5 (ジゼル)
ベッドの天蓋を割いて作ったロープは、降りてきたときのまま残っていた。ホッとして胸を撫で下ろす。だけどのんびりしては、いられない。もうすぐ校長が部屋を訪れると、鳥たちが知らせてくれた。
訪問を受ける前に部屋に戻り、ベッドの天蓋がないことの言い訳を考えなくてはならない。それとも、言い訳など聞かずに罰せられるだろうか?
それも仕方ないと思っていた。例え闇に閉じ込められようが命を落とすことはない。でも、放って置いたら鹿はきっと死んでしまう。天蓋を引き下ろすとき、罰せられる覚悟はしていた。
しかしなぜ校長? わたしの部屋に、なぜ校長? 今まで一度も来たことなんかなかった。わたし、何かヘマをした?
ただでさえ、即席のロープは脆く、今にも千切れそうなのに、気持ちが焦って巧く登れない。やっと窓に手が届きそうだ、もう一息だ、と思った時、大きな手に腕を掴まれ引き上げられる。燃えるような赤い髪がチラリと見えた。きっと校長だ!
「ごめんなさい、ごめんなさい」
部屋に降ろされると無意識のうちに床に突っ伏して身体を丸め、両手で耳を塞いだ。今日はどんな罰が下される? また暗闇に閉じ込めて、音も風も光もない場所に朝まで放置される?
「お願い、暗闇に閉じ込めるのだけはやめて」
世話係から、誰とも話してはいけないと言われているのをつい忘れて、ジゼェーラが懇願する。仕方ないと思っていても、できれば罰は受けたくない。
必死に頼んでいるのに、なんの反応もない。叱る声さえない。却ってジゼェーラは混乱し、恐怖の中で泣き叫ぶ。
「お願い、闇だけはイヤ、許して、お願い」
突っ伏したまま何度も懇願する。半狂乱と言っていい。だけど……誰も何も言わない、もうだめ、息が止まりそう。
「ジゼェーラ、誰がおまえを闇に閉じ込めたのだ?」
聞きなれない声がする。でも、混乱しているジゼェーラには意味が呑み込めない。意味を考える余裕がない。お願い、お願い、と震えながら、訴えるだけだ。
「落ち着きなさい」
肩に誰かが触れた。すると不思議と心が軽くなる。大丈夫だよ、と頭の中で語り掛ける声がする。そっとジゼェーラは顔を上げ、目の前にいる人を見た。低い姿勢でこちらを覗きこんでいる。
今日は二人も男の人を見た。いつも世話をしてくれる魔女たちとは違う低い落ち着いた声、広く張った肩、力強さを感じる腕の太さ。そしてこの人は、沼で会った人と同じ匂いがしている。男の人は皆、こんな匂いがするのだろうか?
「大丈夫、心配ない。落ち着いて話を聞きなさい」
燃えるような赤い髪、レンガ色の瞳、この人はきっと校長だ。こんな近くで見るのは初めてで、良くは知らないけれど、この髪に瞳の色、校長に違いない。世話係の魔女の誰かから、校長の髪や瞳の色の話を聞いたことがある。珍しいし、素晴らしいと言っていた。
だけど、へん、どこかで会ったことがあるように感じる。良く知っている顔に思える。
「誰か、飲み物を。この子の好きな飲み物はなんだ?」
見渡すと部屋には八人の世話係がずらりと並んで控えている。それなのに校長の問いかけに誰一人答えない。その様子に校長がため息を吐く。
「誰もこの子の好みを知らないのか?」
「お言葉ですが校長、わたくしたちはひと月と期間を限っての採用、ジゼェーラ様のお好みを知るには短すぎると存じますが」
