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南の島の異邦人  作者: 沖川英子
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フェリーの中のストレンジャー 前編

 太陽ってのはいつだって乱暴だ。

 例えば朝。あいつは断りもなしにカーテンの隙間から部屋に入り込んできて俺のまぶたの上で暴れる。起きろ、起きろと跳ねまわって踊る。もう少し寝ていたくて、まどろみの中でうつらうつらしていたくて、ブランケットを被ってみても無駄。太陽はその中にも容赦なく入り込んできて、俺を眠りの縁から無理やりすくい上げてしまう。

 あるいは、夕方。あいつはやたらに顔を真っ赤にしてにこにこ笑いながら、海にずぶずぶ飲み込まれていく。去り際のパフォーマンスが派手だから、嫌でも思わず見てしまう。そして必ず見とれてしまう。

 昼間なんて正にあいつのための時間だ。空高くに舞い上がってやりたい放題、そこら中に真っ白な光を投げかけて得意になっている。こっちが眩しいのも暑いのもお構いなしだ。

 だけど、太陽を嫌いになれるわけがない。あいつがいるだけで、ずいぶんと気分が明るくなるんだ。

 だから俺は、終礼が終わりジュニアハイスクールの薄暗い校舎から外に飛び出た時、満面の笑みを浮かべていた。ひんやりと陰気な室内から出たときの陽の光ほど、わくわくさせてくれるものはない。校庭の鉄棒、ブランコ、青く塗られた鉄製の門扉、その向こうに広がる道路と明るい緑の葉をつけた街路樹、目に映る景色が強烈な光に照らされて白っぽく光っている。俺の黒い腕にもそれは降り注いでじりじりと肌を焦がす。その光景、感触、すべてが嬉しかった。

 今日で学校の前期は終わり。長い夏休みの始まりだ。

 黄色いマヒアの花の香りを乗せた甘い風が吹く。その中には湿った土の匂い。多分、スコールが近い。振り向いてみれば、学校の背にこんもりとそびえるガマア山の上に黒く重い雲がかかっている。雲の下がぼんやり煙っているのは、そこにとんでもない大雨が降っているからだ。この分だと、雲はあと少しでここまで流れてくるだろう。

 学校の荷物がなけりゃ濡れたって構わないけれど、布でできた鞄に雨が染みればノートや教科書やプリントがぐしゃぐしゃになってしまう。だから俺は走ることにする。右、左、右、左、ほとんど意識しないで足を運ぶ。アスファルトの道路に濃い影が跳ねる、滑る。両手を振って風をびゅんびゅんとお伴にして俺は走る。額にはふつふつと、汗。

 車に追い抜かれながらしばらく走っていると、やがて右側に大きな建物が見える。離島行きのフェリーターミナル。2階建てで真っ赤な屋根がよく目立つ。俺は足を緩めて、はぁはぁ言いながらゆっくりと歩いて行く。雨になる前に、なんとか辿り着けた。

建物の前にある広い駐車場を横切るうちに自然と呼吸が落ち着いた。けれど、体は芯から燃えている。滴り落ちる汗は体の中の熱と外の暑さのせいでなかなか止まりそうにもない。

ガラスの自動ドアが開いた途端、ひんやりと心地よい空気が俺を包み込んだ。自然にふぅっ、とため息が出た。

 ターミナルの入り口と反対側の壁はガラス張りになっていて、一部が切り取られたみたいに自動ドアになっている。外側にはコンクリートの船着き場、その向こうにはゆらゆらとたゆたう海。手前は緑の入った明るい青だけど、遠く白波の立っているサンゴ礁の向こうは混じりっけなしの真っ青だ。水平線の上にはわずかに雲が棚引いていて、その下にぼんやりと島影が見える。

