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南の島の異邦人  作者: 沖川英子
3/8

桟橋の頼みごと

 「海に行くんなら、誰かと一緒に行きなさい。一人は絶対だめ」

俺が海に行こうとすると、母さんは必ず口をすっぱくしてこう言う。たまに親父も「海は怖いぞお」なんて小さい子を脅すみたいに言うけど。

 言われなくたって、海に一人で行こうという気にはならない。誰かがいれば助かったのに、なんて事故の話はよく聞くし、第一、一人で行っても楽しくないからね。

 そういうわけで、輝かしき夏休みのその日、俺はカウラとエメリアの兄妹と一緒に島の北東にある昔の港で遊んでいた。今は大きなフェリー用に立派な港ができたから使われなくなったけれど、俺が生まれる前、まだ小さい船しか来なかった頃には、このささやかな桟橋しかない港が主港だったのだそうだ。

 港だから波もあまり来ないし、底に沈めてある古いカヌーや船が魚礁になっているから魚も多い。水もきれいだから、俺たちはよくここで服のまま素潜りをして遊んでいる。

 その日も俺たちは朝からさんざん海に飛び込み、潜り、ちょっと疲れて海から上がり、桟橋に三人で寝転がっていた。

 風が涼しくて気持ちいい。午前中ということで太陽もまだ手加減しているみたいで、日差しもそんなにきつくない。

 流れる雲を見ながらぼんやりしていると、

「ねぇ、ラワン」

カウラが話しかけてきた。ちょっと眠いのか、声がぼうっとしている。

「何だよ」

返事をすると、カウラは優しく垂れた目を眠そうにぱちぱちさせる。

「ラワンがうちの宿に連れてきてくれた人、いるじゃない」

ん? と数秒考えて、俺はああ、と合点した。どうやら、おととい俺が案内したヘンな観光客のことを言ってるみたいだ。

そう分かった途端、別れ際に握手した手の柔らかさを不意に思いだして、なぜか胸の中がむずむずと落ち着かなくなる。でも、それを二人に知られるのが何だか恥ずかしくて、

「あの男みたいな女のこと?」

つい乱暴な言い方になってしまった。

「ねえ、そういう言い方、失礼よ」

エメリアのとんがった声が耳に刺さる。まだ8歳のチビ助のくせに、生意気なヤツだ。悪かったよ、と適当に謝って、俺は顔だけ隣のカウラに向けた。

「あいつがどうかしたのか」

「ううん、別にどうってわけじゃないんだけどさ」

俺の気持ちには気づかず、カウラはいつもみたいにおっとりと笑う。

「シャワーの使い方もきれいだし、いつもにこにこしているし、いいお客さんだよ」

そりゃ良いことだ。カウラたちの家“ホテル・フラエ・エ・ママル”は島で唯一の宿のせいか、来る客の質もまちまちだ。中には部屋の備品という備品を勝手に持っていってしまうような図々しいヤツもいるんだと、カウラのおじさんが嘆いていたのを聞いたことがある。

「あの人、学校で勉強してる学生さんなんだって。ほら、時々この島に来るカノさんっておじさんいたでしょ? あの人のお弟子さんなんだってさ」

「え、カノのおっさんの?」

意外な名前が出てきた。俺はごろんと転がって腹ばいになりカウラを見た。

 カノのおっさん――大人は「カノ先生」って呼んでいたけど――は、パングマハよりずっと北にある国の大学の先生だ。何でも、この辺りの島々の言葉を研究しているとかで、毎年のようにこの辺鄙なママル島まで足を伸ばしてやってくる。もう30年近くこの島には通っているらしくて、長老たちとも仲がいいし、最近の英語ばっかり使ってるパングマハ人(俺もその一人だけど)なんかよりよっぽど正確にパングマハ語を話せる。それも、八つの島の訛りを再現しながらだ!

