は岩に当って折れてしまった。
仕方がないので、今度は村の女たちの髪で編んだ網を投げかけ、カヌーを引き寄せようとした。ところが、丈夫なはずの網は投げた途端にぷつんと切れてしまった。
どうしようかと困っていると、最初に娘とカヌーを見つけた女が裸足になって波打ち際に立ち、両手を上げて舞うようにカヌーを呼び寄せた。6人の女がその横に並び、同じようにして手を振った。すると、カヌーはぐんぐんと岸に近づき、やがて砂浜に乗り上げて止まった。娘はカヌーから降りると、村人たちの方へ近寄って来た。
娘は眩しく光り輝いており、まるで太陽そのもののようだった。あまりのまばゆさに目を細めてその顔を仰ぐと、神々しいほどの美しさ。豊かな髪は背中まで垂れ、唇はふっくらと厚く、瞳には慈愛の光が溢れている。
娘は、初めに彼女を見つけた女の頭に手を当てた。すると、女は自分に特別な力が注がれた事が分かった。そして娘がしたように、自分と一緒に踊っていた女たちの頭に手を当てた。すると、女たちはみな、自分に何か不思議な力が与えられたのを感じた。
娘はその女たちに、神々と話す特別な言葉や歌、踊りを教えると、西の浜までカヌーを運ばせ、海の向こうに沈む夕日の中へと帰って行った。
こうして、初めに娘を見つけた娘は大巫女、共に娘を呼んだ女たちは巫女となり、神々に災害からの守護や豊漁豊作を願うことができるようになった。
ママルの人々は、それ以降大雨や火山の噴火に悩まされなくなり、海には魚が溢れるほど、畑にはタロイモがこぼれるほどになった。
この神話的出来事を再現するのが、7年に一度行われるハマエカマエの祭祀である。祭りは東の浜(ウラ・エン)で始まり、西の浜(ウラ・マクワ)で終わる。祭祀の期間は1日、早朝から日没の間に全てが行われる。
早朝に大巫女を中心とした7人の巫女団、そしてそれを取り巻く巫女の見習い(30歳前後のママル出身の女たち)がウラ・エンに集合する。村の娘の中から選ばれた一人が青年たちの漕ぐカヌーに乗り、沖まで連れ出された後、改めて岸に向かう。岸ではエイを中心にハウエ達が並び、歌と踊りでカヌーを呼び寄せる。この際、長老たち並びに青年たちや他の女たちの試み、すなわち正しくない迎えの作法は演じられない。
娘が岸に着いてから、巫女たちは娘を囲んで歓迎の舞いを踊る。
ウラ・エンでの儀式が終わってから、娘とカヌーはエイ、ハウエ、巫女見習い、そしてカヌーの漕ぎ手である青年たちの手で、村人(=常人)の知らない道を通ってウラ・マクワに向かう。その道は祭祀に関わる人間以外には教えられることはない。万が一その道を常人が知ってしまった場合には、娘は二度と島に来ず、以前の通り人々の祈りは神々に届かなくなるとされている。
ウラ・マクワでは夕方から娘を送り出す儀式が行われる。このママル島は非常に小さな島で、もし道が島を東から西に横断するように通っているならばその長さはせいぜい8km程度、数時間でウラ・マクワに着いてしまう。ジャングルの中の道であることを差し引いても日暮れまでにはあまりにも時間があるので、道のどこかで別の儀式が行われているか、娘とエイやハウエたちの休み場所があるのではないかと考えられる。筆者は、神話にある「神々と話す特別な言葉、歌、踊り」を教える儀式の再現がなされているのではないかと推測している。
ウラ・マクワではハウエたちの手により娘のカヌーが岸から沖に向かって送りだされる。カヌーから手を離したハウエ並びにその見習いたちは、迎えの時と同様にエイを中心に並び、次の来訪を祈願する歌舞で娘を送る。
朝日と共に来訪し、夕日と共に去って行くこの娘は“ハアラ・イエ”すなわち「太陽の娘」と称される。
