フェリーの中のストレンジャー 後編
パアー、と大きな音がして、思わずびくっ、と体が震えた。目の前には黄ばんだ白い壁が見える。体がわずかに上下に揺れている。そうだ、フェリーの中だったんだっけ。どうも俺は眠りこけてしまっていたらしい。
一体どんな顔をして眠っていたんだか。俺はちょっと恥ずかしくなって、目をこすりながらシートに座り直した。
今はどこなんだ?
フェリーの揺れが小さいから、どうもどこかの港内らしい。左を向くと、船窓越しに防波堤と、その向こうの特徴的な島が見える。頂が平らになったテーブル型の山を持つ、あれはカハマ島。その姿がはっきり見えるということは、ここはパバ島だ。パングマハ本島や俺の住むママル島からじゃ、こんなに近くは見えない。
フェリーは今まさに離岸したところらしく、沖にある防波堤がどんどん近づいて、さぁっ、と通り過ぎていく。
ぼんやりとそれを見ているうちにそうだ、と思い出した。俺の“指定席”はどうなっただろう。カハマ島とパバ島を過ぎたんだから、さすがにもう空いているんじゃないかな。
俺は腰を半分浮かしながら右を見た。
右列の窓際最前席には、足を組み、腕を組み、頭を垂れた人の姿があった。
あいつ、まだいやがった!
どういうことだよ、お前。観光客ってのはカハマとかパバでのんびりビーチに行ったり海に潜ったりするんじゃないのかよ。ここで降りないってことはママルに行くのか。何にも無いつまんない島だぞ、俺が言うのもなんだけど。
そんな思いの全てをこめてにらみつけてみたのだが、何しろ相手がこっちをちっとも見ないのだからどうしようもない。そいつはさっきまでの俺と同様眠っているみたいで、頭がかくん、と横に揺れた。
こりゃ起きそうにもない。かといって、わざわざ起こして席を譲れとわめくわけにもいかない。
というわけで、俺はママルまでの残り30分あまりを、なんともすっきりしない気分で過ごすことになったのだった。
ガキみたいだって? うるさいな。
フェリーがママル島に入る頃にはスコールなんてとっくにあがって、遠くの黒雲を背景に明るい緑色のジャングルがきらきらと輝いていた。生まれ育った島のことを自慢するのもなんだけど、海から見るママルはいつでも本当にきれいだと思う。どこかから山を一つ持ってきてぽんと海の上に置いたような、きれいな緑の三角形なんだ。真っ青なテーブルクロスの上に、瑞々しいサラダを山盛りに乗せた皿が置いてあるみたいだ――とは、俺の親父のへたくそな比ゆ。
こんもりとしたママル島がフェリーに覆いかぶさるように見えてきた頃には、俺の“指定席”を取ったあいつもすっかり目覚めていて、窓に張り付くようにして近づく島を見ていた。
船内に、間もなく到着という英語のアナウンスが流れる。気の早い乗客が、荷物を手に持って転ばないように出口へ移動し始める。
岸の緩衝材(古タイヤだ)にぶつかり、フェリーが揺れる。おっとっと、とたたらを踏みながら俺も鞄を抱えてシートの間を歩く。俺のすぐ後ろにはあの観光客が並んでいる。さすがにここまでよその国の人が来るのは珍しいせいか、前を歩くおっちゃんが時々ちらちらと振り返る。
タラップを降りて、岸にいる船員に定期を見せる。
帰って来たぜやれやれ、と、俺が大きく息を吸い込んだときだ。
「こんにちは」
後ろから流暢なパングマハ語が聞こえてきた。びっくりして俺は振り返った。
あの観光客が俺を見ていた。
船を降りて見てみると意外と背が低く、まだ子供の俺よりやっと頭一つ高いかなというくらい。手足が細く華奢な体つきをしているせいで、背負っている青いリュックが異様にでっかく、重そうに見える。大人の女の人なのに何だか男の子みたいな感じがするのは、しっかりと両足を開いてすっくと立っているからかもしれない。
そいつはちょっと困ったような笑顔を浮かべて、なんだか心細そうに見えた。いかにも「知らない国に来て、ほんとに弱っています」という感じ。
見つめあった途端、なぜだか心臓が大きく波打った。
それを相手に気付かれちゃいけないような気がして、俺はそっと深呼吸して、なるべく普通に応えた。
「……英語でいいよ、ここの公用語なんだからさ」
そう言ってやった途端、そいつはほっとしたように顔を緩めた。
「良かった! わたし、パングマハ語はあんまり得意じゃなくて」
言いながら俺の隣に寄り、手に持った紙を見せてくる。それはどうもメールをプリントアウトしたものみたいで、そこにはフェリーを降りてからの簡単な道順と住所が記してあった。
「ここに行きたいんだけど、わかる?」
太い大文字で記されている部分を指差しながらこちらの顔を覗き込む。黒い瞳がじっと俺を見つめる。吸いこまれそうになって慌てて相手の顔から視線を外して、俺は細い指の示す先を見た。
そこには“ホテル・フラエ・エ・ママル(ママルの家)”と記されていた。知ってるも何も、俺んちのすぐ近くだ。なあんだ、と俺は呟いた。
「ここ、俺の友達のとこだよ」
「そうなんだ! じゃ、場所も分かる?」
もちろんだ、俺の家からは歩いて5分もかからない所にあるんだから。そう言って道を説明してやろうと思ったけれど、よく考えるとそれも何だか面倒だ。そこで、