 建物の中には、数は多くないけれど色んな人がいる。

俺と同じ褐色の肌に硬い縮れ毛、くりくりした目は、間違いなくこのパングマハ諸島の人。それから、真っ白い肌に金や茶色の髪の人たち。肌が黄色っぽくて目の細い人たち。俺たちパングマハ人なんかよりさらに黒い人もいる。みんな大きなリュックやトランクを持っていて、どこか興奮したようにお喋りしている。

 パングマハ人以外のほとんどは、よその国から来た観光客だ。きっと「トロピカルパラダイス」なんて煽り文句につられてやって来て、これからカハマ島やパバ島といった離島リゾートでゆっくり過ごすんだろう。数十年前に独立してから国を挙げて行っている観光開発と、年中無休の暑さのせいで、観光客の姿はパングマハ本島のどこに行っても見ることができる。

 汗をぬぐいながら空いているソファに座ると、隣にいたおばちゃん(パングマハの人だ)がふふ、と笑って俺を見た。

「坊や、すごい汗だね。走ってきたの?」

「そう、学校から」

「そんなに急がなくたっていいのに」

「だって、濡れたくなかったからさ」

言うなり、急にあたりが暗くなり、ターミナルの中に電気が点いたと思った途端にバタバタっとガラスを叩く大きな音がする。観光客が何事かとびっくりして外を見る。ガマア山から来た大粒の雨がフェリーターミナルを包み込んでいる。

「ほらね」

俺が言うと、おばちゃんはあらあらと目を丸くして、可笑しくてたまらないというようにくく、と笑った。

 パングマハ共和国は赤道ぎりぎりにあり、北半球にかろうじてひっかかっているような島国だ。だだっ広い南大洋なんたいようの真ん中に、主島のパングマハ本島を始め八つの大きな有人島といくつもの小さな無人の島々がこぢんまりとまとまっている。海の中にある島だからいつだって風が吹いていて、次々に生まれる雲が島の上を通り過ぎて行く。その時に雨を落としていくから毎日スコールが降るんだ。

 その降り方ときたら急なおまけに激しくて、まるで空の上の水道管が破裂したような勢い。雨粒が痛いと感じる事さえある。そのかわり降る時間は短くてせいぜい15分か、長くても30分くらい。雨上がりには太陽の光がきらきら輝いて、風景が洗ったみたいにつやつやになる。

 降り始めから10分くらいした頃だろうか、高速フェリーが波を蹴立てて港に入って来た。到着のアナウンスが流れると、濡れないように中で待っていた観光客はみんな立ち上がって、小走りに外へと向かう。俺も立ち上がり隣のおばちゃんにそれじゃ、と挨拶をして(おばちゃんは誰かを迎えに来たみたいだった)、フェリーへ向かった。

 自動ドアが開いた途端にザアアア、と激しい雨音が耳を打つ。フェリーまでの道筋に一応屋根はあるけれど、吹きさらしになっているから横殴りのスコールの前には意味がない。

 建物を出るなり俺は走り出した。鞄を豪雨の猛威から守りながらタラップを渡り、デッキで通学定期を見せて船内に転がり込む。そこでふぅっ、と一息つき、頭を振って飛沫を飛ばした。

 大体の離島にはそれぞれ学校があるけれど、どういうわけだか俺の住むママル島には学校と名のつくものが一つもない。多分、八つの中で一番小さくて目立たない島だからだと思うけれど。だから俺を始め、学校に通わなきゃいけない年代のママルの子供たちは、バスみたいに日常的にフェリーを使うんだ。乗る便も大体決まってくるから、自然とターミナルの人や船員とも顔なじみになる。俺が犬の仔みたいにぶるぶる体を振っている横を、顔なじみの若い船員の兄ちゃんが笑いながら通り過ぎて行った。

 もやい綱が外されゆっくりと動き出すフェリーの揺れを感じながら、俺は転ばないように慎重に歩きだす。

 フェリーは2階部分にデッキ席と船内席、1階には船内席だけがあって、大体の客は2階のどこかに行く。どの席も景色がいいし、デッキで潮風を浴びながら海を行くのはなかなか気持ちがいいからだろう。そのかわり結構混むから、俺はいつも空いている1階席を使うことにしていた。