以上がハマエカマエ神事の概要である。この神事に関し、リサブロ・カノは「太陽信仰と来訪神信仰が融合したもの」と推察しており、ハアラ・イエは来訪神、もしくは東の海の彼方にある浄土にいる祖先神が姿を変えたものではないかとしている(『ハマエカマエ――ママル島の祭祀――』 XXXX年 ○○書房)。
本稿では、このハマエカマエ神事における語彙を調査し、その意味、発音、用法を記録することを試みた。以下がその詳細である――
ふうっ、とため息が出た。横を見ると、ココがどう? とでも言いたげな顔をしている。俺は“以下がその詳細である”の下を指した。
「で、ここに色々書くわけ?」
「そう」
頷いてココは俺が持っていた紙束を自分の手に戻し、それでぱたぱたと顔を仰ぐ。額には汗の玉がいくつも浮かんでいる。日向の道を随分と歩いてきたからだろう、ココの顔は真っ赤だった。
「語彙は、できればジャンルに分けて収録したいんだ。例えば、同じ名詞にしても“動物”“植物”とか、あるいは使われる場面ごととか。その辺りは収集してから、論文に起こす時に考えるつもり」
「ふーん」
よく分からないが、ココが随分と嬉しそうに語っているところからすると、それはとても楽しい事なのだろう。勉強が嫌いな俺にとっては、何が嬉しいんだかさっぱりわからなかった。
桟橋で話をしたその足でばあちゃんの所に行った俺は、ココのお土産の効果もあってか、気難し屋の大巫女様から快い返事を受け取る事が出来た。そのままココの宿に直行して「いつでも来て良い」という言葉を伝えたところ、それならばすぐにということで翌日(つまり今日)の訪問が決まったわけだ。あまり朝早いとばあちゃんも色々とお勤めがあって忙しいので、お昼過ぎに行くことに決めた。そうして俺たちは、島の北側にある宿から東側にあるばあちゃんの家に向かって、炎天下の中、何十分もかけて歩いて来たのだ。
今はばあちゃんちの居間で、迎え入れてくれたメレおばさん(親父の妹で、彼女もハウエだ)が出してくれた冷たいオレンジジュースを飲みながら本人の登場を待っている。
白い壁に囲まれた居間は窓が開け放たれ、虫よけの網戸越しにジャングルの木々の頭と、その向こうの浜が見える。この時間では暑過ぎて誰も泳いでいないみたいで、浜は静かなものだ。つる草編みの椅子に座ってやんわりと吹いてくる午後の風を浴びていると、気持ちよくて何だか眠くなってしまう。
俺がふああ、とあくびをすると、ココもつられて大口を開けてほわあ、みたいな不思議な声を出した。思わず俺が笑うと、頭をぺしん、と軽くはたかれた。
「痛いよ」
「うるさい、笑うからだ」
と言うココも笑っている。照れくさかったみたいだ。
「まあ、仕方ないよな。“ペペ・アブイク・ハノ”って言うしさ」
「え?」
「眠りの神様は手が大きい、って意味。あくびがうつるって言うのを、パングマハの言葉で言うとこうなる」
俺がそう言うと、ココは不思議そうな、それでも興味津津といった顔をした。オレンジジュースをすすって、俺はにかっ、と笑う。大の大人に物を教えられるのが何となく気持ち良い。
「眠りの神様ペペは、魔法の水を人にかけて眠たくさせるんだけど、手が大きいから水をすくいすぎちゃって、傍にいる人にまでかけちゃうんだ。だから、誰かがあくびすると隣にいる人まであくびする」
「へえ。それを、ペペ・アブク……」
「アブイク・ハノ」
「って言うんだ。おもしろいね」
言っているそばから今度はココがはああ、と大あくびをする。俺もペペの水を浴びて、ふあああ。
と、向こうのドアが開いて、メレおばさんの小柄でがっしりした体が現れた。
「二人とも、こっちまで聞こえているよ」
とんでもない大あくび、と笑いながらドアを大きく開け、後ろにいる人を前に通すように体をどかす。