 もちろん、カウラたち一家や俺もカノさんのことはよく知っている。カウラの家はカノさんの定宿だし、そこにしょっちゅう遊びに行く俺もすぐに顔と名前を覚えてもらった。俺はカノさんから、あちこちの島の不思議な話や面白い言葉を教えてもらうのが好きで、彼が来ている時には必ずカウラの家に顔を出していた。

 その弟子と言うことは、あの女も同じような研究をしている事になる。

「じゃあ、あいつは勉強しに来たわけ?」

俺が問うと、エメリアが腹ばいになって両腕で頬杖をつきながら応えた。

「今年はハマエカマエのお祭りがあるでしょ? それを見に来たんだって」

「ふうん」

道理で、普通の観光客とは違う感じがしたはずだ。桟橋に腹ばいになりながら、俺はあのあけっぴろげな笑顔――「研究者」という固い響きにはあんまり合わないような気がするけど――を思い出していた。

「で、今は何してんの、あいつ」

「お祭りの前に、お祭りに関係する言葉を集めてるみたい。僕のお父さんにも色々聞いてたよ」

そういえば、カノさんもそんな事をしていたっけ、と思い出した。俺も魚や鳥の名前を聞かれた事がある。何の気なしに英語で教えたら「パングマハの言葉では何と言う?」と聞かれて、ばあちゃんに教わったのを思い出しながらなんとか答えたのだ。「よく知っているなぁ!」と禿頭をつるぴか光らせて喜ぶカノさんの丸顔が頭に浮かんだ。

「わたしも一緒に聞いてたんだけど、お父さんはほとんど英語しか使わないからよく分からないみたい。何を言われても、“うーん”なんて困っちゃって」

エメリアがふふっと笑う。おじさんの弱っている姿がよっぽどおかしかったみたいだ。

「そうだ」

カウラもごろん、と腹ばいになり、俺たち三人は顔を突き合わせる形になる。カウラはにこにこと無邪気に笑いながら俺を見た。

「お祭りの言葉だったら、ラワンならわかるんじゃない? 僕たちよりいっぱいパングマハの言葉を知ってるもん」

「俺だって詳しいのはわかんないよ。ばあちゃんならともかく」

「うそ。何だって知ってるじゃない」

「そんなことないって」

俺は首を横に振った。確かに俺は同年代のヤツらに比べたらパングマハ語を知ってる方だけど、伝統的な祭りの言葉までは分からない。大体、ハマエカマエの祭り自体まともに見たことがないんだから、分かるわけがないんだ。

 ハマエカマエは、このママルで一番の大祭だ。豊作や豊漁を願って7年に一度、8月(昔の暦だと“マヒアの花月”って言う)の大潮の日に行われて、島の女の人が巫女やその見習いとして参加する。「巫女やその見習い」とはいっても、本当に普段からお祓いやお祈りをする力のある人は祭りの中心を担う数名だけで、残りのほとんどはそのへんのおばちゃんたちだ。そのおばちゃんたちの中でも、ママルで産まれ育たなきゃダメとか、島の外の男と話しちゃいけないとかいう、細かい決まりを守ってる人だけが、祭りに参加できるんだって。けれど今ではそんな人も少なくなったから、祭りの時は草の根を分けるみたいにして資格を持つ人を捜すんだそうだ。

 昔はハマエカマエとなると、儀式場の浜まで行ってご利益を受けようという人の熱気がすごかったらしいけれど、最近じゃ7年ぶりの祭りの日でも平気でどこかに遊びに行ってしまう人も多いんだって。ありがたがっているのはお年寄りと、カノさんみたいなよそから来た学者くらいなんだそうだ。

「ハマエカマエねぇ……」

頬杖をついて、俺はふん、と鼻を鳴らした。

「祭りの言葉だけを調べたって意味無いと思うけどな」

「そうだよね」

カウラが頷く。

「普段使わないもんね。大体、パングマハ語自体使わなくなってきてるんだし。いつも話してるのや、学校の授業も全部英語だしさ」

「それもそうなんだけどさ、俺が言いたいのはそうじゃなくて……」

と、カウラに言おうとした時だった。

 おーい、と呼び声がした。

 俺たちはそろって顔を上げて陸の方を見た。

 短く切られてつんつんと尖った黒髪。その下にはかぱっと口を開けた陽気な笑顔。海沿いの道路まで張り出した緑のジャングルを背景に、今まさに話題の中心だった人物が、右の手を大きく上にあげ、ぶんぶん降りながらこちらに歩いてくる。