「前任者からの引継ぎを徹底するよう命じたはずだが? だが今言っても仕方ない、そうだな、ミルクティーを用意するように」
すると中央のテーブルに湯気を立てるカップが二客、砂糖壺とともに出現する。
「ジゼェーラ、ソファーに腰かけなさい。わたしは校長のビルセゼルトだ」
立ち上がるのを手助けしようとすると、ビクリと体を震わせ、逃げようとする。慌てて手を放し、少し間を取って見守った。するとジゼェーラは自分で立ち上がり、恐る恐るソファーに腰掛けた。
向かい合ってビルセゼルトが座ろうと近づくとジゼェーラが腰を浮かせる。それに気が付いたビルセゼルトは、ちらりと居並ぶ世話係に視線を向ける。近づいても何もしないのだと知らせるために、ビルセゼルトはジゼェーラにこう言った。
「ジゼェーラ、ここに座ってもいいかな?」
涙をいっぱい溜めたまま見開いた眼で、ジゼェーラは頷き、座り直した。こちらの意図を知って、少しは安心したらしい。
それを確認したビルセゼルトは、隙のない、けれど優雅な身の熟しで魔導士のローブを翻すと、ジゼェーラの向かい側に座った。ジゼェーラはその様子を、怖がりも驚きもせず見ている。
(よし、大丈夫だ)
ジゼェーラを見てビルセゼルトは安心する。威嚇と魅了の術を掛けた今の動作に、この子は感化されていない。この子の魂は無垢なままだ。馬鹿な魔女たちに穢されていない。力を恐れる心も、力に憧れる心も生じていない。ただ、自分に向けられる暴力を恐れているだけだ。
ゆっくりとテーブルに置かれた砂糖壺の蓋を取り、ビルセゼルトはジゼェーラに問いかける。
「砂糖はいくつ、入れるかい?」
えっ? とジゼェーラが驚いてビルセゼルトを見る。
「遠慮せずに言いなさい。おまえのお茶に〝わたしが〟砂糖を入れたいのだよ」
なんと答えていいのか判らないのだろう、ジゼェーラはビルセゼルトを見詰めるだけだ。よく見ると、小刻みに身体を震わせている。他者との接触はこの子にとって恐怖でしかない。この子にとって他者は自分を虐げるものなのだ。
ビルセゼルトの怒りは爆発寸前だった。だが、世話係に任せきりにした自分にも落ち度があると、じっと我慢している。ジゼェーラのこの様子はどう見ても尋常じゃない。
厳しく躾けるように、とは言った。叱りつけるのも構わないと言った。だが、行き過ぎた体罰を許した覚えはない。
一年前、ジゼェーラを抱き締めた魔女を解雇して以来、甘やかさなければ良い、としていたものを、ジゼェーラの年齢も考えて、世の中に対応できる準備を、と方針を変えた。その時に出した指示がどこかで歪められていると感じずにはいられない。
「ジゼェーラさまは、お茶にはいつもお砂糖を二つお入れになります」
いつまでたっても答えないジゼェーラの代わりに世話係の誰かが答えた。余計なことを、とビルセゼルトは思う。わたしはジゼェーラから聞きたかったのだ。声が聞きたいのだ。
「そうなのか?」
ジゼェーラに確認すると、コクンとジゼェーラが頷いた。
それを見てビルセゼルトはカップに砂糖を入れて、そっとジゼェーラの前に押しやる。
「お飲みなさい」
そして自分のカップを取って、口もとに運ぶ。目の端で様子を窺っているとジゼェーラは素直にカップを手に取り、口に含むとニッコリした。
(ミルクティーはお気に召したようだ。母親と同じ好みと踏んだが、当たっていたかな?)