ココがすっと立ち上がった。すねまである軽そうなスカートがふわりと揺れる。「目上の人と会う時女性は膝を出してはいけない。ズボンも不可」というパングマハのルールを踏まえた格好だ。白いブラウスに黒いスカートを着て立っているココはそれまでと違い、何だか都会の大人という風に見えて、ちょっと眩しかった。
ココは深くお辞儀をし、背筋をぴんと伸ばしてドアの向こうを見た。
メレおばさんの後ろから、小さな人影が現れた。
真っ白な髪をお団子に結った、しわくちゃの顔。背筋が曲がっていることを除けばまるで子供みたいな華奢な体つき。けれど、しわに埋もれそうな茶色い目は鋭く、真っ直ぐに俺たちを見ている。射抜かれたようになって俺は思わず目を逸らした。ちらりとココを見ると、彼女は緊張しているようではありながらも、しっかりとばあちゃんを見ていた。
と、何かを調べるようにココを見ていたばあちゃんの顔がかすかに緩んだ。パングマハ語で呟くように何かを言う。メレおばさんがココの顔を見た。
「よく来たね、って」
ココの顔にぱっと笑顔が咲いた。もう一度お辞儀をすると、ココはばあちゃんのしわだらけの手を取った。
「お会いできて大変嬉しいです。調査にご協力いただき、ありがとうございます」
ココの英語をメレおばさんがパングマハ語に翻訳する。ばあちゃんは大きく頷くと、ココに座るように言った。
「さて、よそから来た娘さん。ハマエカマエについてだったね」
「はい。お祭りについて色々と教えて頂きたいのです」
丁寧な英語で、ココはばあちゃんに調査の手順を説明する。お祭りの内容や手順、儀式について、なるべく順を追って説明してほしいこと。その際、一つ一つの言葉について細かく質問させてもらうこと。また、全ての会話を録音させてほしいということ。
メレおばさんの翻訳の下、ココの説明を聞き終わったばあちゃんは、ゆっくりと目を閉じた。
唐突に沈黙が訪れた。
誰も何も言わない。
風が庭のパパイアの葉をしゃらしゃらと揺らす音だけが、薄暗い居間に響く。
俺は何だか居心地が悪くて、もぞもぞと座り直してしまう。ココは固唾を飲んでばあちゃんの次の挙動を待っている。メレおばさんだけがどこ吹く風といった面持ちだ。
やがて、ばあちゃんはすっと目を開け、ひたとココを見据えた。決して怖い顔をしているわけじゃないけど、目にははっとひるんでしまうような鋭さがある。
ばあちゃんはゆっくりと口を開いた。
「言葉は曖昧な物に形を与える。形になった物は紙の上にしっかりと象られて、褪せることは無くなるだろう。けれど、言葉は全てをすくいきれない。その物の持つ空気や雰囲気や思い、裏の意味、言葉の網からこぼれたものは、記される事もなく、はなから無いものとされていつか消え去ってしまう。特に娘さん、あんたのいる紙と文字の世界では、そうじゃないかね?」
メレおばさんは英語の言葉選びに惑いながらも、相変わらず涼しい顔で訳する。ココの肩がはっと強張った。
「結局はね、この島の人間でなければ、ハマエカマエのことなど分からない。言葉だけを見ても本当の所は見えないし、せいぜい分かったつもりにしかなれない。それでも、あんたは祭りの言葉を知りたいと言うんだね」
ばあちゃんの口調は穏やかだけれど、俺にはココが試されているように思えた。
じっと聞いていたココは、ばあちゃんの目をしっかりと見て、
「はい」
と頷いた。柔らかく、でも芯の通った声で告げた。
「それでも、わたしはこの調査には意味があると思っています。わたしは、ハマエカマエの全てを記録するつもりです。映像も、写真も。それならば、言葉のみを扱うよりももっと分かりやすくはるはずですから。それに今のうちに、記録しておかなければ……祭りが消える前に」
最後の言葉を、ココは探るように言った。俺はびっくりして思わずココの顔を見た。祭りが消えるなんて、二人の前でなんてこと言うんだよ!
