40 (ビルセゼルト)
森が騒いでいる。大騒ぎしている――
魔導士学校の執務室、書き掛けの論文から目を離し、ビルセゼルトが手を止める。何事かと窓から森を見ると、森が灰青色の光を発し、炎のように揺れている。警報ではない。だが、何かが起きたと報せている。
(ジゼル!)
届かないと判っていても、つい森にジゼルの気配を探す。夕食の後に会いに行こうと思っていたが、それでは遅かったか?
(いた……でも、森じゃない、ここだ。魔導士学校のどこか)
さらに気配を探る。探るのはすぐ近くの構内……
(マグノリアの木の下のベンチ……)
ビルセゼルトの胸が詰まる。
(今でもあのベンチで学生たちは、未来を語り、恋に悩み、自分が何者かを模索しているのか)
遠い日の思い出が蘇る。だが、今はそんな感傷に耽っている場合ではない。
(ジゼルが出てしまったから、森は騒いでいるのだろうか?)
いや、違う。マグノリアの木の下にいる子どもたちの様子、あれは何かあったに違いない。
ジゼルを取り巻くのはシャインルリハギ、アラネルトレーネ、デリトーネデシルジブ。しかも結界を張っている。
アランが何かをジゼルから聞き出そうとしている。耳を澄まして盗み聞く。
「グリン? グリンバゼルトがどうしたって?」
つい、ビルセゼルトから声が漏れる。そしてすぐさま姿を消した。
アランとデリスが張った結界はそれなりに使えるものだが、実践向けではない。簡単な攻撃術も受け止めきれない。
まぁ、話しが外に漏れないよう配慮した結界だろうから、そんなものか。結界内に姿を現さなかったのは、せめてもの思いやりだ。
アランはやはりなかなかのものだ。姿を現したビルセゼルトをすぐさま、殺気として感じ取っている。デリスはアランの様子から外に気を巡らせ、やっと部外者の存在に気付いた。シャーンは血の繋がりからか、父とすぐに気が付いた。あの娘は見た目と性格は母親そっくりだが、わたしの力をかなり受け継いでいる。将来が楽しみな魔女だ。
ジゼルは……大丈夫だ、怯えているだけだ。わたしを見て僅かに執着を見せた。それは許せない。消さなくてはならない。
この事態をどうしたらいいのか、それを考えながら、ビルセゼルトは教え子たちを見る。手助けをさせるため、森に連れて行くか?
アランはかなり力を使っている。残り半分といったところ。そろそろ帰して休ませたほうがいい。デリスは少しも消耗していない。でも、だめだ。アランを残しデリスだけを連れてはいけない。
体力のなさで全てを諦めかけているアランに、今それを突きつけるようなことをしてはいけない。体力は別のもので補えることを気付かせるのが先決だ。
「カラスの刻だ。食堂に行きたまえ」
ビルセゼルトの声は落ち着いていて、さぁ、これで今日の講義は終わりだ、とでも言うようだ。
デリスは『行こう』とアランを促した。シャーンはジゼルの肩を抱いて『こっちよ』と歩き始める。ジゼルはビルセゼルトに視線を残したまま、シャーンに従う。アランは不満を隠すこともなく、それでもデリスに従った。
ビルセゼルトが森に向き合うと藪がひとりでに開き、森に向かって道が続いた。その道を前を向いて真っ直ぐに歩いていく。ビルセゼルトが過ぎれば道は消え、元通りの姿に戻っていった。
やがて沼の畔に出ると、おもむろに水面を覗きこむ。深い緑色に輝く水は透き通っていても水底を見せはしない。
(どうしたものか……)
見つけなくてはならないものは二つ。グリンバゼルトそのものと、グリンバゼルトが魚になっていたとしたら、その原因。
(ジゼェーラの封印が解かれた形跡はなかった。だから彼女の力が暴走したとは考えにくい)
沼の周囲をゆっくりとした歩調で巡る。目を凝らして見たところで、金色の光も、魚の影も、何も見えない。