 進行方向に向かって右、真ん中、左の3列にそれぞれ2席あり、その中でも右列の窓際最前席が俺の“指定席”だ。どんなときだって、フェリーに乗れば必ずそこに座る。他の客の頭やシートといった余計なものは一切目に入らず、海だけを眺めることができる、お気に入りの席だ。

 古びた階段をこんこんと踏みしめながら降り、1階席の扉を開ける。室内を見ると、このスコールのせいだろう、デッキに行くはずの客がこっちに流れて来ていて、普段だったら座る人がいない真ん中の列にも客がいる。左右列の混みあいもかなりのものだ。

 船室内に足を踏み入れて、俺はあれ、と呟いた。

 俺の“指定席”に黒い頭が見えた。

 この混み具合だ、先客に席を取られてもしかたがないだろう。そう頭では分かってるんだけど、それでも何だか横取りされたみたいな気分だ。俺は相手の頭をにらみつけながらずんずんと前に進む。古びてくすんだ赤いシートの間を縫って、真ん中列の最前席に座る。そいつとは、右側の座席一つと通路を挟んで隣り合う格好だ。荷物を置いてちょっと落ち着いて、そうして改めて相手を見た。

 頬杖をついて船窓の外を見ているから顔立ちまではよく見えないけど、肩の感じから女の人だということは分かる。俺よりは間違いなく年上で、多分20代くらいだろう。外国人の年齢ってよく分かんないから、自信はないけど。

黒い髪は硬く、短すぎてつんつんと立っている(縮れてしまう俺とは大違いだ)。半袖からのぞく腕は、白いけど少し黄色みがかった色をしているから、多分もっと北の国の出身だ。

荷物が多いからきっと観光客なんだろうけど、隣の席に乗っているのは高そうなトランクじゃなくてものすごい大きさのリュック。一緒に乗っている観光客とはどこか違う。

 たまに見かけるバックパッカーってやつだろうか。安く多くの国を回るのが得意な人たち。

 そう思ってみれば、他のひらひらしたワンピースやゆったりしたシャツを着た観光客よりも、そいつは質素で動きやすそうな格好をしている。黒いポロシャツに綿ズボンなんて、まるでこの辺の子供みたいだ。

 ヘンなヤツ。

 観察している視線を感じたのだろうか、不意にそいつは頬杖を解き、すっとこちらを見た。

 わずかにつり上がった切れ長の細い目が、真っ直ぐに俺を見る。

 深い黒、夜の闇よりもつややかな黒が俺を捕らえる。

 ほっそりと小さな顔。

 すっと通った鼻筋。その下の唇は、気のせいか微笑んでいるように見える。

 思わず息を飲んでしまう。

 目があったのはほんの一瞬のことで、その視線はすぐに外れた。俺は自分が呼吸を止めていたことに気づいて、ふぅっと息を吐いた。

 気分が落ち着かない。心臓がいつもより少しだけ早く脈打って、胸の中がちりちりと疼く。

 そっと見てみると、そいつはまた座席のひじ掛けに頬杖をついて、船窓の外に広がる海を眺めていた。黒く重い空と真っ青な海。白い飛沫をアクセントに、外の風景はゆらゆらと揺れている。

 まあいいか。

 何となく落ち着かないながらも、俺はシートにもたれて脚を組んだ。

 この船はカハマ、パバの二つの島を通って最後にママル島に着く。ほとんどの観光客は先の二島のどっちかで降りるから、“指定席”に座っているあいつもそこでいなくなるだろう。パバまでは15分。ママルまでは50分。ほんのちょっと譲ってやったっていい。

 鉄の船体越しに波のうねりを感じていると、段々意識がぼんやりしてくる。さっき思いっきり走った疲れが体の中で熾き火のようにくすぶっている。

 俺は目を閉じた。


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