心の中でビルセゼルトが微笑む。ジゼェーラが素直であることにも満足する。
温かな飲み物が効いたのか、ジゼェーラの青ざめていた顔に赤みが差してくる。それでも泣き濡れた頬は乾いていない。
「ジゼェーラ、頬に触れてもいいかな? 涙を拭ってやりたいのだが」
するとジゼェーラはキョトンとした顔をする。何が腑に落ちないのだろう、ビルセゼルトが続ける。
「頬を濡れたままにしていては肌が荒れる。わたしに拭かれるのが嫌ならば」
と、ハンカチーフを取り出しジゼェーラの手の届くところに置く。
「これを使って自分で拭きなさい」
ジゼェーラはまた不思議そうな顔で、ハンカチとビルセゼルトを見比べている。
焦れたビルセゼルトが怖がらせるかもしれないと思いながらも、ハンカチを手に取り、ジゼェーラの頬に近づけた。ジゼェーラは逃げる様子も嫌がる様子もない。ただハンカチの動きを追ってじっと見ているものだから可笑しな表情になり、ついビルセゼルトを笑顔にさせてしまった。
するとジゼェーラがハンカチから目を放してビルセゼルトの顔を見、ホッとするのがビルセゼルトにもよく判った。ビルセゼルトの心に再び、世話係たちへの怒りと、ジゼェーラへの悔悛の念が沸き起こる。
きっと世話係たちはどんなにジゼェーラが泣いても許さず仕置きして、涙を拭いてやることすらしていなかったのだ。
髪は綺麗に手入れされ、着ている服も清潔だ。決められた保護装飾もキチンと身につけさせている。少なくとも見える範囲に痣や傷はない。手指も滑らかだし、爪もきれいに磨かれている。
目に見える所だけ取り繕い、目に見えないところは全く手を掛けず、いや、目に見えない心への虐待をビルセゼルトは確信している。これは、もしジゼェーラがわが娘でなかったとしても許せないことだ。
世話係たちよ、わたしの知るところとなった今、おまえたち、制裁を受ける覚悟はあるのだろうな? だが、善後策を練るのが先だ。おまえたちを罰しようと、ジゼェーラが受けた傷は治らない。沸々とした怒りを感じながらも、きっと自分は誰をも罰したりしないとビルセゼルトは感じていた。
それよりもジゼェーラ、今まで気が付かなかった愚かな父を許して欲しい。人任せにした結果がこれだ。真に責められなくてはいけないのはわたしに間違いない。どれほど我が手元に置いて日に日に変わっていくおまえを眺め、守ってやりたかったことか。
そうできなかったおまえの父と母も、おまえほどでないにしても辛かったと、いつか告げることが許されるだろうか。なぜこんな育て方をしたのか、いつか話せる時が来るのだろうか? その時おまえはわたしたち夫婦を許してくれるだろうか?
後悔のない人生はないというけれど、わたしの人生は後悔だらけだ。手元に置けないとしても、もっと頻繁におまえの様子を見に来るべきだった。ビルセゼルトの心のなかに様々な思いが次々に引き起こされて、それとともにジゼェーラへの愛を強く感じる。そして……
そして同時に、無念の死を遂げた双子の弟の顔を鮮明に思い浮かべる。それがビルセゼルトの、ハンカチを捨てて直にジゼェーラの頬に触れ、涙を拭いたいという衝動を止めていた。
「それで……部屋を抜け出して、どこに行っていたのかな?」
ジゼェーラの頬を拭き終わったビルセゼルトが質問を再開させる。無理もないがジゼェーラが緊張する。
「怒ったり、罰したりはしないから、正直に言ってごらん。わたしは怒っていないよ。心配しているだけだ。そして色々な事を、おまえから直接聞きたいと望んでいる」
「……」
ジゼェーラに迷いが見える。言葉を選んでいるのか? それとももっと別の事に迷いがあるのか?
「あの……」
やっとジゼェーラが口を開く。
「校長とはお話しをしてもいいの?」
「それは、わたしとは話しをしてはいけないと、思ったということ?」
再び込み上げる怒りを抑え、震えそうな声を隠し、穏やかにビルセゼルトは問いかける。そのビルセゼルトを真っ直ぐに見つめながら
「無暗に言葉を発するのは端ないと教わりました。知らない人と話をしてはいけないとも教えられました。校長とお話しするのは端ない事ではありませんか? 校長は知らない人ではないのだから、お話ししてもよいのですよね?」
と真面目な顔でジゼェーラが問う。
今度はビルセゼルトがそんなジゼェーラをまじまじと見つめながら
「ジゼェーラは誰とも話さず過ごしているのかい?」
と尋ねる。