「“精霊の話は精霊を呼ぶ”」

思わず古いことわざを呟いた。カウラとエメリアが頷いた。

「やあ」

そいつは木の桟橋をことこと言わせながら俺たちの前まで来ると、足を組んで座った。島の一人前の男が座るのと同じ、左右の足を交差させる方法だ。そんな座り方をする女の人を見たことがないので、俺は思わずぎょっとしてしまった。

「ここで遊んでるって宿のおじさんから聞いてさ」

カウラとエメリアに笑いかける。二人は一瞬顔を見合わせ、はにかんで頷く。

「それでね、きっと、君――ラワンも一緒だろうって」

今度は俺に首を向ける。

真っ黒な瞳が俺を覗きこむ。

 急に胸がどきどきして、俺は思わず目をそらしてしまった。

「俺に何の用だよ」

「うん、実はね、君にお願いがあって」

ややぶっきらぼうになってしまった俺の返事を気にもせず、そいつは少し首を傾げ、にっと笑った。

「君さ、わたしの調査、ちょっと手伝ってくれないかな?」

 俺はぐりっ、と音がしそうなほどに首を動かして相手の顔を見た。

 聞き間違い? いや、そうじゃない。

 今、確かにこいつは“investigation”と言った。

 調査の手伝いだって? 12歳の、やっとジュニアハイスクールに入ったばかりの、俺が?

「……何で?」

頭の中にたっぷりのハテナマークを浮かべながら言うと、そいつは笑みをわずかに残しながらも、真面目な顔つきになった。

「ハマエカマエの祭祀では、島で一番の巫女である“エイ(大巫女)”と、その下に位置する“ハウエ(巫女)”が大きな役割を担う。ラワン、君のお父様は、エイの家系のご出身なんだってね?」

確かにそうだ。俺の親父は漁師だけど、その姉妹はみんな巫女だし、ばあちゃんに至っては、島の女で一番の霊力を持つ大巫女・エイだ。島で行われるどんな儀式のときでも必ず参加してお祈りをするし、ハマエカマエの祭りでは儀式の中心で大役を勤めるんだって。

 何が言いたいか分かった気がして、俺は思わず渋い顔になった。調査の手伝いが嫌ってわけじゃないけど、ちょっと大変だなぁと思ったのだ。

「そりゃ、俺があんたと一緒に行けば、一人で会いに行くより少しはマシかもしれないけどさ。ハウエのおばさんはともかく、ばあちゃんは会ってくれないかもよ? 気難し屋だから」