けれど、大巫女であるばあちゃんも、巫女であるメレおばさんもちっとも怒っていなくて、むしろ平然としていた。
「あんたの言うとおりだ。ハマエカマエは、今や大切な祭りではなくなってきている」
ばあちゃんはゆっくり大きく頷いた。
「最近は巫女になろうという娘も少なくなってきたし、そもそもその資格を持つ者がどんどん減ってきている。世の中が変ったんだ、“島の外の男と喋ってはならない”という掟なんて形だけになってしまった。私ももう長くは無いだろうし、エイの後継にふさわしい者も未だにいない。祭りが消えるのは時間の問題だろうね」
頷きながら言うばあちゃんの口調は残念そうではあったけれど、別に世の中を恨んでいるとか、そういう感じではなかった。変わるのは仕方のないこと、少しさみしいけれど。そう言いたいみたいな雰囲気だった。
メレおばさんなんて、俺が拍子抜けするくらいにあっけらかんとしていた。
「あたしはね、そうやって、言葉や映像で残してもらうのはいいことだと思うのよ。何もしなけりゃ、言葉も歌も踊りも本当に無くなってしまうでしょ? でも、残っていれば、いつか誰かがそれを見て、またやってみようって思うかもしれないじゃない。この子みたいに、やたらにおばあちゃんにくっついて古いお話や歌をせがむのもいるわけだし」
そう言って、メレおばさんはいたずらっぽい目つきで俺を見る。それまで見学者だったのに急に話しの舞台に引き上げられた俺は、おばさんのからかうような口調もあって、ついついむきになってしまう。
「俺は関係ないだろ」
「そう?」
俺の反応が面白かったのか、おばさんはわざとらしい口調で意地悪く言う。
「ちいちゃい頃は、ばあちゃん、ばあちゃんって、モレイ草のとげとげの実みたいにおばあちゃんにひっついて甘えていたくせに。今だって、会うたびに甘えてお話をせがんだりして……」
「おばさん!」
ココがははっと笑う。俺は、なんだか甘えん坊みたいな言い方をされて顔が赤くなりそうだった。そりゃ確かに、俺は分からないなりにばあちゃんの話やお祈りの言葉を聞くのは好きだけど、何もあんな大げさな言い方で、ココの前で言わなくたっていいのに!
「とにかくね」
ぶすっとしている俺を放ったままココに向き直ると、メレおばさんは優しい声で言った。
「あたしもおばあちゃんも、あなたみたいな人が来てくれるのは歓迎しているのよ。島の外の人間ってこともちゃんとわきまえているみたいだし。だから、調査には協力するわ」
「ありがとうございます」
ココはすっと体を折るようにして、深くお辞儀をした。
それが合図のように、ばあちゃんのしわだらけの顔がふっと緩み、穏やかな表情になった。いつも俺を見る時の柔らかな顔だ。
ココは椅子に座ると、リュックからノートとペン、それに小さなレコーダーを取り出してテーブルの上に置いた。ばあちゃんの声がしっかり入るように位置を調整し、少し喋ってもらって録音状況を試す。やがて、それらの準備も終わると、ココは笑顔になって、
「それでは、よろしくお願い致します」
録音ボタンを押した。
ばあちゃんがパングマハ語で何かを語る。メレおばさんはそれを聞くと小さく頷き、こちらを見た。
「祭りの前の、準備について」