「……お世話をしてくださるかたたちとは、たまにお話しします。言葉にしなくては伝えられない時だけ、できるだけ最小限にとどめて。あとは頷いたり、首を振ったりしています。だからお願いです、罰したり――」
「罰したりなどしない」
つい荒い声を出し、ビルセゼルトがはっとする。ジゼェーラの顔に怯えが見える。
「大きな声を出して済まない。おまえに怒っているわけではないよ」
自分を落ち着かせようとビルセゼルトがカップを手に取るが、カップはすでに空だ。
舌打ちしたいのを我慢して、自分でカップに紅茶を満たす。強い酒でも欲しいところだが、今はそういうわけにはいかない。
ジゼェーラを見ると、ビルセゼルトがカップを取ったのを見て自分のカップを手に取り、お茶を飲んでニッコリしている。母親にそっくりなその仕種と表情にビルセゼルトが癒される。
表情や仕草はなんと妻に似ていることか。離れ離れでいても、わたしたちはやはり繋がっている。そしてこうしてじっくり見てみると髪と瞳の色は妻譲りだが、顔立ちはわたしによく似ている。この子は紛れもなく、わたしと妻の間にできた娘なのだ。
「ジゼェーラ」
そっと呼びかけると、カップを置いてジゼェーラがこちらを真っ直ぐに見た。
「好きなように、好きな言葉で、誰と話してもいいんだ。まして話したい相手とは、どんどん話していいのだよ」
ビルセゼルトの言葉に、またキョトンとした表情を見せる。
「確かに、おしゃべりが過ぎるのは『端ない』と言われることもある。物静かであることを貴婦人の嗜みと言う人もいるだろう。だが、わたしはおまえにそんな事は望まない」
ビルセゼルトに向けるジゼェーラの眼差しは言葉を吸い込んでしまいそうなほど澄んでいる。
「そんな事よりもわたしは、おまえが自分で感じ、自分で考え、そして自分の言葉で語ることを、語れるようになることを望んでいる。おまえは唯一無二であり、おまえはおまえ以外にはなれず、おまえはおまえに他ならない」
言っている意味が判るかい? ビルセゼルトの問いかけに、ジゼェーラがコクンと頷いた。
そろそろ基礎学力を身に着けさせる頃だと、数年前にビルセゼルトが依頼した教師たちはすでに教えることがないとジゼェーラを評した。中には『父親譲りの聡明さをひけらかされても困る』と嫌味を言った者もいた。そんな相手には『己しか見ない者は前に立つ者の正体を見誤る』と呟いて帰した。
それにしても、とビルセゼルトは思う。わたしが七つの頃はやっと読み書きができる程度だった。皆そんなもののはず、と首をひねり、ひょっとしたら、と推測するしかなかった。封印した力が、体内に作用してそれが学習能力を高めている?
まだ五歳にもならない頃、他生物会話を取得していると世話係の魔女が驚いて報告してきたことがあった。
『ジゼェーラさまはどんな生き物とも会話なさっています。生き物どころか風や時には光とさえも』
青ざめる魔女に心配ないと答えたがビルセゼルトにしても予想外のことで、生まれながらの能力なのだろうと思うほかなかった。
生まれた時からジゼェーラには謎が多かった。母の胎から出たばかりの嬰児は自らの力をすでに発現させ、その身体は輝いていた。輝くというのは適切ではない。キラキラとジゼェーラを取り巻くのは光の結晶とでも言ったほうがよかった――そう、取り巻いていた。
力の封印術を使うと取り巻く光は消えたが、能力全てを封印できたわけではなかった。封印できたのはたぶん、他者に及ぼす力だけだ。自分の中で完結する力は封印できていないと感じた。
ビルセゼルトの妻、嬰児を産み落とした母親、南の魔女ジョゼシラも同じ見解だった。
『この子の力は封印できるものではない。魔女の力ともまた違う』
本来魔女の持つ力と魔導士の持つ力は別のものだ。
魔導士は自然界に存在する神秘力を集めて作用させるのに対し、魔女はそこに自ら持つ力を加えて作用させる。だから一般的に魔導士よりも魔女のほうが高位とされ、力が強いと言われた。
魔導士の中でも魔女より高位と言われるのはほんの一握りで、最高位魔導士と呼ばれた。現存する魔導士では南の魔女ジョゼシラの夫で、南ギルドの長、魔導界最大の魔導士学校学校長ビルセゼルト、北の魔女ジャグジニアの夫で北ギルドの長ホヴァセンシル、元南の魔女で前東の魔女ソラテシラの夫、妖幻の魔導士ダガンネジブの三人だけだ。
そして九日間戦争で命を落とさず今も存命であれば、その時の西の魔女マルテミアの夫サリオネルトはこの三人を上回っていたはずだと言われている。