「うん、それは聞いてる。うちの教授も、男の長老たちには会えてもエイだけはだめだったって言ってたから」

「そう、島の外の男と口をきくと、巫女の力を失うんだって」

エメリアがくすくすっと笑う。俺は思わず生意気なその顔をにらみつける。

「笑うなよ、ばあちゃんがそう言うんだし、しょうがないだろ」

「ふふっ、だって、そんなわけないじゃない」

エメリア、と妹をたしなめるカウラの顔も笑っている。ふん、と鼻を鳴らして、俺は向き直った。

 彼女の顔から笑みが消えていた。

 どこか寂しそうな、体のどこかが痛いみたいな顔をして、カウラとエメリアを見ている。

 その表情は瞬く間にかき消えて、彼女はすぐに元のにこやかな顔になった。

「ねえ、でも、わたしは女でしょ。だから顔も合わせてくれないってことはないと思うんだ」

どうかな、と俺を見る。

 少し驚いたけど、さっきの顔は見なかったことにして、俺はうーん、と腕を組んだ。

「一応、お礼の品も持ってきてるんだけど……」

「お金じゃだめだよ、ばあちゃんは自分じゃ買い物しないから」

「知ってる。ここの偉い長老はみんなそうなんでしょ? だから……」

そう言って、彼女は背負っていたリュック(島に来た時のとは違う、小ぶりなやつだ)を下ろし、その口を開ける。

 外国の煙草が数カートン、ぎっしり詰まっていた。その下には数本の缶ビール。赤やら黒やら、特徴的な色合いがちらりと見えている。

「これから村長や長老方にご挨拶に行くんだ。一応、ウイスキーも宿に置いてあるよ。スコッチね」

「上出来」

俺は深く頷いた。

 この島のじいちゃんばあちゃんたちの中では、どういうわけか欧米の煙草やお酒が貴重なものとされていて、一番の贈り物と思われているんだ。大巫女である俺のばあちゃんだって例外ではない。病気のお祓いや新しく家を建てるときの祈祷なんかのお礼には、いつだってマールボロやらマッカランやらがやりとりされるし、余った物は巡り巡って俺の親父に下賜されることもある。俺には関係のない話だけどね。

 そのへんの事情はカノさんから聞いたんだろうか。準備がいいヤツだ。

「分かった。調査に協力してもらえるかどうか、ばあちゃんに聞いてみるよ」

俺がそう言うと、それじゃあ、といってそいつは煙草を1カートン渡してきた。ばあちゃんに、ということらしい。

「決して祭りの邪魔はしないし、部外者に教えられないものは無理に聞きださない。わたしは島の外の人間だから、その立場はわきまえているつもり。そこは、大巫女様にしっかりと伝えておいてね」

真剣な顔で言うので、俺も真面目に頷いて右手を指し伸ばし、ぐっと親指を立てた。彼女も同じようにして、そしてにっこりと笑った。

「宿のおじさんが、君は子供だけどしっかりしてるって言ってたよ。頼りにしてるね、ラワン」

 柔らかい手が、ぽん、と優しく俺の肩に触れる。

その途端、胸の中にぱっと陽が射した。「しっかりしてる」「頼りにしてる」という柔らかいアルトの声の断片が耳に心地よく響く。自然に口元がにんまりと緩んでしまう。カウラが不思議そうな顔で俺を見てるけど、そんなの今はどうでもいい。

俺を頼りにしてくれてるんだ。

何だか胸が弾んでじっとしていられず、俺はぱっと立ち上がった。

「あれ、ラワン、もう行くの?」

カウラとエメリア、それに彼女もつられて立ち上がる。俺は煙草を振り振り、にやりと笑う。

「“良いことは早く”って言うだろ。すぐにばあちゃんとこに行ってくるよ」

そう言って、「別に今すぐじゃなくても……」とか何とか言う言葉を背中に、たっ、と走り出した。

飛び込みをして遊んでからあまり時間が経っていないから服が濡れてるけど、向こうに行くうちに乾くだろうし、汚れたままでも多分怒られたりはしないだろう。そういうところは、ばあちゃんは俺の母さんなんかよりもずっと優しいのだ。

それに、ちんたら歩いてなんていられない。そんな気分じゃない。今なら、どこまでだって走って行けそうだ!

 と、勢いづいて桟橋を半分ほど行った所でふと大事なことを思い出し、ちょっと冷静になった。

「おーい、あんた」

振り返ると、彼女はエメリアに手を引かれて海の中を覗きこんでいる所だった。俺の呼び声に、かがんでいた体を元に戻す。

「なーに?」

「名前。あんたの名前、ばあちゃんに教えないと」

「あれ、教えてなかったっけ」

へへっ、と笑ってそいつは名前らしき物を口にしたのだが、それは、沢山の英語と少しのパングマハ語しか知らない俺の耳には聞き取りづらく、かろうじて「ココ」だか「コッコ」だかという響きだけが頭に残った。

「……ココ?」

試しに呼んでみると、彼女は笑って頷いた。

 じゃあ、ココでいいや。

 不確かではあったけれど、あいつがそれでいいって言うんだからいいのだろう。ココ、ココ、と胸の中で何度も繰り返してみる。

 ココ。きれいな響きだ。

 桟橋の先で何やらきゃっきゃと遊んでいる三人の声を背後に、俺は古い港を後にした。

 ようやく本気で照り始めた陽の光に、あたり一面がきらきらと輝いていた。


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