３４ （ジゼル）
今夜は夜鳴鶯も鳴いてない。泣いているのはわたしだけ。時どきフクロウが『泣いてみたってどうにもならぬ』と、判ったようなことを言う。
グリンに嫌われた。誰かに嫌われたのは初めて。好かれなかったことはいっぱいあるけれど、嫌われていると感じたことはなかった。
それともみんなわたしを嫌ってて、わたしが気づかなかっただけ？ みんなと言ってもシャーンとグリン、それとビルセゼルト以外はお世話係の魔女しかいない。
魔女たちがみんな、わたしを嫌っていても不思議じゃない。わたしがそれに気が付かなかっただけ。気付いてなかったから辛くなかった？ よく判らない。
魔女たち……いつも違う人、何人かが順番に来ているのは知っていたけど、顔も名前も覚えていない。毎朝『誰だっけ？』って考えたけど、いつか考えるのをやめてしまった。きっとわたしを嫌っている。わたしも魔女たちを好きとは思っていない。
ビルセゼルトが来てから怒る魔女はいなくなったけれど、やっぱり誰もわたしに近づかない。わたしを扱いかねている。
ジゼェーラ様とわたしを呼び、お人形を大事にするようにわたしに触れる。何かあったら仰って下さい、と言うけれど、言えばきっと眉を顰める。
ジゼルと呼んでほしい、そう言っても『それはできない』と、きっと言う。ジゼルは街での通り名。身分ある人を呼ぶのに使うは憚られる。よほど親しくなくては使わない。そう教えてくれたのは誰だった？
わたしを抱き締めてくれた、あの魔女だ。『内緒』の楽しさを教えてくれたあの魔女だ。内緒よ、と言って、わたしをジゼルと呼んでくれた。でも、あの魔女もいなくなった。
わたしが嫌いだったから？
シャーンの事をビルセゼルトが寄越した話し相手と思ったけれど、それは違うと今日、知った。シャーンは自分の意思でわたしに近づいた。自分がわたしの姉と知っていて近づいた。姉だからわたしを好いている、それを否定しなかった。好きだと思うわたしに会いたいと、きっとここに来た。
世話係の魔女たちがわたしを嫌っても、多分わたしは泣かないだろう。そうか、と思うだけ。でも、シャーンやビルセゼルトがわたしを嫌えばわたしは苦しむ。きっと悲しくて辛くて苦しくて、息をするのも難しくなる。
だって、グリンに嫌われた今、わたしは何もできなくなるほど苦しい。さらに二人に嫌われたら、きっと息が止まってしまう。心臓が止まってしまう。あれ？ それって死んでしまうという事？
好きな人に嫌われるって、こんなに辛い事なんだ。泣いても、泣いても涙が出てくる。何度も何度も思い返す。わたしの何がいけなかったんだろう？
二度と来るなとグリンが言った。会ってはいけないとシャーンが言った。グリンはわたしの兄で、だから会ってはいけないの？ 兄って会ってはいけない存在？
違う。グリンはわたしを番の相手と見た。それはいけないこと。グリンは心の中からわたしを追い出さなくてはいけない。わたしを見ればそれが難しくなる。グリンが辛くなる。だから、グリンのため、グリンに会ってはいけないんだ。
シャーンが帰ってから、出窓でずっと空を見ていた。夕食の世話をしてくれた魔女は、そんなわたしをいつもの事と何も気づかず帰って行った。
やがて陽は落ち夜が来て、暗い空に星が瞬く。月が太陽を追って姿を消せば、見上げる空は星ばかりだ。
散りばめられた星々はいつもと変わらず煌めいている。いつもと変わらず美しい。でも、なぜ？ それが悲しい。
部屋を一階に移した時にビルセゼルトが作った庭に、ハリネズミやアライグマが顔を見せた。そして、何も言わずに帰って行った。
星はときどき滲んで煌めき、すぅーっと流れて消えていく。流星が今日は多い。それ以外はいつもと同じ。
なんでいつもと同じなんだろう？ わたしはこんなに悲しくて、世界が変わってしまったと感じているのに。
そしていつもと同じで空が白んでいく。今日も晴れだ。そして風もない。
東の地平に感覚を向けると、暗い中にゆらゆら揺れながら踊り子たちが横に広がって登場した。鳥たちが一斉に囀って喝采を送るのが聞こる。
徐々に明るくなる中で舞台中央に踊り子たちが集まってポンと跳ねた。同時に鶏がファンファーレを響かせ、今日の太陽が舞台に昇る。いつも通りの夜明け。いつも通りの美しい夜明け ――
だけどわたしはいつも通りじゃない。昨日のわたしと今日のわたしは違う。グリンが好いていたわたしから、グリンが憎むわたしになった。なのに世界は変わらない。なのに世界は美しいまま。
そうか、わたしはちっぽけなんだ。わたしが変わったところで世界は変わることがない。わたしの苦しみなど、世界にとってはどれほどのものでもない。
いつもの時間に世話係の魔女が来る。そう、いつも通り。でも、少し違った。
「一睡もしていないのですか？」
ベッドを見て魔女が叫ぶように言った。そうだ、忘れていた、ベッドは昨日の朝、整えられたままだ。
「なにがあったのです？ まぁ、泣いているのですか？ 目が酷いことになっています」
魔女は大急ぎでバスの用意をし始めた。
「とにかく、バスを使って。それから少し目を冷やしましょう」
言われるまま入浴し、出された夜着で出ていくと、朝食の用意が整っていた。
「少しでも召し上がって。好きなものだけでも構いません。それと、食べにくいかもしれないけれど、これを目に当ててください」
濡らしたタオルを渡される。
「夕食の後に、ビルセゼルト様がいらっしゃるそうです。お忙しい中、時間を作って会いに来られるのです。そんな顔を見せては悲しまれます。心配させてはダメですよ」
魔女はわたしが食べ終わるのを待っていた。今までになかった事だ。
「カラスの刻が少し過ぎた頃、また来ます。夕食はちゃんと召し上がってくださいませ。そのあと、服を着替えましょう。お父様に会うのに相応しい服をお選びくださいね。わたしが来るまで、ちゃんと眠るのですよ」
朝食をほとんど残したわたしに、お腹が空いた時のためにと、戸棚に砂糖蜜を掛けたマフィンを入れておくと言った。
「眠るのが罰？」
尋ねるわたしの顔を魔女がじっと見つめた。そしてわたしの瞼を撫でた。
「罰なんかじゃありません。今、あなたに必要なことだから眠るのです」
魔女がいつ、部屋を出たのかわたしは知らない。気が付くと時が過ぎてヒヨドリの刻が近かった。
今日もグリンはあの沼に来ただろうか？ わたしを描きたいと言ったけれど、それはやめて、やはり沼を描くことにするだろう。元のグリンに、グリンは戻らなくてはならない。
グリンに会おう、と思った。沼に行こう。もし、グリンがいなかったら、グリンは沼を、森を忘れたのだと思おう。
二度と来るなと言われたけれど、会ってはいけないと言われたけれど、わたしはグリンに伝えたかった。わたしは男になる、と。最初から男になると言えばよかった。わたしが男なら、グリンはわたしと結婚したいなどと思わなかったはずだ。女になると決めたら考える、なんて言ったから、グリンはわたしを女と見たのだ。
謝らなくちゃいけない。わたしが間違えたから、グリンを苦しめた。わたしがいけなかったのだ。