「一緒に来る? 案内してやるよ」
俺は道案内を申し出た。と、そいつの顔が見る見るうちにぱあっ、と明るくなった。
「本当!? ありがとう!」
大げさなくらいにお辞儀して、何度もありがとうと連呼する。その反応のでかさに面食らって思わず視線を泳がすと、そいつの肩越しに見えるフェリーの乗船口で、船員の兄ちゃんがにやにや笑っているのが見える。
かなり恥ずかしい。
「いいって。ほら、行こう」
俺がさっさと歩き出すと、そいつもお辞儀を止めて慌ててついてきた。けれど、大股で歩くのが早く、すぐに道案内のはずの俺の方が追い越されそうになってしまう。俺も急ぎ足で歩きながら、重い荷物を持っているのによく平気なもんだなと、ちょっとだけ感心した。意外にタフなヤツらしい。
「パングマハの人は本当に優しいね。聞いてた通りだ」
嬉しそうに笑いながら、そいつはミュージカルみたいに両手を広げてすうっ、と深呼吸する。
「ああ、このにおいと湿気と暑さ! 南に来たって感じがする」
うわ、あの花すごくきれい、あ、大きなちょうちょ! ねえ、あそこに集まってるおばあさんたち元気そうだね、といった具合に、歩きながらもあちこちをきょろきょろ観察して落ち着かない。大人なのに、何だかガキみたいなヤツだ。
「あんた、見るもの何でも嬉しいんだな」
俺が半ば呆れて言うと、
「そりゃそうよ」
何言ってんだ、とでも言いたげな表情が返ってきた。
「わたし、ママルに来るのをずっと楽しみにしてたんだから。長年の夢……というのは言いすぎだけど、結構前から憧れてたんだよ」
「へえ」
俺は思わず目を丸くした。こんな何の変哲も無い、俺が毎日暮らしている場所に遠い国の人が憧れていたなんて、何だか意外で不思議なことみたいに思えたんだ。そう言うとそいつは、あはは、と大きく笑った。
「そうかもしれない。けどね、外から見れば、ここはとてもいい島だよ。中にいる君は気づかないかもしれないけれど」
そういうものなんだろうか。俺にはよく分からないけど。
港から坂を上り、島一周の主要道路に合流する。道の脇のジャングルから海が見える度に足を止めながら、二人でのんびり歩く。
ここは島で唯一きちんと舗装されている道路だ。だから、土がむき出しになっている他の道より行き来がしやすいんだけど、陽に当たった途端に灼熱地獄になる。特に今みたいな午後3時くらいは強烈だ。そのせいか、俺たち以外には歩いている人は誰もいなかった。時折、古い車がガスを噴き出しながら通り過ぎて行った。
伸びすぎた木々の枝のせいで狭くなった歩道を、前になり横になりしながら5分ほど行くと、道路の左側から舗装されていない道が伸びて、その脇にいくつかの店が立ち並んでいるのが見えてくる。島の中心部、目抜き通りだ。俺たちは主要道路を外れそちらに向かった。
「この辺にお店は全部集まってる。何か欲しかったらここまで来るといいよ」
「分かった」
案内をする俺に返事をしながら、そいつは「おや」という顔で商店の軒下からこちらを見ているおばちゃんたちに「マッコライ」と笑いかける。それを見た途端、不思議そうな顔をしていたおばちゃんたちは一転、楽しそうに笑う。
目が合ったおっちゃんらにも「マッコライ」。
子供にも、赤ん坊にも「マッコライ」。
挨拶して、明るく手を振る。それだけでなぜか皆が笑う。
ヘンなの。でも、何だか面白い。
俺たちは「マッコライ」の連呼と笑顔のお返しの中をずんずん歩いて行った。
島で一番大きな商店「アグラズストア」を通り過ぎ、そのまましばらく真っ直ぐ行くと、やがて道はちょっとした雑木林を目の前にして二手に分かれた。右が俺の家がある集落方面。左は緩やかな登り坂になっていて、ずっとまっすぐ行くと登山道に続いている。
「こっちに行くと、あんたの探してる宿があるよ」
俺は登り坂を指し示した。
「登っていけば、途中の平らになっている所にあるからすぐ分かる。高台だから見晴らしもいいよ」
「うん、分かった」
暑さで夕日みたいに真っ赤になりながらも、そいつはにっこりと笑った。
ああ、そうか。
俺は、何でこいつが挨拶すると皆が笑うのか分かった気がした。
細い目をほとんど線みたいにして、にっと大きく口を開けて、ほんとに嬉しそうに笑う。それを見ると、何だかこっちまで妙に嬉しくなるんだ。太陽の光を浴びたみたいにさ。
「本当にありがとう! わたしはしばらくこの島にいるから、また会ったらよろしくね」
言いながらすっと手を伸ばしてくる。俺も右手を差し出す。汗ばんだ、柔らかい手が俺を包み込む。
ふわり、といいにおいがした。
「ありがとう!」
大きく手を降り、そいつはぐんぐんと坂を登っていく。それを少し見送って、俺は帰り道を歩き始めた。
あまり沢山話したわけでもないし、格別いいことをしてやったってわけでもないけれど、それでも何だか気分がいい。午後のこの強烈な太陽が、俺の胸の中にまで眩しい光を投げかけているみたいだ。
嬉しさに任せて俺はむちゃくちゃに走りだした。踊るように、跳ねるように手足を動かし、草木が青々と手を伸ばす中を家へと駆け抜けた。