「森よ!」
向こうから話しかけてくるのを待っていたビルセゼルトだったが、業を煮やしてとうとう森を呼ぶ。
「わたしの息子に何をした?」
すると暫しの間をおいて、密かな笑い声と共に森が答える。
「次の王家の当主に、何を仇成そう」
「では、何があったか語るが良い」
「何もなかったぞ。おまえの息子は何もしなかった」
「どういう意味だ?」
「おまえが世俗から徹底的に引き離して育てた娘、災厄から世界を救うと運命られた娘、あの娘をおまえの息子は犯そうとした」
「な!?」
「ビルセゼルト、足元を探ってみろ。あの娘に与えた螺鈿細工の留め具が落ちているだろう。おまえが祈りを込めたその留め具が、おまえの娘を守った。沼は捧げ物として留め具を受け取り、おまえの願いを叶えるべく、娘を守るため沼に引き込んだ」
沼に沈んでいく時、おまえの息子は自分と愛しい娘を結界で包み込んだ。そして己の心を省みた。
なぜ、今、傷付けようとしている相手をも結界に抱きこんで、守ろうとしているのか。娘を傷付けようとしているのは屈折した思い。おまえへの憎しみを娘にぶつけて晴らそうとし、それはそのようは事では決して晴れるものではなく、まして本心はまだ彼女を愛しているのだと、思い知った。
だから水中に沈みこむ危険から、咄嗟に彼女を守ったのだ。
おまえの息子は自分を恥じた。
「そして思った。手の届かぬ月に恋をしているのは自分だと。僕は金色の魚だと。その思いがおまえの息子を魚に変えた」
「……森よ」
「どうした、ビルセゼルト」
「なぜ我が息子はこうもわたしを憎むのだろう」
「なぜおまえにそれが判らぬのか、わたしにはそれが判らない」
「みながわたしを賢者と言うが、わたしは自分でも恐ろしくなるほど愚かなのだ。この愚かさで、幾度も深い後悔を味わっている」
「ビルセゼルトよ、過去に囚われるのはおまえの弱点だな。それほどまでにサリオネルトが忘れられぬか」
「……」
「わたしはおまえの何千倍もの時を過ごしてきた。人の一生は短く、儚い。時の流れを顧みれば一瞬とも思える中で、なぜそうも後悔ばかりする? 恐れるな、ビルセゼルト。おまえの言う後悔は全ておまえの恐れが生み出していると知れ。時は取り戻せない。過ぎたことは変えられない。変えられるのは未来のみだ。おまえとて判っているはずだ」
「わたしの恐れ? わたしは何を恐れている?」
「自分の判断や仕業で、取り返しのつかぬことになる事態。おまえの妻がおまえを情けないというのはあながち間違いではない」
「取り返しが付かぬ事態を招くことを恐れて何が悪い?」
「なのにおまえは後悔する。矛盾しているではないか」
「それはわたしが愚かだから……」
「違うぞ、ビルセゼルト。判断を間違えたことなど、おまえに一度でもあっただろうか? わたしは言おう。おまえは間違えたことなどない」
「違う! わたしは間違えてばかりで――」
「前を見ろ、ビルセゼルト。前を見れば判る。例え結果がどうであろうと、悩み、迷い、苦しんだのちに、出した答えに間違いなどない。それはビルセゼルト、おまえのみならず、すべての人に言えることだ」
「だが、しかし!」
「いいか、人はいつも選択を迫られている。そして必ず選ばなくてはならない。選ばなくては前に進めないからだ。どんな選択をしても、前に進んでいる。それが生きるという事だ。生きるという事に、間違いなどない」
「……」
「グリンバゼルトを見つけるには時間が必要だ。探す時間ではない」
「なんの時間だ?」
「なぜ息子がおまえを憎むのか。おまえはわたしに訊いた――その答えを、ビルセゼルト、おまえが見つけ出せれば、息子はおまえの元に戻るだろう」




